こちら編集室「ダスターコート」(8月18日)

 父と母の眠る墓地の掃除に行ったのはお盆の前日12日朝だった。午前5時に妻に起こされ、妻と共に墓地を訪れ墓石を洗い、周辺の雑草やゴミを取り払った。歳のせいだろうか。このごろ涙もろい。墓石を洗っていながら高校の入学式の時の父の顔が思い出され、一人で涙ぐんでしまった。

 あのころ我が家では学生服に革カバン、それに自転車を自分に買ってくれるだけで経済的にも精一杯だったろう。だが、自分はさらに当時、高校生の間で流行っていたダスターコートが欲しかった。それも買ってほしいと母にねだったが「高校に入れるだけでも良かったと思ってくれないか」と言われ、あきらめたものだった。入学式の日は、父と共に高校に向かった。進学した高校は1年前にスタートしたばかりの工業高校で、まだ本校が建設中のため新入生の入る校舎は市内ではなく、隣の仙北町にあった。町の小学校の校舎の一部を借りたものだった。

 春4月とは言え、まだ寒い季節だった。父は新入生たちのほとんどが真新しいカバンを手にダスターコートを着て校門をくぐる姿を見てがっくりしたのかもしれない。入学式が終わると自宅とは逆の方向である大曲市街地へと自転車を向けた。「どうしたの?」と父に尋ねると「コートを買いに行くんだ」と父はやや興奮気味に話した。「本当にか?」。「ああ。マアだって、コート欲しいべ。寒いべ」。入学式の日は天気も良く、寒さは感じなかったが「ウン」とうなずいた。父の背中を見つめながら自転車のペダルを踏んだ。

 入った店にはずらりとクリーム色のコートが下げられていた。「マア。自分で好きなのを選べ」。父の声は優しかった。そして優しい笑顔を見せた。その笑顔は「金のことは心配するな」と語っていた。ニコニコする店員のあいさつを受けながらダスターコートに手を通した。大きな鏡があってそれに自分の姿を映した。学生帽に黒い学生服、そしてクリーム色をしたコート姿の自分を見つめ、とても満足したものだった。

 そのコートを着たまま父と家へ向かった。父は家に入ると同時に母に「正雄がかわいそうだった。みんなコート姿での登校だった。だからコートを買ってやったよ」。父は母に文句を言わせまいとばかりに、家に入ると同時にそう言った。母は「そうか。マア、良かったナ。買ってもらって」と喜んだ。母も内心ではコートを買ってやりたかったのだろうが、父に言えなかったようだ。コートを着た自分の姿を見て、母はしわくちゃの笑顔となって「良かったこど。しっかり勉強せよ」とその生地を確かめるようにしわだらけの手でしきりになでた。

 何でも一通り人並みのものが揃わないと満足できなかった自分は、そのコート一枚のおかげでやっと高校への通学にも夢を持てるようになった。高校での授業はそれほど面白いものではなかったが、とにかくコート姿での登下校が嬉しくてしょうがなかった。朝の出掛けにコートに手を通すとぷーんと甘い香りがしたものだった。そのコートを着て、革カバンを手に自転車を踏み出すともう一人前の大人になったような気分で粋がった。みんな同じようなコートだったが、自分のが一番、高そうに見えて自慢だった。何よりも父の優しさが嬉しかった。そして母の優しさも嬉しかった。

 高校2年になって父が交通事故に遭ってケガをした。大曲市の仙北組合総合病院に入院し、長い治療生活となった。付き添いとなった母と共に自分も病院に寝泊まりし、そこから高校へと通った。高校2年になると修学旅行が待っていた。そのため入学と同時に旅費の積み立てもあったが、自分はその旅行を見送った。「旅行なんて行きたくないんだ」と見栄を張った。当時、事故を起こしたダンプカーの運転手を雇った会社との示談がまだ済んでいなかったため、我が家では治療費の支払いに四苦八苦していた。最終的に東京から駆けつけた上の兄が相手の会社を回り、治療費や補償の面でやっと解決させたが、金で悩む母の姿を見ては旅行に行く気にさえならなかった。ましてや入院している父をしりめに自分だけ楽しむわけにはいかなかった。旅行積立金が少しでも入院費用に役立てたらいいと思った。

