まだ新聞記者の駆け出しのころだった。市役所の記者室で良く「伊藤ちゃん」と声を掛けてはかわいがってくれた読売新聞や産経新聞の先輩記者たちがいた。あのころは記者室に記者たちがそろうとマージャンばかりをやっていた。だが、遊んでいても翌日の紙面を見ると胸のすくようなスクープや心温まる街ダネが大見出しと共に紙面に踊り、こちらは首を傾げた。「遊んでばかりなのにこの人たちには天から記事が降ってくるのか」とその神業のような仕業に恐れ入った。不思議に思って聞いたことがある。先輩の一人は「伊藤ちゃん。記者という名刺で仕事するようになってはいけないんだ。名刺を差し出して『さあ。おれは新聞記者だ。喋ってくれ』では本当の話は聞き出せないものだ。相手に信頼されて、初めていい情報というものが入ってくる」と諭した。これは今でも自分のいい教訓として生きている。
六郷町の「学友館」は元六郷小学校を改築する際に町の象徴的な建物だった洋風の正面玄関を文化遺産として残しておきたいと1986年に当時の建物そっくりに再現されたものである。図書館を核に「民俗資料館」があり、そして特別展示室が設けられている。小学校の校長を退職後、そこの専門員として勤務されている高橋悦央さん(62)とは何かの企画展があれば「PRをお願いしたい」と依頼を受ける程度だったが、昨年暮れに高橋さんを訪ねたら「伊藤さん。面白いものがあるんですよ。2・26事件の時に青年将校たちの銃弾で暗殺された渡辺錠太郎教育総監の死を六郷小学校の子どもたちに報せたいと送られてきた大野要少将の手紙があるんです」と言われた。
最初は何のことかとキョトンとしていたが、掛け軸に装丁し直された古い手紙を見せられた時、直感でこれは何か偉いものが隠されているなと思った。しかし、その日は他の予定も入っていた。このため詳細な話は聞けないまま帰ってしまった。年末になって、その高橋さんから自宅に手紙が送られてきた。渡辺大将と六郷小学校4年生の「いづみ会」の子どもたちとどんな縁があったのかを高橋さんは書いて送ってくれたのである。高橋さんは単なる学友館の催し物のピーアールを自分に依頼するだけではなく、記者としての自分を信頼し、ケンニチのためにいい情報を提供したいと思ったのだろう。
私は感謝の思いで胸があふれ、正月休みが終ると同時に学友館に電話を入れた。高橋さんは「今は手元に資料はないけどこれから自宅に行って持ってきます」と言う。お手数をかけることになったが、「それじゃあ。これから六郷町へ向かいます」と電話を切った。そして学友館の事務室に入ると応接テーブルの上には渡辺大将と大野要少将関係の資料やこの二人と子どもたちとが結ばれる切っ掛けを作った当時の子どもたちの教師・川越重昌氏の関係資料がどさりとあった。「さあ。これでどうだ」と言わんばかりの高橋さんの優しいふくよかな笑顔がそこにはあった。
資料に目を通し、ノートにメモを取り、山のような資料の中から必要なものはコピーを取ってもらった。大野要直筆の手紙は達筆で流れるような文字だったが、戦後生まれの自分にはとても解読できる文体ではなかった。それを解読した文字も手書きであり、所々に読み切るのに難解な漢字が点々とし、解釈は困難を極めた。高橋さんと時間を掛け、何度も何度も読み合わせしては漢字の解読に当たった。そして次に入ったのが、川越氏と渡辺大将、大野少将との関連取材だった。時の陸軍大将、陸軍少将がいかに人情に厚い軍人だったとは言え、東京から遠く離れた田舎の小さな小学校の子どもたちと「小父さん」という関係の契りを結ぶということが不思議でたまらなかった。
とにかく川越氏という教師の実像をつかまなければと高橋さんの話に耳を傾けた。高橋さんはユックリと言葉を運び、「川越先生を語るにはこれが一番でしょう」と一冊の冊子を手元に置いた。それは「竹村清次の出会いの記録 ああ無情を越えて」だった。高橋さんは「竹村さんこそ川越先生の教え子であり、この先生への感謝の思いからこの冊子が生まれたと言っていいでしょう」と話す。ページを開くと「川越先生との出会い」「先生の弁当とフカシ芋・春夏冬」という小見出しがあった。
私は「先生の弁当とフカシ芋」に目を奪われてしまった。「我が家では3男が生まれ3人兄弟になって、ますます生活が苦しくなってきて、食べ物は鍋の中はすぐ底をつく状態の連日だった。水だけ飲むのが2日も続くと本家へ行くというようなありさまで、学校どころではない」と赤貧洗うがごとしの当時の生活を綴った文章がそこには流れていた。
