白木の真新しい卒塔婆には「智通院涼月妙珠大姉」とあった。4人の僧侶が読み上げる読経を聞きながら「妙子さん。いい戒名をもらったね。これからはこの新しい名前で仏さまにお仕えになるんだね」と語りかけた。祭壇に飾られた遺影はまだ30代のころの写真のようだった。亡くなる前に「もしものことがあったらこの写真を使って」と夫に言い残したものだという。少しだけ微笑んだ顔だったが、えも言われぬ寂しさと弱々しい影を漂わせていた。西村妙子。53歳。大腸ガンで亡くなった。お盆の13日午前0時半だったという。
お盆の朝、いつものようにアキを散歩に連れ出し、それからパピーを散歩に連れ出して家に帰ったら妻がうっすらと目に涙を浮かべ、「マア。西村さんが、妙子さんが今朝、亡くなったんだって・・・」と涙声で訴えた。妻の一番の友だちだった。まだ妙子さんが独身時代からちょくちょくと我が家に遊びに来ては泊まり、一緒に十和田湖などへ旅行をしたものだった。妻は生涯の友として何かがあると西村さんに電話しては相談し、オープンに何でも話をしていた。全面的な信頼を置いていた。
同じ大曲高校卒であり、卒業した短大は違ったが妻が今の職場である仙北郡町村会に勤務したころ、西村さんは同じ仙北総合庁舎の中の県税事務所職員として採用され、お互い顔を合わせるようになったものだった。その後、西村さんは高校事務吏員として職場は移ったが、二人の交際は変わりなく続いていた。まだ20代だったころの西村さんは弟さんを大学に入れ、卒業するまでは結婚なんて考えないと自宅で英語の塾を開いて、その学費を稼ぐなどとてもガンバリ屋だった。そして結婚したが、自分たち夫婦と同じように西村さんにも子どもは恵まれなかった。
それでも幸せな家庭を築いて高校の事務職の仕事も事務長補佐まで出世して、もうすぐ事務長の職が与えられるはずだった。それが昨年7月、体の具合を悪くし、大曲市の仙北組合総合病院に入院した時はもう手遅れの状態だった。弟さんから妻に電話で連絡が入り「姉が入院しました。病名は大腸ガンで、しかも肺にまで転移しているとのことです」と最悪の告知だった。知らせを聞いた妻は「便秘がちで困ったと言ってたから、何度も医者に言ったらと勧めたのに」としょげかえり「マア。西村さん、肺ガンだと助からないのかしら」とすがるような目をして自分に聞いた。「肺にまで転移しているんなら無理じゃないかな。だけどなぜそうなるまで医者に行かなかったんだろう」。自分はむしろ西村さんの頑固にまで病院での診察を避けた行為に疑問を示した。
しかし、亡くなってから西村さんが病院に行けなかった理由がおぼろげながらも分かった。西村家には過去に不幸があった。嫁いだ先のお父さんがやはり胃ガンの手術を受けたものの医療ミスに近い状態で亡くなり、以来、西村家では医療機関に強い不信感を抱くようになっていた。だからご夫婦とも自分の病気にはとても神経質になっていた。そして診察を受けるとすると絶対、自分が信じられる医師でないと行かないと話していたものだった。
「私、これから何回、妙子さんと会えるか分からないから仕事が終わったら出来るだけ病院に顔を出したいの。10分でも20分でもいいから」。妻はそれからは機会を見つけては病院に通った。入院するまでほとんど食べ物が口に入らなくなっていたと言う西村さんは枯れ葉のようにやせ細り、24時間点滴を受けなければならない状態となっていた。大腸ガン、そして肺ガン。二つの重い病気を背負った西村さんはそれでも当時、便に血が混じるのは痔のせいだろうと思い、それが治ったら退院できるだろうと、職場復帰にいちるの望みは持っていたのだろう。見舞いに行くとベッドに横たわりながらも、弱々しい笑顔でこちらを迎え入れたものだった。
そして相変わらず知識欲も豊富で常に枕元には新聞、週刊誌が置かれてあった。妻と西村さんとは病室でどのような会話を交わしたものか。自分はいずれ死に行く運命にある西村さんと顔を合わせているのが辛く、少し顔を出しただけで部屋から抜け出し、妻が帰ると言うまで廊下をただブラブラしただけだった。昨年の異常とも言える暑い夏を病室で過ごし、秋を迎え、冬を越した。
昨年春、車が欲しいと言いだした妻は全くのペーパードライバーだったため自動車学校に10日ほど通って運転を習い、5月に軽乗用車を購入した。買った車はダイハツの乗用車「ジーノ」だった。「こんな車が欲しいの」とテーブルの上に紙を置いて車の絵を描いた。それが「ジーノ」だった。初心者マークを付けてやっと運転できるようになったものの一人で運転する自信はなかなか付かず、車を運転する時はいつも隣に同乗しなければならなかった。
なぜ突然の車だったろうと不思議に思っていたのだが、西村さんが亡くなってからポツンと妻が言いだしたのは「退職したら西村さんを乗せてドライブするつもりだったのに」だった。西村さんは車の免許さえなく、どこへ行くにもバスかタクシーだった。その西村さんを車に乗せ、一緒に遠くへドライブしたいと言うのが妻の夢だったようだ。しかし、その夢がかなう前に西村さんは病院の人となっていた。秋になってやっと一人で運転する自信が付いた妻は日曜日にも暇を見つけては自分で車を運転し、病院に通いつめた。そして冬は車の運転を休み、再び春の雪解けを待ってから妻は土曜、日曜日にと暇を見つけては病院に走った。
