特急列車が大館駅を発ち、いくつかのトンネルを抜けると車窓からはリンゴ畑が見えはじめ、リンゴの里「青森」へ入ったことが分かった。3日、妻と共に30年振りに弘前市を訪れた。妻にとって弘前は短大生時代に過ごした青春の町であり、思い出の地なのである。その妻の短大生時代の仲良しで嫁いで今は広島で暮らしている同級生から3月に電話があり、「5月の連休に青森へ里帰りするので会えないか」となった。同級生との出会いにこちらがノコノコと着いていくのもおかしいので「一緒に行かないか」との誘いを受けても気乗りではなかったが、「弘前の桜を見せたいから」とのことで、同行することになった。旅行社を通じて宿探しをしたが、桜のシーズンに弘前市内のホテルを見つけるのは至難の業のようだった。結局、宿はあきらめ日帰りの旅となった。
30年振りと書いたが、実は自分にとっても弘前は思い出の街なのである。今のように新婚旅行は海外へなど思いもつかなかった30年前の私たちが選んだのは妻の青春時代の思い出の地である「弘前」と「十和田湖」への旅だった。5月6日に挙式をあげ、そのまま弘前へと向かったのだが期待していた桜は既に葉桜となっていて見られなかった。翌朝、妻と共に弘前公園の葉桜を眺めながら「もう終ったんだね」と残念がり、市内のデパートをブラブラした記憶がある。
高校を卒業してたった2年間過ごしただけとはいえ、やはり感情が高ぶるのだろう。弘前駅へ降りと同時に「本当に浦島のような気分」と目を輝かした。当時の風景はどうだったのか。自分の記憶もぼんやりとしたものだが、駅舎も駅前広場も30年前とはがらりと変わって、大都会の趣をなしていた。同級生とは弘前公園の入り口に立つ黒塗りの「追手門」前で正午に会う約束をしているという。その前にどうしても自分が卒業した短大を見たいと妻は足を運んだ。ビル街を歩きながら懸命に記憶の糸を紡ぎ出しているのだろう。目をキョロキョロさせては短大の建物を探した。
道路を横断し、アーケード街を歩き、「おかしいな。この辺だったのに」。短大は駅前から公園に通じる真っ直ぐな道から見える場所にあったらしいが、ビル街の影となってしまったようだ。何度か立ち止まっては「おかしいな。この辺だったのに」とつぶやいては空を見上げた。と、突然、「アッ。あった。あのビル。校章がある」と妻は叫んだ。新しいビル越しに校章を張りつけた古い校舎が見えた。
しかし、建物は見つかったものの今度はその校舎に通じる道が分からない。「こっちかな。あっちかな」とブラブラし、ようやく昔のままの道路を見つけ校舎にたどり着いた。「変わってない。全然、変わってない」。目の前に立つ4階建ての古びた校舎は雨の中に静かにたたずんでいた。校舎の前の広場は砂利を敷きつめたままで「あの当時と全然、変わってないんだ。そうそう。あれが私たち学生がくぐった玄関なの。ネエ。写真撮って」と生徒通用門の前に妻は立った。カメラに向かって見せた笑顔は30年前の笑顔のように若返った。
校舎を後にし、公園に向かった。近くには歯科医院があり「そう。ここで歯の治療をしたんだ」「アッ。ここ。このお店」と昔良く通ったという洋品店を見つけては喜び、昔のままの本屋を見つけては当時を思い出し、姿を消した店があることを知っては残念がった。30年の月日の流れに身をゆだね、思い出の公園へと足を運んだ。桜はちょうど満開の時期で大勢の観光客が行き来し、雨のため無数のコウモリの花も咲いていた。黒塗りの「追手門」に近づくと妻はめざとく同級生を見つけ、手を振った。「いる。いる。○○さんだ。ああ。変わってない」。身も心も青春時代に戻ったのだろう。学生のようなあどけなさで喜んだ。
