こちら編集室「マタイ受難曲」(3月10日)

  絵画でも音楽でも、また彫刻でもおよそ芸術作品の類には時として「人間業(わざ)」を超越した作品に出会うことがある。それこそ神か仏がその作家の手や身体に乗り移って、「かくあるべきだ」と絵筆を走らせたり、ペンを走らせ、鑿(のみ)を躍らせたかのように。ヨーロッパの教会で観た宗教画がそうであったし、奈良や京都の古刹で観た仏像がそう感じさせた。そして音楽でもバッハの「マタイ受難曲」という壮大な曲を聴いていると「これは人間が作曲したというより、やはり神の手による音楽ではないだろうか」と絶句する。

  久しぶりに自宅でバッハの「マタイ受難曲」を聴いた。20代のころに買ったLPレコードがまだ健在かどうかを試す気分だったのだが、レコードは無事だった。解説によるとこの曲が録音されたのは1939年と言うから第二次世界大戦が勃発する2年前のものだ。なぜそんな古い録音のレコードを購入したのかと言うと、それこそ「マタイ受難曲を聴くならこれだ」と当時、愛読していた月刊誌「レコード芸術」を参考に買い求めた記憶がある。LP3枚セットで全曲を聴くとすると160分もの長大な曲だ。

  今はもうそんな長い時間、レコードを聴いてみようとする気力もなく、この日もステレオを前に耳を傾けたのは曲の導入部の壮大な合唱曲と大好きな第47曲のアルトで流れるアリア「あわれみたまえ、わが神」と、第57曲のソプラノによるアリア「主は、私たちすべてに善いことをしてくださった」である。この2曲のアリアを聴いていると今でも涙が浮かんでくる。悲しいほど美しく感動的なのである。

  第47曲は群衆によって捕らえられる前にイエス・キリストが愛弟子のペテロに「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、私を知らないと言うだろう」と予言する。ペテロはこれに対して「たとえ、一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と誓うが、イエスが捕らえられると身の危険を感じたペテロは「あなたもナザレ人イエスと一緒でしたね」と追及される声に「そんな人のことは知らない」と3度、否定する。福音史家はここで語る。「するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロはイエスが言われた言葉『鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないと言うだろう』を思い出し、外に出て激しく泣いた」。

  このイエスを裏切ってしまったペテロの悲しみを第47曲の「憐れみたまえ、わが神よ。私のこの涙を。ごらん下さい。私の心と眼はあなたのみ前でさめざめと泣いてます」。

  バイオリンの美しいソロが流れ、神に憐れみをこいながら流れる悲しみのアリアは聴いていて自然に涙が浮かんでくる。何度この曲をかけたことだろう。そして何度この曲に当時の疲れた心が救われただろう。

  そしてイエスへの十字架を求める群衆に対して総督のピラトは「あの人はいったい、どんな悪事をしたのか」と問う。今度はソプラノによる声が流れ、「主は、私たちすべてに善いことをして下さった。めしいた人には目を開き、足なえた人を歩ませ、御父の言葉を私たちに伝え、悪魔を追い払い、悩んでいる者を励まして、罪人を許し、迎えて下さった。そのほか、イエスは何もなさらなかった」。

  この第47曲と第57曲のアリアこそ神の成せる業としか思えない美しさと悲しさだ。バッハの音楽の重厚さはどちらかと言うと余り好きにはなれなかったが、この「マタイ受難曲」だけは若いころから聴き親しんだ。そして涙を浮かべた。涙によって心も洗われるような思いをした。久しぶりに、本当に久しぶりに聴いたレコードだった。読者にもお勧めしたい。「マタイ受難曲」の全曲を聴くのは無理としても、機会があったらこの第47曲と第57曲のアリアは聴いてみる価値はあると。

  自分は信心深いクリスチャンにはなれそうにもないし、また信心深い仏教徒にもなれそうにもないが、初めて聴いた牧師さんの読まれる聖書の荘厳で美しいリズムにとても感動したことがある。そして奈良や京都の古刹で聴いたお坊さんたちの誦経、毎月の命日に自宅を訪ね、両親の位牌を前にお経を読んで下さるお坊さんの声にも感動している。牧師さんにも、お坊さんにもやはり神に仕え、仏に仕えるという純粋さで修業を重ねたうえで得た何かがあるからこそ、聴くものに深い感動を与えるのだろう。