病勢は一進一退を繰り返したが、4月ごろから退院という話がちょくちょく聞かされるようになった。西村家では妙子さんを迎え入れるため、風呂とトイレを改造し、風呂にはシャワーを入れ、トイレは洋式とした。そして5月になって退院と言う信じられないような朗報が届いた。だが、自分にはそれがとても悪い予感となって聞こえた。もう医者もあきらめたのではないかと思ったからだ。とにかく退院した西村さんを自宅に見舞った。西村さんは相変わらず弱々しい顔をしていたが、訪ねた自分たちを立って迎え入れ、「お風呂とトイレをこんなふうに改造してもらったの」と案内した。小ぎれいな風呂とトイレを見ながら妻は「ワー。いい。お風呂も広いし、トイレもこれなら楽よね。家でも洋式だけど本当に洋式でないとねー」とはしゃいだ。自分も一人で家の中を立って歩けるまでに元気を取り戻した西村さんの様子を見て心底、ホッとしたものだった。本当に良かったと思った。
しかし、病気の魔の手は束の間の喜びと休息を与えただけだった。6月末、再び弟さんが我が家に顔を出し、「西村がまた入院しました。医師からはあと1週間か2週間の命とのことです。とにかく伊藤さんにだけはお知らせしたくて」と悲しい報告が届いた。玄関で話を聞いていた妻の顔色はサッと青ざめ、弟さんが帰ると「マア。あの病院では今まで何をしてくれたと言うの。なすがないままにただ入院させただけ」と悔しがった。
「そんなことはない。先生だって看護婦さんだって一生懸命に助けようとしたはずだ。ただ病気が病気だけに仕方なかったんだ」。妻は「明日、顔を出してみる」と言ったきり無言で夕食をとった。翌日、仕事を終えたあと二人で病院に駆けつけると西村さんは情けなさそうな顔で「ごめん。せっかく退院したと言うのにまた戻ってしまって。自分でも情けないの」としきりに謝った。点滴で動きのとれない手のひらを握って「西村さん。気にしないでいいんだ」。それしか言えなかった。そして自分は相変わらず病室には居れず、そそくさと廊下で時間をつぶした。
その次の日もその次の日も妻は病院に通いつめた。病室では西村さんの夫や西村さんの実家の母、そして妹さんが交代で看病をしていた。ある日の夕方、妻が病室に入ると顔色を変えてすぐに部屋から出てきた。「マア。もう私、病院には来ない。もう西村さんを見たくない。見れない」と絶望したような口調だった。そして「私。たとえ西村さんが亡くなっても葬式には行かない。もう西村さんのためにやれることはやってやったもの。あんなに早く医者に行くべきだと勧めたのに言うことを聞かなかった西村さんが悪いんだ」と泣きだしそうな声で帰りの車中で立て続けにしゃべった。
しかし、「もう病院には行きたくない」と言いだしたもののやはり気になるのだろう。10日も経つと再び病院に顔を出した。こちらは病室には入らず「どうだった」と聞くだけだった。「意識がもうろうとしているようだけど苦しんではいなかった」とポツリと寂しそうに語った。それから20日近く経った。妻の足は病院から遠ざかったままとなっていた。気にしてはいるのだろうが、西村さんのことは口にも出さなかった。そして死の知らせとなった。「行ってやろう」。「ウン。私、もう一人の友だちにも連絡する」。妻は西村さんと仲良しだったもう一人に電話で迎えに行くと約束し、3人で西村家を訪ねた。白い布をかぶった西村さんはあの病院にいたころの額にしわを寄せた辛そうな顔とは違って安らぎのある美しい寝顔だった。妻は一心にその顔を見つめ「妙子さん。ご苦労さまでした」と語りかけた。
「葬儀には行かない」と駄々をこねた妻だったが、自宅に帰るとアルバムの山を取り出して西村さんとの思い出の写真に熱心に目を通していた。そして西村家から弔辞の依頼を受け、その文を書くのに四苦八苦していたがどうにかこうにか書き上げると「マア。これから読み上げるからおかしな所があったら教えて」と読み出した。「妙子さん。退職したら一緒に旅行をしたり楽しい老後を過ごそうねと約束していたのに」。妻は読み上げては悲しみが募ってきたのだろう。何度もこみ上げては涙声になって詰まった。「アタシ。うまく読めるだろうか。泣いてしまわないだろうか」。妻はそれでも懸命に練習を重ね、17日の葬儀となった。ユックリ、ユックリと弔辞を読み上げる妻の後ろ姿を見て「妙子さん。お世話になりました。楽しい思い出をいっぱいありがとう」とお礼を述べてサヨナラをした。
智通院涼月妙珠大姉。お坊さんは35日の法要の時、「13日の満月の夜に亡くなられた仏さんを見たときにとても美しい仏さんだと思いまして、戒名にお月さまを入れさせてもらいました」と語ったという。弔辞を読み上げると言う大役を果たした妻もあきらめが付いたのか、このごろやっと以前の明るさを取り戻した。それにしても友を病気で失う。そんな年代になってしまった。