こちら編集室「女子高生の素足」(2月10日)

  「あいさつと女性のスカートは短いほどがいい」と言った人がいる。確かに式典や宴会などでテーブルに出された料理を前に延々とあいさつをやられては迷惑だ。一方、私たち男性からすれば女性のスラリと伸びた足には何とも言えない魅力を感じる。だが、このごろの女子高校生のスカートの短さと素足で歩く姿はどうにもやっかいだ。

  外は寒風で白い雪がチラチラと降っているにもかかわらず高校生たちはストッキングもはかず、しかも布切れを腰にあてがっただけのようなミニスカートを風になびかせてさっそうと駅に向かうのである。こちらは車のウインドー越しにその素足の列と出会うのだが、良く見ると大事な彼女たちの足は冷たい空気に触れてピンク色に染まっている。つまり足は寒くて泣いているのだ。にもかかわらず彼女たちはガマン比べしながら街を闊歩する。おしゃれをしたいという少女心は分からないわけでもないが、何もそこまでおしゃれのために我慢しなくても自分の健康を大事にすべきではないか。彼女たちのピンク色に染まった足を見るたびに足が気の毒になってくるのである。

  確かに映画やテレビドラマでもこの女性の足の魅力は昔から強調されてきた。時にはミニスカートから伸びる足をアップにしたり、和服姿の女性の白い足首が裾(すそ)からチラリと見える姿をカメラは追ったりした。もう記憶はだいぶ薄れたが昔、NHKで幕末の画家・渡辺崋山を取り上げたドラマがあった。町娘をモデルに華山は絵筆を握るのだが、その町娘が池のそばにたたずみ腰を下ろすと着物の裾が割れ、美しい白い足があらわとなる。華山はその姿を燃えるような眼差しで見つめ、激しい勢いで絵筆を紙に走らせた。テレビを観ていたこちらもその映像だけは未だに記憶の片隅に残っているから、高校生のころから女性の足には弱かったのかもしれない。困ったものである。

  しかし女性の足がいくら魅力的だからと言って、今の高校生のようにスカートを露骨に短くされては魅力よりも目を反らしたくさえなる。女性の足の魅力は露骨な露出ではなくもっと自然であるべきだと思うのはあるいはこちらもそのような年代に達したせいかもしれないが・・。

  その足で思い出した。昔、好きだった作家の一人に井上靖がいる。彼は妻ある中年男性を主人公にしたラブストーリーを良く書いた。断片的にしか覚えてないが、妻ある男性を好きになった女性はその恋を断ち切ろうと親に勧められるままにお見合いをする。相手は育ちも良く、身分も安定した大企業の社員だったが、お見合いを終えて帰る男性が上がり框(かまち)に腰を下ろし、靴を履く姿を目にした瞬間、女性はその男性に急に嫌気をさす。原因は靴の紐をキチンとほどいて再び結び合わせるその几帳面な仕草だった。

  「私。あのような方との生活は堪えられそうもないわ」。娘の豹変にオロオロする母は「どうして。あんなにお行儀も良くてシッカリした方なのに・・・」。「それが堪えられないの」。見合いした男性の靴紐を結ぶ姿を見ての女性の言葉だった。

  この小説が影響したかどうかは分からないが、女性にもてたかったらあんまり行儀の良い男になってはいけないと自分に言い聞かせ、靴の紐を解いて履いた経験は一度もない。ましてや靴べらを使って履くのも大嫌いだ。見知らぬ家におじゃましても未だに無理やり足をのめり込ませ、かかとをつぶすような格好でさっさと外へ出てしまう。多分、その乱暴な靴の履き方からして取材を受けた家庭の奥さま族からは「何て不躾な」とひんしゅくを買われているかもしれない。それでもいくら暑くても裸で外を歩けるほど野人の勇気は持ち合わせてないから、まあ普通の人間だと自負している。

  躾けの面では貧しい両親の下で育ったせいか、あるいは末っ子の甘やかしで育ったせいか未だに妻からは怒られることがしばしばだ。とにかく窮屈な席や場所は苦手だ。礼儀作法などは全く身についてない。よその家に招待されてもキチンと膝を折って頭を下げるのも苦手。かしこまったあいさつも不慣れ。「おじゃまします」ならいい方で「やっ。どうもどうも」で自分の家のように上がり込んでしまうから妻もあきれてしまう。ずぼらな性格のまま大人になってしまったのである。それだけに小説家のように想像力を張りめぐらしてストーリーをまとめる術は持ってない。取材してそのメモを見てまとめるだけで精一杯だ。

  言い訳になるが「こちら編集室」も苦手だ。週1回、記事以外の文章で読者にサービスしたいと始めたものだが話のタネが切れてしまうとオロオロと市役所内をクマのように歩き回ってしいる。毎週、次は何を書こうかと頭を痛めるが考えるのも苦手だけに白紙のままパソコンに向かって四苦八苦の連続だ。その点、作家は偉いものだと敬服してしまう。

  三島由紀夫は「文章読本」で「私はひとりの小説家であります。机に向かっています。空中の窒素と酸素を化合させて、ある種の薬品を作る人のように、私はなんにもない空中からなんらかの元素を抽出して、それを文章に固定します。これをもう10何年も続けているのですが、いまだにその技術には出来、不出来があり、楽々と書けることもあれば、書けないこともあります。さまざまな肉体的精神的コンディションが私を掣肘(せいちゅう)し、さまざまな文学的理念や夢や現実が私を押しひしぎ、一行の文章にも多くの芸術的、社会的、歴史的要請がひっかかり、私の筆を渋滞させます」と書いている。

  西木村の冬祭りで上げる「空飛ぶケンニチ」の企画もいよいよ今夜である。海外も含め全国から62人もの方が19万3000円もの応援の募金を「空飛ぶケンニチ」のプロジェクトチームに寄せて下さった。そして事務局の話しによると県外も含め10人前後のケンニチファンの方が今夜は西木村に集まりワイワイがやがやと騒ぎ、「秋田県南日々新聞」の名入りの紙風船を夜空に上げるという。それを目前にしているせいか「こちら編集室」は何を書いたらいいのか数日前からネタ切れのままだ。茫然自失とした脆い頭脳でパソコンに向かってしまった。女子高生たちの寒そうな足を思い浮かべながら、おしゃれよりも健康を第一にしてもらいたいと案じながら・・。