こちら編集室「母の13回忌」(3月3日)

  情報がすさまじい勢いで流れ、交錯している。インターネット新聞をやっていてそう実感した。29日から田沢湖町の駒ヶ岳で兵庫県出身の秋田大学生が行方不明になり、その記事を1日に書いた。2日午前11時40分ごろ「秋田大学の4年生、野村亮策さんの捜索はその後、どうなっているのでしょうか。私は野村君の同級生で、地元ではみんなが心配しています。詳しい状況を教えて頂きたいのですが・・」とのメールがあった。こちらも学生のことは気になっていたが、いずれ午前中はモノにはなるまいと午後からでも角館署と田沢湖町役場に電話するつもりでいた。

  そんなことで2日午前中は協和町で屋根から落ちた雪の下敷きとなって亡くなった83歳の女性の記事を流し、次は東洋経済新報社の「都市データパック」の住みよさランキングでまた大曲市が1位になったことを書いた。それを昼ごろにケンニチに流してメールを確認したら、行方不明になっていた大学生の同級生からの問い合わせだった。兵庫県の方だから、情報がどのように流れていって同級生の行方不明を知ったのかは分からないが、どうしても確認したくなってインターネットで秋田県内の「新聞」を調べ、本紙にメールを送ってきたのだろう。差出人の名前はなかった。それでも昼飯もそこらに田沢湖町役場に電話を入れた。その結果が、最悪の「遺体で発見」だった。

 記事を書く前にまずその同級生にメールを送った。「秋田県南日々新聞の伊藤です。野村君の事ですが、本当に残念な結果となりました。午前11時20分に男岳山頂付近で遺体が発見されました。お気の毒です。本当に若いだけにお気の毒です。遺体は山頂付近が今も激しい吹雪のため視界が悪く、運ぶのが困難な状態のようです。捜索隊は一旦引き上げ、遺体の引き下ろしは明日以降になるかと思います。折角の問い合わせがこのような悲しい結果になりました。どうぞ同級生みんなで野村君のごめい福を祈ってやって下さい。失礼します」。

  折り返し、同級生の方から次のようなメールが届いた。「先程は、お返事ありがとうございました。こんな結果になってしまって、今はまだどうしていいか分からず・・・。友人一同で、野村君のお葬式に出席し、最後のお別れをしたいと思っているのですが、いつ、何処で開かれるのかお分かりでしたら、教えていただけませんでしょうか。秋田は、大雪だと思うのですが、やはり、遺体を実家のある兵庫県まで運ぶのは困難でしょうね」。

  今度はキチンと名前を名乗っていた。女の子だった。最初のメールでは多分、気持ちに余裕がなく名前も書かずに送ったのだろうと思う。葬儀の日にちまでこちらで取材し、教えてやるのも変な話だけにこれだけは勘弁願ったが、同級生として亡くなった大学生を思うこの女性の気持ちは充分に分かるし、残念な結果にはなったが情報の最前線に立って役立てたことに満足した。それにしてもインターネット時代とは情報が全国を、いや世界中をすさまじいスピードで流れていると実感した。果たしてこの世界をたった一人で切り抜けていけるだろうか。情報を提供する側としての満足感と同時に強い不安も感じた2日午後だった。

  お寺から母の13回忌の通知が来た。その通知を見ながら13年と言う時の流れの早さに今更ながら驚いた。母は自分が42歳の厄年に88歳で亡くなった。父は自分が33歳の時に77歳で世を去った。母は父が亡くなった年の1月に脳溢血で倒れ、入院した。「とんでもないことになってしまった。とんでもないことになってしまった」。手術するほどではなかったものの、気丈な母は手足が不自由になってしまったことが悲しくて、悔しくてしょうがなかったことだろう。「とんでもないことになってしまった」。何度も何度も同じ言葉を吐いて嘆いた。その母に付き添っていた父も病院内で一カ月後に倒れ、そのまま入院した。肺がんだった。

  以来、父が亡くなる9月までのおよそ半年間、私たち夫婦は病院内のベッドの下に寝泊まりして暮らした。病院から会社に通勤し、病院で夕食を済ませ、車いすでしか移動できない母の下々の世話をした。幾分、潔癖症の性癖のある自分は母の汚物には当初、目を反らし気味だった。だが懸命に母の下々の世話をする妻の姿を見ているうちに手の汚れも気にしないで手伝うことにいつしか慣れていた。

  夫婦共稼ぎしないと家計が成り立って行かないため、父が亡くなってからの10年間は市内の特別養護老人ホームに母を預けた。病院から老人ホームに移ることになった母は当初、「情けないことになってしまって」と泣いたが、こちらこそ泣きたいほど辛かった。母に育てられた子としてだれが体の自由を失った親を手もとから離して他人の世話に喜んでゆだねようか。ゆとりがあったらどんなことがあっても自分たちで世話をしてやりたかった。しかし、二人で働かないと生活ができなかった。寝たきりの体となった母を一人、家の中に置いて仕事に出られるものではなかった。そのことは母も分かっていたのだが、やはり愚痴を口にしたかったのだろう。「情けないことになってしまって」。涙を浮かべて病院を出た。

