机の上は相変わらず紙の山だ。整理しても整理しても次から次へと紙はたまるばかり。記事を書くには取材した先からもらった資料のコピーとノートに控えたメモが原点となる。原稿を書き終えたらコピーの類はそのまま捨てたらいいのだが、投げかてから大慌てでごみ箱をあさった経験も多い。それだけにおいそれと紙くずとして処理できない。それでも今、机の上にたまった古い書類などは少し整理した。だが、目の前を見るとどこをどう整理したと言えるのかうんざりするほど紙はたまったままだ。
昨年の暮れ大曲市内の公的施設を管理されている責任者の方から1万円相当の「図書券」を頂いた。もらう理由が無かっただけに何度か断ろうとしたが「県南日々さんからも記事でお世話になっているし、購読料だと思って受け取って下さい」と言われた。「購読料」。そう言われると嬉しさの余り、思わず頭を下げて受け取った。そして早速、書店に飛び込んで数冊の本を購入した。その一冊に随筆家で俳句作家としても知られ、1997年8月に食道がんで亡くなった江國滋氏の闘病日記「おい癌め酌みかわそうぜ秋の酒」と言うのがある。
その本の題名に目がくぎ付けとなってしまい買い求めたものだが、自分の体の中に発生したがんという一種の腫れ物を江國氏は「おい癌め」と憎しみを込めて敬称しながらも、まるで自分の体の一部としてがんを許容し、慈しむかのように「酒を酌み交わそうか」とうたった。すさまじい強靱な精神力に胸が締めつけられたが、その文体と句から感じられたのは江國さんは悲嘆の中でも「がん」を冷静に見つめた人だったと言うことだ。そして手術を受け、その後も長い間、術後の痛みでもがき苦しみながら俳句を作り、闘病日記を毎日欠かさず几帳面に書き続けた。
ビールと酒、タバコをこよなく愛した人だったようだ。がんの告知を受けた夜も「残寒やこの俺がこの俺が癌」と詠んだ。それでもショックによる脱落感に全身の力が抜けていくような中でビール、ワイン、お酒を飲んで見舞いに来た友と過ごしている。「よし、今日から退院(できれば、だが)まで、闘病俳句を作り続けることにしよう」と江國氏は自分に言い聞かせ、それを死の直前まで実行した。
癌告知されしその日の短さよ
江國氏ががんの告知を受けたのは97年2月5日だった。知り合いの病院で内視鏡検査を受けた結果、診察を担当した医師は江國氏に「高見順です」と告げる。江國氏は一瞬意味が分からず「は?」と問い返す。もう一度「高見順ですね」と医師。反射的に「癌ですか」とたずねたら「食道がんです」とあっさり告知し、「オペをしなければいけない」と手術の宣告である。
立春の翌日に受く癌告知
豆撒いてより3日後にわれは癌
MRIやCTスキャンの検査待ち時間の合間にも次々と句が沸いては手帳に書きとどめる。深い深い底無しの苦悩に陥りながらも句は沸いてくる。その冷静さ。しかし、節分に豆を撒いて家の中の鬼を追ったまでは良かったが体の中に巣くったがんという鬼は追い出せなかった。どんな気持ちでこのような俳句を江國氏は書いたことか。
江國氏は友人の医師の紹介でがんの治療では国内でもトップクラスの技術集団が控える「国立がんセンター」の紹介を受け、そこへ入院する。それまでの検査で得たMRIやCTスキャンのフイルムを前にしたがんセンターの医師はそこでも再び「明らかな食道がん」であることを告げ、しかも「進行性で食道の粘膜を破っている」とかなり深刻な状態であることを語る。治療するとすれば9〜10時間もの大手術と言う。そして医師からは手術を受けるためには「タバコをすっぱりと止めてもらいたい」と禁煙の宣告も受ける。
「1時すぎセンターを出る。銀座コアビル地下の和食の食道で昼食、ビール1本と日本酒1合。ビールのみつつタバコ一服、食後に一服、タクシーの中で一服」「タクシー乗り場の向こうの公園で、いよいよ今生で最後の最後の一服を、心ゆくまで吸う。指先がこげるぐらいまで短く吸う」。