妻にとっては30数年振りの出会いだった。喜びもひとしおだったろう。相手の方も感無量のようで目を細めては「和子さん。お元気そうで」と感激の表情を浮かべ、手を取り合って喜んだ。この二人のせっかくの出会いを邪魔してはならないとこちらはあいさつを済ますと、その追手門で二人と別れた。そしてブラブラと桜の下を歩いた。雨が降り続けてはいたがまさに春爛漫。見事な桜の木の行列だった。角館町の桜もいいが、弘前の桜も見事だと思った。しかも天守閣と桜の花の取り合わせは歴史の重みと日本人の美の原点を見る思いで感動の光景だった。
しかし、どんなに桜が美しくても、またどんなに人でにぎわっていても、一人で歩く公園とはわびしいものであった。ましてや雨の公園を話し相手もなく歩くのは・・・。そのわびしさもあったのかもしれない。あるいは兵(つわもの)どもの夢の跡を歩いているせいかもしれない。「荒城の月」のメロディーがふと頭に浮かんだ。土井晩翠は「春高楼の花の宴」と詩を書いた。その詩は旧制二高時代に訪れた会津若松の「鶴ヶ城」と故郷・仙台の「青葉城」跡をイメージしたものだというから、弘前公園の城跡とは縁もゆかりもないのだが、公園を歩いているうちに「弘前城にだって『荒城の月』の歌が良く似合うじゃないか」と勝手に決めながら静かに口ずさんだ。
それにしても詩人とは感性豊かなものである。「春高楼の花の宴 めぐる盃(さかずき) かげさして 千代の松が枝(え) わけいでし むかしの光いまいずこ」。「春、城跡の高台に登って花の宴を開いた。飲み交わす盃にさえも松の老木の枝を分け入って月の光が影を射す。ああ。兵どもが栄華を求めた当時の光はいまはいずこか」。この研ぎ澄まされ、凝縮された言葉の美しさ。滝廉太郎の手によってこの詩から、日本人の心の故郷とも言える名曲が誕生した。
雨の弘前公園を後にし、公園前にあった郷土文学館や旧弘前市立図書館、旧東奥義塾外人教師館などを見学した。人口17万8000人を数える弘前は城下町であると同時に文化の街でもあるようだ。見学した外人教師館は明治に入って新しい文明を学ぼうとなって、外国人教師を招聘するために造ったものという。瀟洒な洋館で、招かれたアメリカ人教師夫妻の生活の様子を今に伝えていた。
午後5時近くになって妻からの携帯電話が鳴った。「そろそろ帰る時間だから」と言う。再び弘前公園で落ち合い、同級生との別れを惜しみながらタクシーで駅に向かった。車内で妻は、同級生から贈られたお土産品を手にしながら「私の選んだ同級生って、明るい感じのいい人だったでしょう」としきりに同調を求めた。「ああ。そうだったね」と相づちを打ち、後は手にした小説を読みながら時間をやり過ごした。秋田駅で特急寝台から降り、そこから乗り換えて9時近くに大曲駅に着き、駅の待合室のテレビをのぞいたら1台のバスが大写しになってアナウンサーがしきりに「人質になっていた女性一人が死亡した模様です」と悲痛な声の調子で繰り返していた。
「何か大変な事が起きたようだ」。30年前を振り返りながら平凡で幸せな一日を過ごした3日だったが、テレビの向こうではとんでもない事件の勃発を知らせていた。西鉄高速バスの乗っ取り事件。大急ぎで家に帰り、テレビのスイッチを入れた。緊迫した画面が流れた。遅い夕食を摂りながら目はテレビにくぎ付けとなった。犯人が佐賀県内の17歳の少年だと分かった時は「ああ。この国は将来、滅んでしまうのではないか」。このところ立て続けに起きる少年たちの凶悪な犯罪と思いが重なり、それがごく一部の本当にごく一部の若者たちの異常な暴走とは言え、この国の行く末さえ案じられた。どこでどう歯車は狂ってしまったのか。「人を殺してみたかった」。このような少年がこの世に現われるとは・・・。
バスジャック事件の少年も、愛知県の主婦刺殺事件の少年も、生まれた時は両親が精一杯の愛情を注ぎ、元気で健やかな成長を祈り育んだはずだ。何が少年たちを狂わせたのか。言葉も感情もそして傷みも伝わらない世になろうとしているのだろうか。少年たちの冷酷で残忍極まりない事件の多発にそんな危惧を抱いた。