人は何ら見返りを求めず地域の人のために尽くすというのは難しい。しかし、そのような方と記者は22年前に出会った。
会いたいと思った。南外村の伊藤又四郎さんである。もう81歳になられた方である。昨年の正月、又四郎さんから手紙を頂いた。手紙は又四郎さんとその友人が協力しあってまとめた「南外村の方言集」が昨年、自分の勤務している新聞の「元旦号」の1ページを飾った事へのお礼だった。しかし、単なるお礼の手紙だったらいいのだが「(22年前の)あの時に伊藤さんがお会いになった中学1年生の孫はもう数えで35歳になり、老輩も数え82歳となりました。長いことごやっかいになりました。いつも足手まといばかりなっております」との手記はまるで自分との永久の訣別を告げているような気がしてならなかった。
「又四郎さんはどうしているんだろう」。いつもそのことが気になった。すぐに返事を出せば良かったのにグズグズしているうちに時が流れ、1年が過ぎてしまった。そこへ先月末、南外村の今野時雄さんという方から自宅へ郵便物が送られてきた。目を通すと歌集「楢岡」だった。そして添えられた毛筆による手紙には「309号をもっていろいろな都合により『楢岡』を休刊のやむなきに至りました。私達の力不足による結果ですのでご容赦下さい。伊藤又四郎さんからもよろしくと言っております」とあった。翌日、すぐに今野さんに電話した。又四郎さんのことが気になったのである。
「又四郎さんはどうされてます。お元気でしょうか。実は昨年、手紙を頂いたのに返事も出さず失礼してしまったのです」と謝罪した。今野さんは又四郎さんの様子を語った。心臓も弱まり、自転車には乗らないよう医者から注意されていることや目と足がだいぶ弱ったことなど又四郎さんの近況を語った。そしてその又四郎さんがガリ版刷りの歌集が完成しては自転車で短歌会員宅を訪問しては配布していたが、もう力の限界を感じたことからやむを得ず歌集発行を休刊することになったという経緯も聞いた。
今野さんから又四郎さんの電話番号を聞いて電話した。最初の電話は午後2時ごろだった。息子さんのお嫁さんだろうか。若い声で「おじいちゃんは今、昼寝していて」。「又四郎さんはお元気でしょうか」。「ええ」。「ならまた明日にでも電話を掛け直します」と新聞社名と自分の名前を伝えて電話を切った。そして翌日夕方、再び又四郎さん宅に電話を入れた。「昨日、電話を入れた伊藤です。又四郎さんとお話しをしたいのですが」。再びお嫁さんが電話に出て「はいはい。ちょっと待ってたんせ(下さい)」。しばらく間を置いてから「もしもし」と又四郎さんの懐かしいしわがれた声が聞こえた。心配していたが又四郎さんの声にはまだ張りがあった。「ああ。又四郎さん。伊藤です。なーんだ。元気そうじゃないですか。良かった。良かった」と声が弾んだ。又四郎さんは「なーんもだ。体も弱ってしまってよ。元気ねー」。「そうか。でも良かった。声が元気だもの。又四郎さん。会いたいねー。これから行くから自宅にいる」。「来てけるかー。そうかー。待ってる」。
80歳を超えた方を直接、名前で呼ぶのは失礼だが又四郎さんはどうしても名前で呼んだ方がこちらにはピーンと来る。又四郎さんはそういう人だ。又四郎さんと初めて会ったのはもう22年前に逆上る。東京の出稼ぎ先から自分の勤務している新聞社に手紙があって、その内容は又四郎さんが出稼ぎの人たちに「故郷の便りを届けたい」と私費をはたいてガリ版刷りのミニ広報「赤平バス停便り」を発行。そのミニ広報紙が「私たちのように家族と遠く離れて東京で出稼ぎをしている者にとってはどんなに嬉しい便りになるか。どうぞ伊藤さんを取材して紹介していただけないでしょうか」。確かそのような手紙の内容だったと記憶している。
その出稼ぎの方から頂いた一通の手紙を手に又四郎さん宅を訪ねた。ふくよかな本当にこう書いては失礼だが、仏さまのような穏やかな人柄が第一印象だった。22年前と言うと、自分もまだ31歳。やっと新聞記者らしく取材も原稿も迷うことなく書けるようになっていたころだった。又四郎さんを取材して書いた記事は「その名は赤平バス停便り
村の話題まとめたミニ広報 出稼ぎ者に送る」の見出しでトップを飾った。
昨年、その又四郎さんから頂いた手紙には「伊藤さんのあの記事のおかげで後を追うように秋田魁や秋田読売でも一斉に報道され、緊張したことを忘れません」とあった。以来、又四郎さんは何かがあれば自宅に歌集を送ってきたり、村の人たちの様々な話題を知らせてくれるようになった。取材に行けば必ず取材先に又四郎さんも居て「良く来てけたな」とねぎらった。
しかし、ここ10年近くは又四郎さんと会うこともなく過ごした。それでも忘れたころになると又四郎さんやその友人たちから何らかの書き物が自宅に送られ、その都度紙面で紹介してきた。そして今では2年前の夏に、この秋田県南日々新聞で紹介した「南外村の方言集」が最後となっていた。インターネット新聞に取り組んで以来、時の流れの早さとの追いかけっことなり、又四郎さんらがまとめたその「方言集」もてっきり自分の勤務している紙の新聞にも掲載されただろうと思って忘れていた。それが何と半年後の新年号での掲載となってしまったのである。
