麗しの国、もてなしの国・台湾−。今度の台湾への旅を一言で表現したら、こういう事になるだろうか。同時に残念な旅でもあった。それは台湾での「秋田県南日々新聞」の活動は失敗に終わったからである。第一に肝心要(かなめ)の「第2回台北花火節」として永和市で打ち上げられる予定だった「大曲の花火」が台風と言う気まぐれな自然のいたずらによって敢えなく挫折、10月10日まで1カ月間の延期となったからである。加えて現地からのレポートも記事と写真を送るためのソフト「FTP」が作動しなくなるというアクシデントにも見舞われ、送信が完全な失敗に終わったからである。このため台湾の人々の真心のこもった歓迎を受けながらも心のどこかはポッカリと穴が開いたような気分で毎日を過ごさざるを得なかった。「いったい何のために自分はこの国に来たのか」と茫然自失する旅でもあった。しかし大きな収穫もあった。それは台湾の人たちの真心であり、もてなしの心である。初めて踏んだアジアの小国「台湾」は素晴らしいほど人と人との出会いを大切にする“麗しの国”だったからである。それが今度の台湾の旅で得た唯一の救いだった。
一体、いくらの人たちと名刺を交換した事だろう。名刺入れはまるで空気をいっぱい吸い込んだ風船のようにパンパンに膨らんだ。まず最初に私たち報道関係者を台北空港で出迎えた台湾行政院新聞局の陳樹銘さん。日本政府でいう官房室、いわゆる政府のスポークスマンである。そして花火の打ち上げ会場となる台北市南端の中正河浜公園(河川敷)を管理する永和市の林徳福市長と中和市の呂芳煙市長とその秘書や職員たち。「台北花火節実行委員会」のメンバーなど数々の人たちと名刺を交換した。出会う人、すべてが9日夜の「大曲の花火」をいくら楽しみにしているかを口にし、歓迎と激励の言葉の洗礼をシャワーのように浴び、ホテルでの朝食を除くとまさに昼から晩まで台湾料理とビール、酒、そして「乾杯」の連続となってしまった。
しかも、花火大会が台風の影響で中止になったのにも関わらず台湾の人たちは「順延になったのは私たちの楽しみを神さまがもっと先に伸ばそうとした粋な計らいだ。それこそ神さまからの素晴らしいプレゼントではないか」と喜び合い、一言も「残念」と悔やむ言葉を口にする人はいなかったのである。そして中和市長とその家族、親類、中和市職員らを交えての昼食会で熱烈な歓迎会となり、夜は夜で「台北花火節実行委員会」の委員長であり、台湾の国会議員でもある趙永清さん(43)主催の慰労パーティーとなったのである。
洪水になる前にと、9日朝から花火会場となった河浜公園の河川敷から花火の筒や玉の撤収作業を終え、趙さん主催の慰労パーティーに駆けつけた花火師の一人・長野秀明さん(35)=仙北火工=は「打ち上げたかった」とさも残念そうな口ぶりだったが「花火師生活13年。初めて海外に来た。でも今日の花火はだめとなっても台湾の人たちのこの喜び、この歓迎のすごさ。挫折を新しいバネにしようとする台湾の人たちの頭の切り替えのすごさには感動した。人生の勉強になった。俺もこれからの人生をこのようにして生きたい」と語った。本当にその通りだと思った。台湾の人たちは挫折でさえも自分を鍛えるための栄養剤として飲み込むのである。
そうした中でただ一人、今回の大会に向けて半年前から会場の設営に取りかかり、大会に備えて2日間も徹夜を重ねたと言う「台北花火節」総幹事の連協銘さん(38)だけは「せっかく秋田からこんなにも多くの人たちが駆けつけてきてくれたのに台風で中止になるなんて」と涙をぬぐおうともせず慟哭(どうこく)していた。その連さんの肩を抱き、花火節委員長の趙さんは「いいんだ。いいんだ。君は一生懸命、頑張った。君のせいじゃない。むしろ先送りとなって台湾の最も大切な日である国慶節(10月10日)に国の行事として打ち上げられることになったんだ。それを祝おうじゃないか」と慟哭する連さんを懸命に慰めていた。趙さんは8月26日の「大曲の花火」にも中和市の観光団の代表として大曲市入りしているほどの花火ファン。花火の素晴らしさを台湾で一番、良く知っているだけに連さんの悔し涙の気持ちも分かるのだろう。とにかく懸命に慰めていた。その連さんは涙を浮かべたままこちらのインタビューに答え、「来月の10日こそは台湾で一番いい天気にしたい」と唇を?みしめたが、テーブルに着くと再び涙、涙だった。
