<寄稿>安重根処刑90周年によせて

「日韓」心の交流の足跡を訪ねて

-安重根と千葉十七の友情-
                                                                   酒井隼男(3月13日)
                
  「旧千円札の肖像画の人物は」と聞かれて、すぐ名前が出てくるのは、もう30歳代以上になるだろうか。ではもう一つ、「初代内閣総理大臣は」という質問に答えられるのはもっと上の世代か、受験勉強にいそしむ受験生くらいになるかも知れない。もちろん答えは「伊藤博文」である。さてもう一つ質問、「伊藤はどこで亡くなったか」これに答えられるのは専門家か、かなりの歴史好きしかいなくなるだろう。

   1909年10月26日、初代内閣総理大臣・枢密院議長伊藤博文公は、ロシアとの会談を終えハルビン駅(現・中国東北部)でロシア儀仗兵を謁見していた。そこへ突如「斬髪洋装」の青年が飛び出してきた。その手には拳銃が握られており、わずか4メートルの至近距離から数発の弾丸が発射され、伊藤公はその場に崩れ落ちた。青年はただちに取り押さえられたが、伊藤公は意識を回復することなく間もなく息を引き取
った。これがいわゆる「ハルビン事件」である。青年の名は安重根(アン・ジュングン)。まだ30歳になったばかりで「韓国独立義勇兵軍参謀」の肩書きを持っていた。

 この一件は、当時日本の圧力を受けていた韓国の人々から「義挙」として拍手喝采を浴び、日本では「暴挙」として非難が巻き起こるという、両国の評価が真っ二つに分かれる歴史的大事件となったのである。

 逮捕された「犯人」の安は日本の憲兵隊の手によって、旅順の刑務所に護送された。その憲兵隊の中に、千葉十七(とうしち)という25歳の上等兵がいた。千葉は「なぜ伊藤公が殺されなければならなかったのか」と、明治の元勲を殺害した安に激しい憤りを覚えていた。

 千葉は宮城県栗駒町出身で、大陸で自分の力量を試したいと軍隊に志願した。今回の事件でたまたま護送部隊に任ぜられたのに続き、獄に繋がれた安の看守責任者も命ぜられる。看守を始めて千葉の意識は、変わっていった。安の毅然とした精神、すぐれた人格、識見、柔らかな物腰、どれをとってもおよそ「暗殺者」に似つかわしくない要素ばかりだった。すぐに安に抱いた憤りは雲散霧消し、やがて彼の高潔な人柄と
高邁な思想に共鳴し、尊敬の念すら抱くようになった。そして二人は心の交流を深めることになり、十七は何かと安に心を砕き、安はそんな十七の立場を気遣うようになった。

 翌年2月14日、日本政府の思惑通り「死刑判決」が下るが、安は控訴せず判決を受け入れる。1910年3月26日、処刑の日の朝が開けた。安はかねてからの十七の求めに応じ、「為国献身軍人本分(国のため身を捧げることは軍人の本分である)」との揮毫を十七に残し、刑場に向かった。安の最後の執筆である。処刑が終わり安の亡骸が埋葬されるのも、千葉が見送った。

 十七は1921年に帰郷後、この遺文と遺影を仏壇に捧げ、安を終生追悼し続けることになる。しかし、彼はそのことを家族以外にはほとんど喋らなかった。なぜなら、明治の元勲を暗殺した安は日本では「国賊」であり、それを追慕していることなど公に出来なかったからである。

 千葉は胸を病み、1934年に49歳で没したが、この遺墨は十七の遺族により代々引き継がれ、安への供養は続けられた。しかし、「安重根の最後の書は祖国へ返還すべき」とする十七の遺族により、1979年「安義士生誕百周年」を記念して、ソウルにある安重根義士記念館に寄贈され、国宝に指定されることになる。

 安と千葉のたぐいまれなる友情の物語は、現在、宮城県若柳町の大林寺に痕跡が残されている。安の残した「為国献身軍人本分」の墨書は記念碑となって境内に鎮座し、千葉十七の墓の横には日韓両国語で、十七を讃える顕彰碑が建てられている。この歴史的ないきさつについて、元朝日新聞記者という異色の経歴を持つ大林寺の斎藤泰彦(たいげん)住職が、綿密な調査の上「わが心の安重根-千葉十七・合掌の生涯」(五月書房刊/2400円)という本を著している。

 そしてもう一つビッグニュースが・・・二人の友情を描いた映画「霧雨の朝」が今年夏の公開予定で、日韓共同で制作が進んでいるという。

 大林寺は、東北自動車道「若柳金成IC」から5分のところにあり、住職の時間が空けば説明もしてくれる。

(写真は上が安重根氏、下が千葉十七氏)