犬を連れて毎朝歩いているのが横手川の堤防だ。日当たりのいい堤防は雑草も伸びきって、足の膝ほどの背丈となっている。その雑草が朝日を受けて地面に落とす影を見ていると、まるで墨絵のような趣を見せる。アザミやマーガレット、野菊、そして稲穂のような類の雑草が群れているが、朝の光を斜めに受けて地面に影を落とし、織りなす影絵はどうしてどうして、とても味わいのあるシルエットなのである。
画家の小野則夫さんが40代で亡くなってから、もう5年以上にもなるだろうか。ユリの花やトマト、リンゴ、そしてグラスやビンなどをモチーフに精密な写実画を描く画家だった。小野さんの絵を観ていると1枚の絵が完成するたびにご自身の命が1年、2年と削られているような滅びの美とでも言おうか、そのような危うさとはかなさを感じさせたものだった。まだ絵が売れない時代は我が家に写真家の泉谷玄作君と連れ立って遊びに来ては酒を飲み、「伊藤さん。売れない絵描きは悲しいもんだね」と寂しい口調で語ったものだった。絵描きよりも小野さんは当時は酒におぼれていた。コップ酒をグイグイとあおるように飲んでは、ぐでんぐでんに酔った。「生きているのが辛い」。口にこそしなかったが小野さんの酒からはそのような悲しさと寂しさ、自虐的な苦しさが漂っていた。
当時は玄作君も写真家とは言え、まだそれほど写真が売れているわけでもなくお互い生活は厳しかったろう。でもこちらも写真が好きで同じ芸術の道を歩むものとして話が合い、我が家を憩いの場として良く二人で訪ねて来たものだった。小野さんは透き通るようなガラスコップやウイスキーのビン、それにカラスウリや青いトマトなどを素材にそれを描くときにはライトで照明を当て、その光と影を食い入るような目で観察し、画布に稠密に描いた。そして仕上がった作品には「夏の終わりに」とか「夏去りぬ」と言ったロマンチックな題名を付けた。
華奢で見るからに神経質そうな糸のように細い体だった。頬もこけ、やや甲高い声でとても早口で喋る人だった。当時、我が家では家を新築したばかりで居間にはやはり中央の画壇で活躍していた画家から買い求めた絵があった。小野さんはその絵を見つめては「伊藤さん。やはりプロの絵はいいねー」と褒め、感心していた。絵をお金を出して買い求めたのはそれが初めてだったので、以来、絵にとても興味を持つようになっていた。小野さんの絵を気に入って、初めて買ったのはいつだったろうか。カラスウリを描いた小さな絵だった。決して義理で購入したのではなく、あくまでも欲しくてお金を出したのだが、小野さんは「伊藤さん。伊藤さん。ありがとう。助かった。本当に助かった」と何度も何度も頭を下げ、酔った口調で「伊藤さん。イトウさん。オレッ、俺ね。きっと頑張るよ。俺の絵を買ってくれた伊藤さんのために頑張って、俺の絵がもっともっと値が付くように勉強するから」と誓ったものだった。
それから数年後、小野さんには秋田市郊外の画廊が付いて待望のプロ作家としてデビューした。そして個展がその画廊で開かれた。小野さんから案内状を頂き、妻と訪ねた。立派に額装された数々の絵を観て「これこそプロの絵だ」とうなった。値段も40万円とか50万円となり、それ相当の魅力を持って観る者の足を引き付けた。相変わらず細い体で出迎えた小野さんは「伊藤さん。良く来てくれた。ありがとう」と画廊の主を紹介した。手に指輪、そしてブレスレット、真っ赤な靴下など派手な姿はこちらとは生きる世界が違うと思いながらも、画廊の主の絵を観る目の高さ、造詣の深さにはさすがだと思った。その目の高さで小野さんの才能を買い、小野さんを画廊の専属作家として育てようとしたのだろう。
