記者として入社して直ぐに与えられたのは自分の机と「1行15字詰め10行書き」の原稿用紙だった。当時の新聞は1行が15字詰めとなっていたものだった。その後、もっと読みやすい活字にしようと各社とも活字を拡大し、今は1行12字詰めの新聞記事が主流となっている。入社当時はその一枚150字詰めの原稿用紙を手渡され、先輩記者から「取材してきたものがあったらすぐに記事にしろ」と言われてもどう筆を進めたらいいものか見当も付かず、ただうつむくしかなかった。「まあすぐに記事を書けと言ったって無理だろう。だから新聞に良く目を通し、自分ならこう書くんだと自分で訓練しなさい。人手がないんだから君に原稿の書き方まで一々、教えている時間はないから」。入社した当時の先輩記者の言葉だった。
取材の“いろは”も原稿の書き方も自分で学び、呻吟して書き上げた10数枚から20数枚の原稿を編集長の前に「お願いします」とおもむろに突き出し、その背後に立つのが新人である自分の習わしだった。編集長のKさんがどのように自分の書いた原稿に朱筆を入れるかを目で追い、目で学ぶのが新人の務めだった。最初のころは朱筆を入れられるどころか次々と×が入れられ、150行の原稿はその半分も削られた。「○○さんは嬉しそうに笑った」なんて書くと「嬉しいから笑うんだ。当たり前じゃないか」と「嬉しそう」はばっさりと×印で削られた。「思いがけないハプニング」と書けば「ハプニングそのものが思いがけない出来事だ。混同するな!」と怒鳴られ、削られた。
濃い霧の中で発生した交通事故の原因を書くためにたまには難しい表現をしようと「異例なほどの濃霧の中で事故は発生した」などと書くと「異例の例は人間に関するもんだ。自然現象に使うのはどうかな。新聞記事は分かりやすく書くのが一番。辞書を調べなさい」と注意され、「珍しいほどの濃霧だった」と書き直された。書き直された原稿に目を通し、読み直すと実に読みやすく変貌していた。そうして削ったり、まずい表現方法を書き直された原稿がKさんから自分の手に再び手渡され、机に戻って書き直しの作業となった。一人前の記事を書けるまではそうした積み重ねをするよりほかになかった。自分に文章の才能があれば別だったろうが・・・。
とにかく遅筆だった。150字詰めの原稿用紙を前にさてどう書いたらいいものかと考えあぐねる毎日だった。書きなぐっては投げ、書きなぐっては投げの連続で机の下に置いた紙くず入れはクシャクシャに丸められた原稿用紙ですぐに埋まった。スラスラと書けるのは警察が発表し、書き方の基本が決まっていた事件報道だけだった。それでも警察発表だけではもの足りず直接、現場を踏んで事件の背景や被害者家族の生の声を聞いて書くとなるとまた別だった。「子どもを亡くした家族の悲しみにくれるあの声をどう書いたらいいのか・・・」。原稿用紙を前にぼやくと「今、君がおれに報告したろう。その通り書いたらいいんだ」と迫られた。
原稿を書き上げ、一息入れようと会社から市役所記者室に向かったある日、各社の先輩記者たちが放火事件を巡って侃々諤々(かんかんがくがく)の論争をしている場に出会った。「火の付いた新聞紙を床に置くだけで果たして家一軒が燃え上がるかね」。当時の記者たちは乱暴なもので、まだ木造でかなり老朽化した市役所記者室の床に燃え上がった新聞紙を置いて実験する猛者もいた。バケツに水を用意していたとはいえ、実験された市役所こそいい迷惑だったろう。そんな乱暴な面もあったが面倒みも良い記者たちのサロンでもあった。
「原稿って本当に皆さんはどう書くんだろう。スラスラと書くんでしょうね」と悩みを打ち明けると「伊藤ちゃん。慣れだ。慣れるしかないんだ。そして言葉を覚えろ」と励まし、「書いた記事を読者から最後まで読んでもらうために大事なのは最初の数行がモノを言う。文章の出だしの工夫が大事なんだ」。そう言い聞かせてくれた記者もいた。そして読みやすい文は「センテンスの短いものだ」とも教えられた。
それ以来、時間を見つけては本を読み、新聞の社会面トップ記事のリーダーに目を通し、どんな文章が人に感動を与えるかを学んだ。知らない言葉や漢字と出会った時はノートにメモを取り、記憶するようにした。名文は小説だけでなく、新聞社会面からもいっぱい発見された。とにかく文章の出だしをどうするか。小説と新聞記事を教科書に学んだ。仕事中に会社で小説を読んでいるわけにはいかないため、「市役所に取材に行ってきます」と上司に告げては、記者室で本を読みあさった。小説の名作と言われるものは特にその出だしが良かったものだ。今、思えば仕事中に小説を読み、新聞を読むのも仕事の一つとすれば新聞記者とはぜいたくな職業だった。小説を読むのは高校時代から好きだっただけに、名作と言われるものは次々と読んでは頭にたたき込んだ。