今生で最後の一服冬日向
自分もタバコを吸うだけに身につまされる日記と句だった。「ビール飲みつつタバコ一服、食後に一服」。このタバコの味わいはたまらない。原稿に詰まるとこちらもタバコを一服吸う。江國氏のタバコへの愛着、ビール、お酒への執着。飲んでも吸っても江國氏の頭は真っ白だったかもしれない。不安で胸が一杯だったことだろう。タバコを止めた後は禁断症状との闘い、そして不安と恐怖感との闘いが続く。
毛布に鼻うづめ「癌め」とののしる夜
見をさめかと思ふわが家を出れば春
春ともし遺書を書かうか書くまいか
「癌め」と自宅のベッドの中で毛布に鼻を埋めののしり泣いた夜だったかもしれない。そしてもう見納めかと不安を抱いて出た我が家。入院してからは万が一に備え遺書を書こうかと弱気にもなる。そんな苦悩との闘いの中、心配された手術は一応、成功する。しかし、術後も江國氏の闘病、苦痛は続く。食事も水も飲めない。チューブを使っての栄養補給。
残寒や「こんな病気にだれがした」
退院したら浅蜊も身までちゃんと食はう
食事も水も飲めない体となってしまった江國氏の病気への恨みつらみ、そして食べ物への執着。退院したら味噌汁の浅蜊の身も今度はちゃんと食べようと夢を燃やす。そして
死神にあかんべえして4月馬鹿
と言ったユーモアを交えた句を作った。しかし、回復が期待されるかと思ったのも束の間、再手術、再手術と病魔は江國氏を襲う。結局、食道がんは取り除いたものの癌細胞が血液の中に入って回り始め、最後は右腕の骨に転移したがんで江國氏は入院してから半年目の8月10日、62歳の生涯を閉じている。
読んだ後はこちらも気持ちがかなり滅入ったが、がん治療という点で深く考えさせられた。国立がんセンターという我が国のがん治療の最高峰で江國氏は治療を受けたのだが、果たして手術したのが良かったのかどうか深い疑念が沸いたのである。これは本当に自分だけの見解と解釈してもらいたい。外科医の先生たちからはお叱りを受けることになるかもしれないが、江國氏のような困難ながん治療の場合、果たして手術によって病巣を取り除くという積極的な治療が全てなのかという疑問である。場合によっては手術というよりも内科的な治療で病気の進行を少しでも遅らせ、患者のがんによる痛みを取り除くことに最善を尽くし、残された少ない時間を自宅や旅先で有効に使わせるという方法はないものかという点である。
治るだろうか。手術に一縷の希望を求めて絶え難いほどの苦しい検査にも我慢し、そして手術を受けたのだが、結局は術後の長い苦闘、そしてやっと食事を摂れるまで回復の兆しが見えたと思ったら、再び同じ手術の繰り返しとなって同じ苦しみとの闘いが繰り返される。そしてまた手術、さらに再手術。退院とは名ばかりの処置で家には帰ったものの既に江國氏の生命は風前の灯(ともしび)。このようながんとのと闘いを強いるのが果たして治療と言えるだろうか。
江國氏を治療した医師の側からもかなりの苦悩があったことも残された日記からは伺い知ることが出来るが、治療する側は患者に「手術かそれとも体の自由が効く限り、自分の時間を有効に使ってみる方法もある」と身を引く勇気があってもいいのではないだろうか。この辺の疑問を知り合いの内科医に率直に訪ねたら「ええ。私たち内科医はそういう考えもあるのですが、外科の先生たちはどうしても切りたがる。そして私たちの手から離れた患者さんのこととなると中々、言いにくいものなのです」と言いながらも「私たち内科医ももっと勇気を持って発言するように努力したい」との答えを得た。そのような考えがもっと広がるのを「おい癌め酌みかはそうぜ秋の酒」を読んで思った。皆さん、健康にはくれぐれも注意しよう。