こちら編集室「サクラ咲くころ」(4月14日)

  もう10日ほど前だったろうか、北西の空に鋭利な鎌のような三日月が浮かんでいた。日が沈んで間もないせいか空はまだ薄紫色の残影を見せ、星たちの輝きもぼんやりとしたものだった。しかし、闇が深まるに連れ、星たちも青白いダイヤモンドのように輝き出した。北東の空を見上げると「北斗七星」が姿を現し、その星座を中心に星たちの輝きも増した。北西の三日月は相変わらず切れるような鋭さと孤高の美しさを保っていた。春の宵。三日月と星を眺めながら四つ足の娘・アキと共に歩いた。

  住んでいる所が農村部ということもあって、晴れた日の夕方、犬を連れての散歩は月が出ていれば月を眺め、星が輝き出しては星を眺めての散策となる。先月まではアキとの散歩は寒さもあっておっくうな面もあったが、夜になっても以前のような冷たさを感じることもないだけに気分的にも楽になって来た。そして月や星たちを見上げながら歩くという楽しみさえ加わった。年齢のせいか春を迎える喜びが年々、高まって来ている。季節の変動にとても敏感なのだ。芽吹き出したフキノトウ。堤防に張りついていた雪もすっかり姿を消し、萌えだした雑草にさえいとおしさを感じるこのごろだ。「春が来たんだ」とつぶやき、月と星たちを眺め、歩いている。歩くのが楽しい季節となった。

  子どものころから雲を眺めて歩くのが好きだった。小学校の行き帰りは多くは一人だったが、いつも雲を眺めて歩いた。通学路は田んぼに囲まれた一本道だった。時にはあぜ道に伸びた笹の葉を抜き取って、笹舟を作り、それを農業用水路に流して自分の歩くスピードと競いながら帰った。雲がどんどん自分と横並びとなって着いて来るようで雲さえも自分の味方のような気がしたものだった。恐竜のような形の雲。パンのような形の雲。仁王像のような形の雲。ソフトクリームのような雲。綿を散りばめたような雲。雲は自由自在に形を変え、姿を変え、風に流され、幼かった自分に一人で歩くと言うことに退屈というものを感じさせなかった。すじぐも(絹雲)、まだらぐも(絹積雲)、つみぐも(積雲)、たちぐも(積乱雲)。気象学的には雲の種類は10種類に分けられていると言うが、幼かった自分にはとにかく青空をカンバスに自然が描く様々な形の雲の変化が楽しくてしょうがなかった。

  ロマン・ロランの小説「ジャン・クリストフ」にクリストフが木の断片を手に魔法使いとなった気分で雲たちに命令を与えるシーンがある。「右へ向かってゆけ」と。しかし、雲たちは左へ左へと流れる。彼はそれまでは木の断片を指揮棒に、大勢の軍隊を率いる将軍となって丘の斜面を突撃し、馬にまたがっては断崖を飛び越えた英雄だっただけに、当然、雲たちも彼の命令に従わなければいけなかったのだ。だが、雲たちはクリストフの命令を無視し、左へと流れた。クリストフは雲をののしり、命令の言葉を繰り返すが、雲は命令に従わない。腹を立てたクリストフは地団駄踏んで悔しがり、「左に向かって立ち去れ」と命令する。クリストフの命令に従ったわけではないが、雲たちは左へと流れ、クリストフは自分の力に幸福と誇りを感じる。

  ベートーベンをモデルにしたと言われるロマン・ロランの小説だが、クリストフのこの雲に命令を与える光景は今も好きなシーンだ。なぜなら自分も幼いころ、雲を見上げてそんな命令を下したようなかすかな記憶があるからである。子どもというものはいつだって自分を主人公にし、魔法使いにもなれば軍隊の長にもなるし、トラやライオン、象などを自由に使いこなせる動物使いにだってなれる。腰に長い棒を差すと映画に登場した勇ましい侍にもなれば、棒が短いものだったら西部劇の主人公にさえもなる。そして雲を友にいつも歩いたものだった。今もそうである。雲たちの旅に強い憧れを感じる。

  それにしても春の雲は変わりやすい。青空が広がったと思ったら、次第に雨雲が広がり、あられが降ったりもする。昨日まではコートさえ要らない陽気だったのが翌日になると冬に逆戻りしたような寒さがぶり返す。カタクリやサクラの花が咲くころまではどうしても天候が安定しないかもしれない。

  昔、学校から1キロほど離れた所にポツンと孤立した医院があった。幼いころはお腹を痛めてはそこへ運び込まれ、風邪をひいてはそこへ運ばれた。メガネをかけた老医師が手にした注射を見ただけで身はのけ反ったが、無口な医師は肩にぷつりと針を射すと「良し良し」と言っては注射したあとを手で揉んで「また明日いらっしゃい」と言って優しく目を細めたものだった。そこの医院の待合室にも青空と雲を描いた絵が掛けてあった。港を描いた絵だった。青い空と白い雲の中を戯れるように白いカモメが飛んでいる絵だった。病気をするといつも両親が付き添ってこの医院へ自分を担ぎ込んだ。大勢の患者たちに囲まれ、診察室に呼び出されるまでジーッとその絵を見ていた記憶がある。今はその医院は姿を消してない。