 父は病院のベッドの上で「旅行。行かなくてもいいのか」と寂しい笑顔を見せた。母も「心配しなくてもいいのに」と言ったが、やはりどこかでホッとしていたのだろう。高校から支払われた積立金の中から数千円を取り出し、「これで好きなものでも買ってこい」と手渡した。そのお金で買ったのは白いジャンバーだった。映画で見た石原裕次郎のジャンバー姿に憧れ、旅行に行けなかったのをそれでカバーした。同級生が旅行中は高校も休みとなったのでジャンバーを着て、映画の主人公である石原裕次郎のような気分で街を一人で歩き、粋がったものだった。

 だけどやはり旅行には行きたかった。上の兄が残した高校時代のアルバムから修学旅行のスナップ写真を一人で眺めては悔し涙を流したものだった。奈良公園で鹿と共に写真に収まっている得意気な兄の姿を見てはため息を付いたものだった。

 この修学旅行に行けなかったハンディがどこまでもつきまとい、結婚してからの夢は関西旅行だった。奈良、京都、大阪をいつかは訪ねようと妻に口癖のように言ったものだった。そしてそれが実現したのは何歳になってからだったろうか。まだ30歳になる前だったと思う。大阪に妻の妹夫婦がいたのでそこにやっかいになりながら、奈良、京都、大阪と歩いた。東大寺、法隆寺と歩き、京都でもさまざまな寺院を見学し、大坂城に登った。「遅くなったがやっと自分の夢が実現した」と満足したものだった。

 我が家では父と母が新しく興した所帯だったため、墓地はあっても墓石はなかった。父が死に、その3回忌となった1981年(昭和56年)に墓石を買い求めた。お寺さんに来てもらい墓石に芯を入れてもらった日は病院で寝たきりとなっている母も呼んだ。兄たちが歩けない母を交互に背負い、「ばっちゃ。これが正雄たちが建ててくれた墓だよ」と耳の遠くなった母に大きな声で叫んだ。80歳になったばかりの母は「マア。いい墓を建ててくれたな。じさまも喜んでいるべ」と涙ぐんだものだった。9月27日。まだ夏の名残の太陽がギラギラと燃え、暑い日だった。

 「あれからもう20年にもなろうとしているのか」。墓石を洗い、高校への入学式の日にダスターコートを買ってくれた父を思い出し、ふと涙ぐんだお盆前日の朝だった。思えば妻との蓄えの中から墓石の購入費を充て、墓を買ったのは入学式の日にダスターコートを買ってくれた父へのお礼だったのかもしれない。そう思うとふと涙ぐんだ。

 墓の掃除を終え、自宅に帰ったら宅配便があった。発送者の名前を見ると市内の読者の方からだった。中身は一万円の商品券だった。同封された手紙には「『県南日々新聞』をいつも女房と共に拝読させていただいております。普通の日刊紙と違い、事実を記載されるだけでなく、記者としてだけでなく、人間としての伊藤さんの感情が直接、伝わってまいります。いつも購読料を払わず、見せていただいて申し訳なく思っております。失礼かと存じますが、商品券を同封しました。何かに役立てていただければと思います」とあった。

 この方からのお礼は昨年暮れにもお歳暮としてあった。これで2度目か3度目である。お手紙を読みながら再び涙が落ちた。ケンニチ・コムにはこのような読者もいて下さる。ケンニチはいつも温かい目で読者に見守られていると思った。ありがとうございます。そしてそのお気持ちを励みにケンニチはこれからも小さな歩みの足を運びたいと思います。