又四郎さんたちにすればいつ新聞に載るだろうかときっとやきもきしたに違いない。それが期せずして昨年の新年号の1ページを飾ったことからご丁寧なお礼の手紙となったようだ。しかし、その手紙も「これが今生の最後の別れの手紙」となるかもしれない。そう思わせるような弱気な一面があった。「会いに行かなければ・・・」。いつも心に気にかけながら時が過ぎてしまった。足が遠のいていたのは又四郎さんの自宅がどの辺にあったのか。その記憶さえ消えてしまった事もあった。「又四郎さん。これから会いに行くけど、又四郎さんの家はどの辺でしたっけ」。「おれの家か。○○の所で左に曲がると神社があるから、その隣だ」。
私はケンニチに掲載した歌集「楢岡」休刊の記事を印刷して、それを手土産に走った。南外村は山に囲まれた集落である。言われた通り県道から左折したが、直ぐには又四郎さんの家は見つからず2軒の家を訪ねて聞き回った。そして見つけた又四郎さんの家だった。玄関を開けると又四郎さんは奥の座敷に腰を下ろして「おう。来てけだか。良く来たナー。さすが早いもんだ」。いつものユックリした口調で素朴な笑顔を広げた。細い目をますます細くした。
驚いた事に又四郎さんの手元には22年前に自分が書いた新聞記事の切り込みがあった。又四郎さんはずーっとその記事を宝物のように保存してくれていたのだ。「懐かしいべー」。又四郎さんはその記事を自分の前に差し出して笑った。「いやー。又四郎さん。取っておいてくれたんだ」。「ンだよ。おれの大事な記録だもの」。又四郎さんはそれだけでなく自分がこれまで書いてきた又四郎さんとその友だち関係の記事まで全部保存しておいてくれた。そして「あの『赤平バス停』は・・」と聞くと「まだやってるよ」と言って、昨年11月に発行した「第101号」と最新号である1月25日付けの「第102号」を取り出し、「持ってくか」「うん。もらっていく」とやり取りした。
相変わらずのガリ版刷りの「バス停便り」だった。内容も22年前とちっとも変わっていなかった。又四郎さんの温かい人柄が折り込まれた出稼ぎ者へのお便りだった。「皆さんには、お変わりなくお働きのことと存じます。どうか十分に気をつけてお働き下さい」で始まり「初雪 11月17日(水)冷える。朝起きて見たら、真っ白。さあ大変。車はタイヤ交換。うろだくさわぐ(大慌てで騒ぐ)」
「谷田ぴらの狸(たぬき)=10月25日(月) 田中白山様下の宇えん門墓の前 狸のびていた。鼻を上に向けて。車にひかれたらしい。かげの堂の沢の狸か。夜水を飲むに来たのか。どじょう取りに来たのか。車のライトに目がくらんだのか。もう少し待つと良かったのに、老人と同じく信号に出たがるのだろう」
こうした村の出来事を又四郎さんは相変わらずガリ版刷りで印刷して村の出稼ぎの人たちに送り続けているのだ。22年前の出稼ぎ者は600人。伊藤さんは60部印刷して職場に送っていた。職場ではそのバス停便りを「故郷の香り」としてみんなで回し読みしたのだろう。今、村からの出稼ぎ者はわずか30人。その30人相手に伊藤さんは故郷を記録し、送り続けている。
「又四郎さん。良く頑張るねー」。こちらは心底嬉しくて、そう言ってねぎらった。「なんもだぁ」。「又四郎さん。これはねパソコンでしか見られないインターネットの新聞に書いた又四郎さんと今野さんが力を合わせて発行してきた歌集『楢岡』が休刊になったという記事なんだ。紙の新聞に載るのはいつになるか分からないので取り敢えずインターネット新聞に載った記事を持ってきたよ。見てみるか」。又四郎さんは「インターネット」と言われてもピーンと来るものがないのか怪訝(けげん)な顔をした。それでも紙に印刷されたその記事に目を通そうとメガネを取り寄せ、ユックリと紙に目を落とした。
数分間の時間が流れた。そして顔を上げた又四郎さんは「ホー。立派に書いてもらって。あんな粗末な歌集をこんなふうに立派に書いてもらって」と目を細めた。「いやいや。又四郎さんたちは頑張ったもの。又四郎さん。写真撮りたいから表に出られるか」。「ンだか。写真撮ってけるってか」。「ああ」。又四郎さんの足が心配だったがまだシャンシャンとした足取りだった。
電話では「弱ってしまったー」と心細いことも言ったがその姿を見て安心した。「又四郎さん。まだまだ元気だ。頑張ろう」。「ンだな。伊藤さんもおれの家へ来る道を分かったべからこれからもちょくちょく顔を出してケレ」。「ウン。分かった」。又四郎さんは今、奥さまと息子夫婦、それにお孫さん夫婦、ひ孫の合わせて8人家族の一員として暮らしている。帰り際、お孫さんのお嫁さんに「又四郎さんは優しいおじいちゃんでしょう」と声を掛けた。「ええ。いい明るくていいおじいちゃんです」。30歳代のお嫁さんは笑った。又四郎さん。いつまでもお元気で・・。