  小学校に入って間もないころだったと思う。一度だけ父が直ぐ上の兄と共に自転車に乗せて20キロほど離れた大森町に花見に連れていったことがある。後ろの荷台に兄と二人で股がるように乗ったのだが、砂利道のデコボコした道だったため尻が痛くてたまらなかった。それでも知らない町に行ける興奮でその痛みにジッと堪えた。雄物川に掛かる「大川橋」を渡ると家はほとんどなく、田んぼと森しか見られなかった。単調な道だったが、流れ行く景色はどれもこれも初めてだっただけに刺激的でしょうがなかった。そして父の「花見に行くか」と言う優しさがたまらなかった。

  公園になっている山が近づくと全山がサクラで淡いピンク色に染まっていた。「サクラってこんなにきれいなものか」と驚いたものだった。学校にもサクラの木はあったが、山をピンク色に染めるほどではなかっただけに、その圧倒する量と色に驚いたものだった。そして公園に登ってさらに驚いたのは人の多さにだった。あちこちに多くの人が群れを成して集まり、酒盛りをして騒いでいた。あちこちにテントが設営され、いろんな店が立ち並んで賑わっていた。

  オモチャ屋に立ち寄って父にねだった。滅多にオモチャなんか買ってもらった覚えはないが、店先にぶら下がっているのを目にしたらどうしても欲しくてたまらなかった。それはプラスチックでできた水鉄砲だった。「あれを買って・・」。父は目を細め、「ホラ」とその水鉄砲を買ってくれた。それを手に公園中を走り回った。兄はその時、父から何を買ってもらったのだろうか。記憶にない。水鉄砲を手に公園の長いコンクリートの階段を駆け降りているうちに勢いづいてしまい、足のブレーキが効かなくなり、一気に数段の階段を転げ落ちてしまった。

  父が顔色を変えて走り寄って来た。兄も顔色を変えて走り寄って来た。「正雄。マサオ。大丈夫か」。父の絶叫を聞きながら一瞬、気を失った。そして気がついたら回りを大勢の人たちが自分を中心に囲んでいた。どこかけがをしているはずだが、恥ずかしさが先走ったのか痛みを感じることもなく立ち上がった。足を見るとズボンの下から血が流れていた。膝を打って皮がむけ、その擦り傷からの血だった。手のひらからも血が流れていた。「医者に連れて行け!」。そんな声がした。楽しんでいるのに医者に連れて行かれるのはたまらないなと思って「痛くない」とつぶやいた。

  看護婦さんたちの花見のグループがいたのだろうか。「どれどれ見せて下さい」と言って簡単な治療を受けた記憶がある。オロオロする父。そして何度も何度も頭を下げ、お礼をする父の背中を見てとても悪いことをしてしまったような気分で憂鬱な思いをした記憶がある。買ってもらった水鉄砲は転倒した先から数メートル先の地面に転げ落ちていたのを兄が拾って、自分に渡してくれたが、どこも壊れてなく無事だった。

  大したけがでなかっただけに父も安心したのだろう。「マサオ。良かった。マサオ。良かった」と肩を叩き、親子で車座となっておにぎりを食べ、飲んだサイダーのおいしさは今も忘れられない思い出だ。優しい父だった。自転車で田舎を回り、商売して歩いた父だった。雨の日も風の日も、雪の日も自転車での商売だった。風に梳(くしけず)り、雨に沐(ゆあみ)する“櫛風沐雨(しっぷうもくう)”の日々だった。高校生になって初めて女の子と会うことになった時、父は「あの村の娘さんはお金持ちの人が多いからな」と言って「マアに恥はかかせられないな」と言って、金額は忘れたがとても多い額の小遣いをくれた父だった。サクラが咲く季節になると初めて見た大森町のサクラの木々と買ってもらった水鉄砲と転倒した思い出、女の子と歩くために与えてくれた父からの小遣いが思い出される。不思議なものだ。

  こちら編集室ではこれまでも良く両親の思い出に触れて来たが、子どもというものは父や母の自然な愛情や慈しみを感じ取ってこそ、精神的にも安定した成長が図られるのではないだろうか。自分の育った環境は裕福ではなく、むしろ貧しい部類だった。父も母も働きづめの毎日だった。自転車で商売に歩き、その合間には畑を耕し、母と一緒に野菜を栽培した。母は自宅で縫い物の内職をして父の働きを補った。朝から晩まで働き、夕食の後片づけを終えてからも母は縫い物で手を動かしていた。それでも兄や自分が体を壊すと無我夢中で気が狂ったように医者を呼んだり、病院に運んだりして看病に勤しんだ。普段は放っておく毎日だったが、何かあると濃縮した愛情を注いで助けようとした。父も母もいつも子を守る壁として存在した。そうした両親の姿を見ているとなぜかホッとした気持ちで安心していられるのだった。家庭とは子どもに「安心」を与える場だった。