  「大丈夫だよ。家からだってすぐだから、今まで通り朝夕には顔を出すから」。そう説得して老人ホームの玄関をくぐった。不安と寂しさで胸が閉ざされていた母だったが、ホームに入ると同時に出迎えた寮母さんたちの優しい笑顔と温かい声にいくらか安心したのか「お世話になるんし」と小さな声でささやき、ベッドに横になった。それからは病院での暮らしと同様、私たち夫婦は朝夕必ず、老人ホームに顔を出してから会社に通った。

  しかし、老人ホームでのユッタリとした時間の流れと安逸な生活は刺激がなさ過ぎたのか、あるいは安心し過ぎたのか、それとも父を失った無気力さからか、それから間もなく母は喜怒哀楽の感情を失った。いつ顔を出しても「来たか・・」と小さな声でひと言、口にすると後は目をつむったままだった。母の妹たちが見舞いに来ても「来てけたか」とは言うが、笑顔を見せることはなかった。誕生日会、敬老会、春の散歩、車いすドライブ。老人ホームでは様々な行事を企画してお年寄りたちを喜ばせようとしたが母は、ほとんど感情を顔に出すことはなかった。

  お盆や正月、そして連休の合間を見て家に連れて帰っても無表情で、喜びを表わすことはなかった。ただ仏さまへの信心深さはあって、父の法事などでお坊さんが来て拝むと寝たままでも熱心に両手を合わせていた。仲の良い夫婦だっただけに、お坊さんの読経の声が聞こえると母の目には父の姿が浮かび、両手を合わせることで迎えに来てくれるのを祈っていたのかもしれない。そうして過ごした老人ホームと我が家での10年間だった。毎日、ホームに顔を出しても会話もなく、ただ夕食を食べる手伝いを妻がするだけだった。無言で食べ、無言で噛み下した。「帰るよ」と言うと「ああ」とたったひと言だった。

  見舞っても見舞っても張り合いのなかった晩年の母だった。今思えば、父を失った後の10年間はきっと役立たずの自分の体を呪い、早く父の下へ行きたいの一心だったのかもしれない。亡くなる前の夜もいつものように無表情で夕食を少しだけ取った。「じゃあ。帰るよ」「ああ」。いつものように別れのあいさつを交わして、ホームを後にした。そしてその翌朝、ホームから電話があった。「伊藤さん。お母さんがただいま亡くなってしまいました」。自分はその報せを意外なほど冷静に受け止めた。妻と共に母の元へ駆けつけたら、看護婦さんが「死に化粧」を施していた。唇に紅を塗り、うっすらとほほも赤く染まっていた。

  生前、母の化粧をした顔を見た記憶のない自分は初めて紅を塗った唇を見てかすかに美しいとさえ思った。可愛いとさえ思った。そして母の顔を見つめ、その安心しきった死に顔に「母はやっと自分の念願を果たしたんだ」と思った。働くことしか能のなかった母は、寝たきりとなった自分の体から一日も早く抜け出したかったのだろう。3月11日だった。春を感じさせるとても暖かい朝だった。

  自宅で行った葬儀の日も春のような暖かい日だった。日差しが窓からキラキラと差し込み、読経と線香がゆらめる中、祭壇に飾られた母の写真を見つめた。まだ70代のころの写真だった。和服姿の母だった。ニコニコと幸せそうな笑顔の写真だった。写真を見つめながら、「おばあちゃん。晩年の10年間は寝たきりで詰まらなかったろうが、おれは幸せをあげたよね」と無言でつぶやいた。母の笑顔からは「マアはいい嫁さん見つけて家の中を和やかで明るくしてくれた。ジサマ(おじいさん)も毎日毎日、喜んでた。なーんも言うことはねえ」。母の笑顔からはそんな声が聞こえてきた。

  母の死からは父の時とは違って悲しみは余り感じなかった。ただ葬儀も終え、仏事も一段落して仕事に復帰したら母のために毎日、足を運んできた老人ホームへの寄り場を失った寂しさがなぜか募った。真っ直ぐに家に帰られるから楽になったはずなのに逆に寂しさが無性に募った。あれからもう13年の歳月が流れた。長いようで短い13年だった。親とはそうしたものかもしれない。普段は何でもない空気のような存在で、居なくなると寂しくなる。今だって時々、思う。父と母。健在だったらどんなに嬉しいか。報告して喋りたいことがいっぱいあるのにと。父と母とはそうしたものだ。空気のように当たり前で存在感はあまり感じさせないが、居なくなると寂しいものだ。

  3月11日。13回忌の法要。お寺さんを迎え、法事を済ませたら、その晩はまだ宿泊したことのない角館町の温泉「花葉館」に妻と宿泊し、静養しようかと思っている。母のため、父のため随分、難儀をかけた妻だ。静かに母の命日をやり過ごそう。そう思っている。(写真は南外村で撮影)