竹村さんが小学校4年生だった昭和8年(1933年)当時と言えば、日本人の多くがその日その日の生活に追われていたはずである。農家では娘を売り、それで得た金で生活の糧にしていた。貧しさのどん底と言っていい時代であった。竹村さんの母もその生活苦で精神に異常を来し、家事は子どもたちの手にゆだねられていた。生活は父親の行商によって支えられていたが、その父親が行商に出ると5日も2週間も家を留守にする始末。食べ物は底を突き、ご飯さえ食べれないありさまだったと竹村さんは書く。まさに「学校どころではない」のだった。
今で言う“不登校”どころか「学校へ行きたくても行けない家庭の事情」があったのである。竹村さんは川越先生との出会いを書く。(原文は方言のため読みやすいよう一部を書き直した)
学校を休んでいる自分を心配して竹村先生が放課後、自分の家へ飛んできた。
「清次、どうしてそんなに学校を休むんだ」
「オド、家さマダコネ(お父さんがまだ家に帰って来ない)」
「清次、なんだ。力っけのない声だな」
「んだ。したて(だって)昨日からまんま(ご飯)食ってないもの」
先生は戸口で家の中を目を透かして見回してから外へ出ていった。近所でいろいろ聞いたらしく 「清次。かわいそうだな。仕方ねえなあ(気の毒だなあ)」
「先生良く分かった。まず少しぐらい遅れても学校へ来い。今日は我慢してな」と言い残して先生は帰った。先生の手ばかりキョロキョロと見ていた弟は、先生が帰ると
「腹減った(お腹が空いた)」
「んだべ(そうだろう)、待て。米っこ少しあるからいま菜っ葉入れておかゆ作るから」
次の日、学校の小使さん(校務員)がお昼前に迎えに来た。
「清次君、川越先生からおめどこ(君を)連れてきてくれと頼まれたから迎えに来たよ。学校さ行こう」
教室へ行くと先生が
「清次、来たか」と低い声で辺りに聞こえぬように
「清次、オド(お父さん)はまだ来ないか」
「うん。夕べいくら待っても来なかった」
「んだか(そうか)。あと1時間勉強すれば昼間(正午)だ。腹へっただろうから先生の弁当、小使室に置いておくから小使さんからもらって食え」
「先生。せば先生はなんとする」
「心配するな。先生は腹いっぱい食べてきたから大丈夫だ。清次。オド、いつから家に来ないんだ」
「今日で一週間以上になった」
「そうか。清次。今日は学校へ来たことだし、オメ(君)勉強がだいぶ遅れているから先生と残って、先生が黒板に書いたところを勉強せ」
そしてその勉強を終えたころ先生は
「清次。お金をやるから学校の前の木村屋さ行って蒸かし芋買ってこい」
小学3年の冬の季節の雪景色、寒さ厳しい北国でも、先生の情愛の深いことは私にとって救いの神さまにほかならなかった。無情の世から恵みの神に助けられたような先生との出会いだった。
「清次。残ったらこの蒸かし芋、弟たちへ食べさせなさい。清次。学校遅れてもいいから、なるべく学校は休まないで来い。まだオド帰らなかったら先生に教えなさい」
私は蒸かし芋の残りをもらって帰った。先生にはこうして小学校を卒業するまで面倒をみてもらった。その後、私の精神面でも年をとるごとに素晴らしい出会いであったことを思い、感謝の気持ちはペンで表わすことができないものである。貧乏はしたけれど、神が与えてくれた出会いには恵まれたと思う。
と竹村さんは感謝の言葉を述べる。夏休みには仙北町高梨の先生の自宅へ一週間も泊まったこともあったという。その上、厳しい冬を前に馬小屋よりも酷かった清次さんの家を先生は訪ね炭俵で雪囲いまでしたという。川越先生と清次さんとの出会いの下りを読み進め、高橋さんの話を伺い、教育とは愛情そのものだと感動した。そしてこのような冊子を目にする機会を与えて下さった高橋さんの取材ネタの提供にも感謝した。ありがとう。
その川越先生は85歳の今も東京で健在だと言う。竹村さんのこの「出会いの記録」は昨年4月に限定100部で発行された。その編集を手伝った一人が高橋さんだった。いま世の中は殺伐としている。小学校の子どもが学校で何者かに殺され、横手市でも5日未明にはスナックの女性従業員(23)が34歳の男にナイフで腹部を刺され殺されという事件があった。殺人というおぞましい事件が新聞紙面に載らないという日がむしろ珍しいくらいだ。女性を刺した男の動機は殺された女性を「独占したかった」という身勝手な思い込みからだった。食うや食わずの生活だった竹村さんの子どもの時代に川越先生という教育者がいた。素晴らしいお話しを聞けるチャンスを高橋さんから頂いた。高橋さんのおかげで「新聞記者は『記者』と言う名刺で仕事をしてはいけない」という助言を思い出した。これからも人と人のつながりを大事にしたいと思った。(写真は大曲市角間川町の旧家・最上邸で)