大地という大地が真上から照りつける真夏の太陽の熱で、地中に孕(はら)んでいたすべての水蒸気を吐き出してしまったせいだろうか。山々が灰色のガスで覆われて姿を消し、真っ赤に燃えた太陽だけがぼんやりと西の空に浮かんでいた。夏の夕日。太陽が雲を茜色に染めながら、西山に沈んでいく光景を見ているのが好きだ。蜩(ひぐらし)の声が杉林の中でさざめき、夏の一日が幕を閉じようとする夕方の静けさが好きだ。
このごろ人と出会うと「伊藤さん。鹿角市に講演に行かれるんですね。大変ですね」と声をかけられ、驚くことがある。「ええー。何で知っているの?」と不思議に思ったら自分で「こちら編集室」にそのことを書いていたことに気付いた。ケンニチはインターネットの普及によって随分、身近な人にまでこのごろは目を通され、ますます迂闊なことは書けなくなったと改めて強いプレッシャーを感じた。以前だったらほとんど地元の人の目を気にせずに書けたのだが、とうとう地元密着の話題を追うケンニチはまさに地元の人たちの目さえも気にしなければいけなくなった。書くと言う事への責任の重さを痛感しなければならない。
アメリカ・メリーランド州在住の俊子(しゅんこ)・ポランスキーさんから「ほたる」の話題が18日の「読者の広場」に書き込まれてあった。ホタル。昨年の夏、「ホタルなら我が家の周囲でいっぱい見られるよ」と大曲市蛭川の人から聞いて妻と取材を兼ねて走ったことがある。期待したほどの数は見られなかったが、淡い緑色を発光しながら闇の中を飛んだり、草の上で羽を休めている姿を見て感動したものだった。デジカメを向けたが残念ながら発光する光りが弱過ぎて、鮮明な映像にはならなかった。それでも記事にしたら読者から「関心を持って読ませてもらいました」とのメールがあった。ケンニチはこうした読者からの生の声で支えられている。
ホタル。幼いころは3つ上の兄とその仲間たちと連れ立って、近くの小川へ螢狩りに良く行ったものだった。小川のそばにたった一軒だけの医院があって、他に家はなかった。「ホー。ホー。ホタル来い。こっちの水は甘いぞ。あっちの水は苦いぞ」。そんな歌を歌いながらホタルを追った。虫かごに収穫したホタルを入れ、その淡く光るホタルの灯をジーッと見つめ、生きものの不思議さに感動を覚えたものだった。
虫かごに入れたホタルは家に帰ってから蚊帳(かや)の中で放し、電気を消した真っ暗な中でホタルの行方を飽きるほど目で追ったものだった。淡い緑色のホタルがあっちへ飛び、こっちへ飛んでは光を発した。螢火の下で眠る。とてもぜいたくな夜だった。
以前にも書いた記憶があるが、その螢狩りに行って人魂に追われた事もあった。自分は恐くて足がすくみ悲鳴を挙げて泣いてばかりいたが、兄の友だちはその人魂に向かって走り、「この野郎!この野郎!」と気違いのように叫んで石を投げた。
今でも覚えている。遠くの墓地の方で「ボッ」と鈍い音が立ち上がると同時に青白い炎が舞い上がり、ヒューと風を切って飛んできた。「あー。人魂だ!」。だれもがそれを見て叫んだ。大きさはソフトボール大ぐらいだったろうか。いや、もっと大きかったような気がする。人魂イコール幽霊の前触れと思った自分はただ悲鳴を挙げて泣くしかなかった。兄はそんな自分をかばおうと肩を抱きしめて「見るな!見るな!」と夢中で叫んだ。そして兄の友だちが狂ったようにその人魂に向かって走り「この野郎!この野郎!」と石をつかんでは投げた。
当時は砂利道で石ころは無数にあった。その石が人魂に当ったのかどうかは分からないが、青白い人魂はボッと再び鈍い音を出して闇に消えた。勇敢な兄の友だちは「ざまあ見ろ」と毒づいて、群がっておびえていた自分たちに戻ってきた。それでも見てはならなかったものを見てしまったような恐怖感は治まらず「幽霊を見てしまった」と兄と泣きながら家に帰った。寝仕度をしていた父と母は「マア。どうした」と聞き、兄が「人魂を見てしまった。○○が石をぶっつけてやっつけてしまった」と興奮しながら報告した。こちらは人魂に石を投げたから、きっと「幽霊の祟(たた)りを受ける」と体を震わせた。父も母も「人魂が人に祟ることはない。怖がらなくてもいい」となだめたが、恐くて一人では眠れずその晩はずーと両親の間に川の字になって眠ったものだった。