川端康成の「雪国」しかり「伊豆の踊り子」しかりである。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所で汽車が止まった」。このセンテンスの短さ。そしてリズム感の良さ。「夜の底が白くなった」という見事な表現。さりげなく、しかも雪国の風土を「夜の底が白くなった」と語る川端の言葉の美しさ。伊豆の踊り子もそうだ。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。私は20歳」。川端文学のこの見事と言える文章の流れにはすっかりはまってしまった。 水上勉の「飢餓海峡」、司馬遼太郎の「峠」、三浦哲郎の「忍ぶ川」、五味川純平の「人間の條件」。どれも頭でそらんじた。飢餓海峡は「海峡は荒れていた」で始まり、「峠」の「雪が来る。もうそこまで来ている。あと10日もすれば、北海から冬の雲がおし渡ってきて、この越後長岡の野も山も雪でうずめてしまうにちがいない」には感動を超えて泣かされた。雪国の厳しさと、これから迎えようとする明治維新の動乱に押し流される越後長岡藩の悲劇と武士道の品格がこの出だしに押し詰められているようだと思ったからである。主人公・河井継之助の生きざまはその後の自分の人生観を変えた。
「人間の條件」は「いつまで歩いてもきりがない。そうしたものだ、2人連れで歩く道は」と戦争に翻弄される二人の男女の運命の糸をこう切り出した。五味川純平は戦争を、そして戦争に導いた日本の職業軍人の無知無責任さをを冷徹な目で炙り出し、文章を通してその悲惨さと非人道的な世界を語った。「忍ぶ川」は「志乃をつれて、深川へついた。識(し)りあって、間もないころのことである」。三浦哲郎の描いたラブ・ロマンスの切なさにしびれた。何度も読んで読み過ぎて、好きと言うより密かに愛したのは太宰治だったかもしれない。その愁色に包まれ、アフォリズムに徹した言葉の妙には魅せられた。
人間失格の「恥の多い生涯を送ってきました」。葉に書かれた「死のうと思っている。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物である。夏まで生きようと思った」。この不思議な湿っぽさ、重苦しさ。そして常に死を見つめ続けた太宰。太宰はあるいは小説の中で、随想の中で、言葉を通じて自分の苦しさを語り、慟哭しようとしたのかもしれない。道化の華の「ここを過ぎて悲しみの市(まち)」はどうであろう。なんでこのような言葉が生まれるのか。「友はみな僕からはなれ、かなしき眼持て僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へ」。この言葉の悲しさに酔った。
いずれにせよ小説も新聞記事も駆け出し記者にとってはすべてが文章の流れを学び、言葉を学ぶ大切な教科書だった。どうしたら感動を与える記事を書けるのか。どうしたら興味を持って読んでもらえる記事を書けるのか。それを学ぶ材料が小説にも新聞にも隠されてあった。短歌も詩も俳句もまた教科書だった。小さな新聞社だっただけに政治から事件、さらには文化欄まですべて自分の仕事として請け負わなければならなかった。寄稿された読者からの原稿を手に、校正するのも自分の役目だった。今のようにワープロ時代でなかっただけに癖字や難解な漢字を使う人も多く、辞書を片手に文字と悪戦苦闘を重ねた。
太宰は「書くということは力仕事です。堅い岩に向かって斧を振るように」と言った。文章を時には鏤骨(るこつ)の作とも言う。骨を刻む思いで書いたからであろう。太宰は随想集「もの思う葦」で「晩年に就いて」と題してこう書いている。「私はこの短編集一冊のために十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労ほどに頭がさがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい回復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を破り捨てた。原稿用紙5万枚。そうして残ったのは、辛うじてこれだけである。これだけ。原稿用紙、六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である」。
書くとは骨が折れる。書くとは恥をかくことでもある。冷や汗をかくことでもある。それでも書き続けなければ飯が食えない。記者もそうした因果な仕事を背負ってしまった。恥をかいて、頭をかいて53歳。4月11日。その誕生日を迎えた。そしてその日。自分の誕生日とも知らず、いつものように妻の職場に迎えに行った。「あなたこれを見て!」と妻は携帯電話をバッグから勢い良く取り出して言った。表示板を目にしたら「4月11日
夫誕生日」のメモリーがあった。その上に豆粒のようなケーキの絵が描かれてあった。「ハイ。これが誕生祝いのケーキ。あなたにやったからね」。携帯電話が描いた絵に書いたケーキが贈り物だった。共に暮らして30年。偕老同穴。これでいいかもしれない。