絵を観て歩いているうちに妻の足が一枚の絵の前でピタリと止まってしまった。青い深みのある色を背景にかごに入った青いトマトと青いリンゴ、それに透き通るようなグラスを配置し、白いハンカチーフを描いた絵だった。「この絵。どーう」。妻は小声でつぶやいた。「ほしいのか」「うん」。値段を見ると確か50万円近い額だった。「大丈夫か。買えるのか」とこちらも声を震わせたが、観ているとどうしようもなく欲しかった。「買っちゃおうか」「うん」。小野さんと画廊の主を呼んで契約を結んだ。
もうそのころになるとあの飲んだくれの小野さんではなく、やせていてもその風貌は立派なプロの絵描きだった。小野さんは別室に自分たちを呼び、再び頭を下げて「伊藤さん。ありがとう。無理させてしまって」と頭を下げ、「買ってくれた絵。将来は今の値段よりもずーと高くなるようにおれ、頑張るからね」と喜んだものだった。
「個展は大成功に終った」と画廊の主からも喜ばれた。雨が激しく降る日の夕方だった。小野さんの絵を引き取りに秋田市まで走った。画廊の主は自分たち夫婦を将来の得意客と読んでくれたのか上にも下にも置かないていねいな接待で迎え、購入した絵を箱に詰め、雨の中を車まで運びながら「伊藤さん。いい絵を買い求められました。小野さんはこれから伸びます。彼のセンスは中央の美術評論家も買ってくれてます」と言った。自分たちの買い求めた絵が将来、高くなろうが低くなろうがそんなことはどうでも良かった。ただ小野さんが描き、気に入った絵で我が家の居間の壁を飾れることにひたすら喜びを感じたものだった。
家に帰って早速、絵を飾った。一枚の絵が壁に飾られるだけで部屋の空気までも違って見えた。絵の織りなす力のすごさを感じたものだった。小野さんから初めて買ったカラスウリの絵も居間のカウンターの壁に飾られているが、個展で購入した絵はやはり初期のものと違って、技術的にも完成されたものだった。しかし、絵はとてもいいのだがその絵を観ていて思ったのは「小野さんは、この絵を描くために何か自分の命を削ってしまったように感じるね」と妻と話したものだった。小野さんは一枚の絵を仕上げるまでに数カ月もの時間をかけた。それほど絵に情熱を注いだ。
それ以来、小野さんはトントン拍子で絵の世界を駆け抜けるものだろうと期待していた。いや着実に小野さんの絵は美術界の階段上り始めた。1993年1月には東京銀座の松屋で「光と影−生命のぬくもり」と題した個展も開かれ、美術雑誌でも紹介された。そして秋田市のその画廊の主と大曲市の小野さんファンで「小野さんを囲む会」を開いて小野さんの芸術家としての成功を祝ったものだった。しかし、それから間もなく小野さんは自宅のアトリエで倒れ、意識不明となってしまった。アトリエに引き込んだまま2日間も出て来なかったらしい。いくらなんでもと心配した家族がのぞいて見ると小野さんが倒れていたのだ。病院に運ばれたがついに意識を取り戻すことなく夭折してしまった。
みんなが小野さんの急逝を惜しんだ。小野さんの繊細で洗練された芸術性を惜しんだ。死ぬ直前に描いた「ドクダミ」の花の絵は凍りつくような美しさだった。秋田市郊外の画廊で小野さんがそれまでに描き残した絵の遺作展が開かれた。「ドクダミ」の花の絵にも他の作品にも100万円、200万円といった自分たちにはもはや手も出せないほどの値段が付けられていた。しかし、小野さんの絵がどんなに高くなっていても喜びは感じられなかった。40代で露と消えた小野さんのはかない弱さが悲しかった。我が家ではその小野さんの絵3点が、小犬のパピヨンと共にいつも二人の帰りを待っている。横手川の堤防をアキと共に歩きながら、雑草の影が織りなした見事な墨絵を見つめながら小野さんを思い出した朝だった。「伊藤さん。おれとうとう嫁さんも貰えなかったよ」。小野さんの少し寂しそうな声が聞こえたような気がした。