螢狩りはその恐怖の体験からその夏は止めたような気がする。子どものころ親しんだ小川は今は姿を消し、ホタルも見られない環境となってしまった。螢狩りは止めても、夏は遊びのタネが切れることはなかった。かぶと虫、クワガタ虫、そしてセミ取りに走り、チョウチョウ、トンボを追った。かぶと虫、クワガタ虫は橋を超えた隣の集落の森まで歩かなければ採集できなかった。それでも兄とせっせと歩き、目指す森の中に入って木登りをしているかぶと虫やクワガタ虫を探した。それほど簡単に見つかるものではなかったが、一匹取っては歓声をあげまた一匹取っては大収穫だと喜んだ。そして家に戻って母からキュウリやスイカの切れ端をもらい、それを小さな段ボール箱に入れて観察を楽しんだ。かぶと虫が小さな箱の中で相撲を取り、もがき合う姿を見ては声援を送ったものだった。
虫に飽きれば川に入って泳ぎ、兄たちを追って冒険を楽しんだ。川に行く時、母は絶対に草原には入るなといつも厳重に注意したものだった。川岸に生えるアシ原には毛ダニ(つつがむし)と言うダニが住んでいて、これに刺されると助からないと恐れられていたからだ。雄物川の風土病とも言われる“つつがむし”の被害は現在も毎年のように発生するが、当時はこれに効く薬がないと言われた時代だった。今でさえも知識のない医師の手にかかると高熱でうなされ、手遅れとなって死亡する例もある。草の中を敬遠し、真夏の太陽の日差しで焼けついた熱い石の上にシャツやズボンを脱ぎ捨て、海水パンツ一枚の裸になって川に飛び込んだ。泳ぐのが好きだった。潜るのも得意だった。
しかし、川での水泳はいつも危険が伴っていた。足が届かない深みがあちこちにあり、溺れて死んだ子の話しも良くあった。自分も兄たちの後を追って川向こうまで泳ぎ、深みにはまってあわてたことがあった。溺れかかった人間を救うのは危険を伴うだけに悲鳴をあげてもただ自分で夢中で水を漕ぎ、足が届くところまで泳ぐしかなかった。兄たちが水に入って「ここだ。ここまで来れば足が届く」と励まして手を差し伸べてくれたものだった。
ある日の夜、いつもの水泳場所になっている川岸から少し離れた所でたき火をしている大人たちの姿を見た。父もいたので「どうしたの?」と聞いたら「上流の方の村で、中学生が川に流されたんだ。探しても見つからないのでみんなでこうやって火を焚いて、流された子の魂を呼んでいるんだ」と暗い表情で話して聞かせた。「お前も絶対に深い所では泳いではいけないよ」と注意されたのを覚えている。川の恐さを初めて知った夜だった。それでも夏は川と虫とホタルは遊びに欠かせなかった。
そして川で泳いだ後に食べたイチゴ氷のおいしさは今も思い出に残っている。小豆氷や小豆ミルク氷は我が家の小遣いでは高嶺の花で手が出せなかった。兄と二人で氷屋さんに飛び込んで大声で「イチゴ氷二つ!」と叫ぶとそこのご主人か母さんが威勢よく氷の塊を機械に入れて手回しで削るのだった。丸い木のテーブルの前に座って乾いたのどにスプーンで盛った氷を流した時のあの味わい。「ふー。うまい」。二人でニッコリと笑って、幸せを味わったものだった。
思えば夏休みは宿題はほとんど放り投げ、毎日、遊んで過ごしたものだった。目覚めると「今日はどんなことをして遊ぼうか」。それだけを朝から考えた。「汽車を観に行こうか」。そう言い出したのも兄だった。家から4キロほど歩くと奥羽本線の「飯詰駅」があって、そこまで歩くとあの黒い煙を吹き上げて走る真っ黒な機関車が見られる。自分は兄の提案に小躍りして喜んだ。「行こう。行くべ」。兄と連れ立って4キロの道のりを歩いた。駅のそばの踏切に着くと「ポーッ」と汽笛を鳴らし丁度、大曲に向かって列車が出発する所だった。
「シュッシュッ、シュッシュッ」。黒いでっかい鉄の塊が蒸気を吹き飛ばして目の前を轟音を上げて走り出した。「すごい!。すごい!」。声を挙げて興奮した。列車が見えなくなるまで見送った。そしてまた次の列車が来るまで小一時間も待った。兄は「あれに乗りたいなー」とうめくようにつぶやいた。「ウン」。自分もうなずいた。そしていつかその夢を実現しようと誓い合いながら自宅を目指して帰った。黒い鉄の塊。蒸気機関車は私たち子どもの憧れだった。目の前を轟音を立てて走り去った「D51」の勇姿はいつまでもまぶたに焼きついて離れなかった。夏休みはいろんな思い出を残してアッと言う間に過ぎ去ったものだった。