こちら編集室「選挙戦の取材」(6月23日)

  堤防を歩くとカッコウの鳴き声が爽やかに響いてくる。その牧歌的な鳥の鳴き声は心にしみ入るようで好きだ。「カッコウカッコウ」。自然は何てステキな鳥をこの世にプレゼントしたものかと思う。そのカッコウの姿を2羽、今朝見かけた。つばめより一回り大きくしたような鳥だった。アカシヤの木から木へと「カッコウカッコウ」と鳴きながら飛び渡った。その声を聞きながら今もどこかで衆院選に立候補した4人が激しい戦いを展開しているだろうと思いやった。

  衆院選の取材。自分が選挙の取材担当記者となってもう20年近くにもなる。「選挙の取材は伊藤君、君に任せるよ」。既に定年で退職された当時の会社の上司からそう言われた時、自分は取材方法をがらりと変えた。それまでは大曲市仙北郡をエリアとしている新聞だからと情報の収集はあくまでも地元に絞っていたのを選挙区全体を回って取材に走り、その情報を元に記事を書くことにした。だから候補者が湯沢市だろうが、横手市だろうが、本荘市だろうがとにかくその現場に駆けつけ、相手の情勢を探り、その上で大曲市の候補者にどう票が響くかを報道した。今、思えば当然の事だが、当時としては画期的なことだった。

  ただ直接、選挙カーを追って、その戦いぶりにスポットを充てるのはやはり地元の候補者が中心だった。これは一人で6人や7人もの候補者を相手に限られた日数で選挙カーを追うというのは物理的にも無理だったからである。まだ中選挙区制だったころは大曲市からは自民党と社会党の2人の候補者が立って覇を競ったものだった。その2人の選挙カーを追って湯沢市や本荘市など遠くへも走って、大曲から立候補した人たちの頑張りようを読者に伝え、好評を博したものだった。そして他の候補者は大曲仙北入りをした時に車を追ってその戦いぶりを分析し、大曲市からの立候補者にどう影響するかを報道した。読者からは候補者の動きがリアルに通じてくると喜ばれ、選挙の取材となればすべてこちらに回された。

  小選挙区制となった前回96年10月の総選挙での立候補者は3人だった。6人もが出馬して3議席を争った時は無理だったが、ともかく3人なら一人ひとりの選挙カーを追っても取材は可能だとして、前回は候補者を追って湯沢市、本荘市、横手市と駆けずり回った。ところが今回は自民党に民主党、さらに自由党と共産党からそれぞれ候補者が出たため4人となった。選挙の取材・報道は公平が原則であり、もしも選挙カーを追って一人ひとりの戦いを紹介するとなれば絶対に一人の取りこぼしも許されない。取材するには相手の選挙カーの日程をにらみ、こちらの体が空く日でないと走れない。どうするか。かなり迷ったが、とにかくやるしかないと決断を下した。

  大曲市仙北郡14市町村合わせた面積は東京都と同じと言われている。それに横手市平鹿郡、湯沢市雄勝郡、本荘市由利郡を加えたらその広さはまさに推して知るべしだろう。その広大な地域を舞台に4人の候補者はそれぞれの作戦を立て、選挙カーを走らせる。こちらはその日程をにらみ合わせ、出来るだけ大曲仙北に入った日を選んで同行取材するという作戦を立てた。それでも選挙カーを見つけるのは至難の業だ。取材相手の選挙事務所に電話を入れ、「今、この時間帯にお宅の選挙カーはどの辺を走っていますか」と問い合わせ、相手の位置を確認する。

  そして大雑把な見当を立て、田んぼだけしかない道路や商店街のど真ん中に車を停め、スピーカーからウグイス嬢の声が流れて来ないかとかすかな音でも聞き逃さないように耳をそばだてる。車の流れる音に遠くから叫ぶウグイス嬢の声はかき消されるが、とにかく耳をそばだて選挙カーを探す。こうして出会えれば成功だが、いつまで待っても選挙カーが来ない時もある。その時は再び移動し、相手事務所に電話を入れる。以前なら公衆電話を探すだけでも大変だったが、携帯電話の時代となった今はその点で楽だ。

  しかし、時には携帯電話さえ利かない場所に紛れ込むこともある。山間に入ってしまうとまだまだそうした場所は多い。結局、車を移動し携帯電話が通じる場所から再び相手の所在地を確認し、取材に走る。こうして相手の選挙カーを見つけた時は本当にホッとする。相手も「おう。来てくれたか」と心を許し、それまでの情勢を話してくれる。

  衆院選と言った大きな選挙戦となればとにかく事前の取材を通じて相手候補と心と心が通じ合うようにならないと本番では話にもならない。選挙カーに同行し、候補者がどのような形で運動をするのか自分の目で確かめ、演説内容をテープに録音し、時には昼飯を一緒に取って話を聞く。今回は一人の候補者を除いて3人全員と昼を同席した。昼食の時間帯が最も落ち着いて話を聞けるし、情勢も伺える。しかし、選挙戦の取材で最も気をつけなければいけないのは相手の話を真に受けてそのまま垂れ流してしまうことだ。誰だって自分の情勢を不利だとは語りたがらない。ましてや候補者本人がそれを認めるはずはないからだ。そうした場合はその側近の運動員やウグイス嬢にさりげなく声をかけ、情勢を探る。