  それにしても聖書に登場する「ペテロ」同様、自分も弱い人間だ。もしも身に危険を感じたなら自分だってイエスへの誓いの言葉は忘れ、「そんな人のことは知らない」と言い逃れてしまうだろう。江戸時代に多くのクリスチャンは迫害を受けて死んだ。自分だったら「踏み絵」を求められたら簡単に十字架のイエスの絵を踏みつけて救済を求めただろう。宗教のため、神のため、そしてイエス・キリストのために身をささげた彼ら殉教者の愛と勇気にはただ恐れ入るばかりだ。

  家でこのような「マタイ受難曲」やチャイコフスキーの「悲愴交響曲」を聴いていたころはまだ両親も健在だった。父や母は土曜日の午後や日曜日にステレオの前にどしりと座って、このようなクラシック音楽に凝り出した自分の姿を見ても何も言わなかった。浪曲や民謡が好きな父や母のためにたまには広沢寅蔵と言った浪花節のレコードでも買って聴かせてあげたら喜んだかもしれないが、当時は思いつかなかった。ただひたすらクラシックレコードを買い求め、楽しんだ。母は「マアはさっぱり分からない音楽ばかり聴いて。なんぼ偉くなるんだ」と縫い物をしながらこぼした。父はそれでも少しは理解してやろうとばかりに座布団を運んで隣に座って耳を傾けた。

  ベートーベンの「運命」をかけた時は「運命ってこんなふうに扉を開くんだって」と興奮しながら解説したものだった。チャイコフスキーの「悲愴交響曲」を初めてかけた時には珍しく母も縫い物の手を休め父と一緒にステレオの前に座って聴いたが、第1楽章での金管楽器の爆発するようなすさまじい音に跳び上がって驚いた表情は今も忘れられない。長男に家督を継がせようとして失敗し、次の兄が続いて跡を継ごうとしたがこれも家庭不和をもたらしたまま家を出た。どちらも自分からすれば親子ほど年齢が違うため、どんなふうに我が家で過ごしたのかは余り記憶にない。ただ父の葬儀に顔を出した時に「これが長男なのか」と思った程度だった。その兄も死んだ。

  そのころの父と母は残された末っ子の自分にすべての期待を寄せていたのだろう。2人の姉も、そして高校を卒業して東京へと出た2人の兄たちも「正雄。親父たちを頼むぞ」と言い残して我が家を後にした。3人切りの生活だったが、穏やかな日々だった。ラジオやテレビから流れる浪曲や民謡に馴染んだ耳に、クラシック音楽を理解しろと言っても無理だったのに、それでも自分のそばに居ることで安心感に浸りたかったのだろう。楽器の爆発するような音に跳び上がってびっくりしながらも、お茶をお盆に乗せて運んで来ては、また父と共にステレオの前に座った母だった。

  レコードを聴きながらその解説文を読むのが好きだった。チャイコフスキーは「悲愴交響曲」を完成させて9日後に亡くなった。「結婚にも失敗し、自殺にも失敗した弱気の作曲家、憂うつで知られざる苦痛にさいなまれたチャイコフスキー。その彼が人生の晩年に於いてあらゆる希望に終止符を打ちつつ作曲したのが『パセティック(悲愴)シンフォニー』である(解説・宇野功芳)」。レコードに付されたこの解説文を父と母に何度、読み聞かせただろう。「ほー。なるほど。外国人だって日本人と同じで、悩むこともあるんだ」。父は歯のない口を開けてかみ合わないようなことを喋って感心したものだった。母は「マアは大したもんだ。難しい漢字をみんな読めるから」と喜んだ。

  チャイコフスキーの「悲愴交響曲第4楽章」。ここにこそチャイコフスキーがその人生の悲しみのすべてを込めてペンを走らせ、悲しみのマリアの手に自分の生命を委ねたのではないだろうか。「マリアの導きを受けて天に昇りたい」。チャイコフスキーはそんな子どものような純粋な気持ちで第4楽章を書き進めたのではないだろうか。そうとしか思えない。それほど第4楽章は暗く、突き詰めたようなメロディーとなって終止符を迎える。そしてメランコリックで深い悲しみの中にも底知れぬ至福をも感じさせる。この曲にも聖母「マリア」の愛が乗り移って完成させたような気がするのである。そう言う人間業を超越したものを感じるのである。バッハの「マタイ受難曲」のアリアに涙し、チャイコフスキーの「悲愴交響曲第4楽章」の悲しみに涙した日曜日の午後だった。

  秋田は昨日から3月とは思えない寒気の中だ。今朝も20センチほどの新雪が積もった。雪の中を小・中学生たちが列をなして登校していった。あのころから父や母は老後を自分にかけていた。3月11日。明日が母の命日だが1日早く法事を済ませ、今夜は角館町の「花葉館」で保養することになった。写真は藤木小学校へ登校する児童たち。