  そして選挙カーを出迎える有権者の反応にも注意して見渡し、確実な票になっているかどうかも探る。候補者自身は選挙に無我夢中になっているから人が外へ出てきて手を振っただけで票を稼いだと思い込みがちだ。しかし、車から離れて冷静にその人たちの表情を観ているとお義理か本物かは次第に判断できるようになる。選挙戦の取材はそういう意味で感情の戦いでもある。選挙カーを追うだけでなく、選挙事務所にも足を運んで情報を探る。各選挙事務所ではお互い相手の動きを新聞社以上に探り合い、票を分析し弱点を探しているから貴重な情報源となるからだ。

  それにしても今回の衆院選。県南の果てまで足を運ぶのも覚悟したが、幸いにも仙北郡内だけで取材が済んだ。運が良かったかもしれない。17日の土曜日。一人は郡内を走り、もう一人の候補者は市内に居ついて個人演説会を7カ所で開くと言う。なら午前中いっぱいは一人の候補者の車を追い、午後からはもう一人の候補者に張りついて取材が出来るとなった。それでも朝から1日中、2人の候補者を追うという追っ掛けにはさすがに体が参った。夕方、取材を終えて南外村から自宅に向かった時は車のハンドルを握るのさえ嫌になっていた。日曜日、その2人の原稿を書き終えた時のホッとした満足感はだから格別だった。昼飯も取らず、2人分の原稿を書き上げケンニチに入れ、自宅に帰ったのは午後3時過ぎだった。

  「終った!」。車を車庫に入れると同時に冷蔵庫のドアを開け、ビールを取り出して祝杯をあげた。これで衆院選の追っ掛けから解放されたと思った。25日の投票の結果はともかく4人の候補者を取りこぼすこともなく取材を終えた満足感に浸った。翌日、その記事に対してアメリカの岩間さん、そして秋田市のモナミさんからねぎらいの書き込みが入っていた。新聞記者をやっていて一番、嬉しいのが読者からのこうした励ましだ。

  歴史小説家として知られる司馬遼太郎さんは元産経新聞の記者だった。その司馬さんは「私のなかにある新聞記者としての理想像はむかしの記者の多くがそうであったように、職業的な出世はのぞまず、自分の仕事に異常な情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。紙面に出た場合はすべて無名であり、特ダネをとったところで、物質的にはなんのむくいもない。無償の功名主義こそ新聞記者という職業人の理想だし同時に現実でもあるが、これから発想して伊賀の伝書などを読むと、かれらの職業心理が理解できるような気がした」と書き、伊賀の忍者を主人公とした名作「梟の城」を世に送り出した。
  主人公の忍者・葛籠(つづら)重蔵はそれこそ出世も望まず、ただ異常なほど自分の仕事に情熱を傾ける。伏見城の奥深くに密かに侵入し、時の天下人・太閤秀吉暗殺のため寝所に赴き、その老醜と向かい合う。重蔵は「金でも領地でも、欲しいものを与えて遣わそう」と命乞いする秀吉に向かって「金で動くようなら、このような危険な仕事はせぬものじゃ。領地がほしければ疾(とっ)くの昔に真っ当な武士になっている。世の中には、そのような利欲よりも、おのれの技のたのしみに生きている者がいる」と自分の職業を矜持する。重蔵は秀吉を殺そうとしたが、それは殺さなくても、殺すに値するような激しい行為で満足し、伏見の城を抜け出す。新聞記者も無名だが、新聞の公共性を武器に時の権力や権威の中枢に容易に接近して取材できる。そこに新聞記者と忍者とは似た美質があると司馬さんは書いた。

  まあ自分はそれほど自分の職業をカッコいいとも思ってないし、功名を求めたいという欲もないが、確かにこの仕事、新聞という公器を武器に名高い政治家とも直に会い、その話を聞けた。先だって亡くなった竹下登元首相を始め小渕恵三前首相、田中角栄元首相、鈴木善好元首相、金丸信元幹事長などいろんな政治家を間近に見、その肉声を耳にした。田中さんが大曲市に来たのは昭和40年代だった。自民党幹事長の肩書だった。その貫祿には目を見張るものがあった。

  中央から同行してきた記者団が記者会見の最後に「田中幹事長。秋田入りに向けてのお土産話があるようですが」と切り出した。田中幹事長はおもむろに「うん。田沢湖町から盛岡に抜ける仙岩峠があるね。ここをトンネル群で結び、冬も通行できるようにしたいと思うんだ」とぶった。その一言で今の仙岩トンネル群は造られ、盛岡と秋田が冬も行き来できるようになった。当時はそのような政治力を発揮した。まさに大物政治家だった。

  その田中さんはとうに亡くなったが、小渕さんも竹下さんも亡くなった。小渕さんの演説を聞いたときは体と顔を右の聴衆に向けたら、今度は中央に体と顔を向け、そして左の聴衆に向かって三たび体と顔を向けて話す人だった。そこに小渕さんらしい人柄を感じた。竹下さんが幹事長として大曲市入りした時は「私が本物の竹下です」と言った。どこかきざで冷たい感じがして好きになれなかった。金丸さんの場合も幹事長の時に横手市でその顔を見た。眠っているのか起きているのか分からないようなとぼけた顔が印象に残っている。小渕さんの死、そして竹下さんの死。時代の歯車が大きく回転したようにこのごろ思う。