今度の台湾の旅は台湾政府の招きだった。秋田空港を7日午前10時に発ち、羽田空港から午後2時のチャイナ航空のジャンボ機で台湾入りした。夕方5時には台北空港に着いたが、入国手続きや荷物の受け取りなどを終え、ホテルに着いたのは7時過ぎだった。空港で台湾新聞局の陳さんの出迎えを受け、私たち報道関係者5人はその専用車で「ライライ(来々)シュトランホテル」への移動となった。車は自動車専用道をひた走り、台北に向かったが道路は片側4車線から時には5車線もあるにもかかわらずまるで東京都心の混雑と変わらず、車の渋滞に巻き込まれた。その多くがトヨタ、ニッサン、ホンダ、ミツビシなど日本車であり、ベンツやBMW、果てはポルシェなど高級車も見られた。台湾経済の豊かさを物語る光景だった。
車はやっとハイウエーを降り、台北市内へと入った。入って驚いたのはオートバイやスクーターの多さだった。信号が赤で止まると同時にまるで雲霞のごとくオートバイ、スクーターが自分たちの乗った車を取り囲み、走り出した。その動きの目まぐるしさは猫に追われるネズミの大集団のようでもあった。翌朝、ホテルから2階建てのバスで移動中に同行した台湾在住の日本人経済界・日僑協会の一人は「あれが台湾経済界を活気づけている原動力と言っていいでしょう」と自慢した。台北の街を忙しく走り回るには、車の渋滞に巻き込まれない二輪車が一番、と言うのだ。そして不便な地下鉄ダイヤも二輪車の需要を高めているとも語った。 それにしても良くぞ事故が起きないものだ。二輪車が片側4車線、3車線の道をこまねずみのように走り、追い越して行く。その姿を見て、こちらはただはらはらするだけだった。雨にもかかわらずオートバイ、スクーターの集団は雨合羽姿で車を追い越し、横切った。雲霞のごとく集まっては消えた。
とにかく街中、どこもオートバイ、スクーターだらけなのである。歩道さえも隙間のないくらいオートバイ、スクーターの駐車だった。それがほとんど日本製だから驚くばかりである。再び日僑の人の話を登場させよう。「この国の国民は苦労を重ねてきただけに苦難にとても抵抗力があるのです。日本はあの石油ショックの時は大変な騒ぎになったでしょう。台湾はその点、とても打たれ強い。今、台湾で走っている日本製の車やバイクはみんなこの国で組み立てたもので、彼らはだからと言って国産の車がないことを残念がると言うこともない。乗り物の面では日本製に頼ってはいるが、この国のパソコン関連の生産・出荷量は世界一なんです。それが彼らの誇りであり、今の台湾の景気を支えているのです」と語った。とにかく街中が活気に満ちている。それが肌で感じられるほどだった。その活気は台北の街の人たちが持つ携帯電話にも感じられた。とにかくビル街を歩くとだれもが携帯電話を手に時には怒鳴り、時には哀願するような口調で話をしているのである。しかも若い人も中高年の人もこざっぱりとしたしゃれた服装で街を闊歩している。この国の経済力が今、爛熟期を迎えている事をその光景が物語った。台湾は活動している。鼓動していると思った。
台湾に行く前に自分は陳総統の「台湾之子」、そして李前総統の「アジアの知略」にざっと眼を通していた。読んだ感想は日本の政治家とはまるで違った考え方、しっかりとしたポリシーを持っていると言うことだった。特に感動したのは陳総統の目指す「美しいハイテクの島『グリーン・シリコン・アイランド』の創造」だった。彼はこのビジョンを実現するために「我々は学習を通し競争力を向上させ、社会の矛盾を取り除き、パートナーシップを確立することで相互信頼の社会を築きたい」と提案する言葉だった。
陳総統はその著書で「我々は島内のグリーン・インフラ整備を完成する。物資とエネルギーの消費を抑え、精神文化面での消費を中心とする新たな構造を確立し、変化に伴う圧力を改造の推進力に変えなければならない」と訴える。そして「国土計画全体において環境に優しい生活の実現を主な目標として、居住空間で物資をリサイクルし、エネルギーの消費を最低限にとどめる。同時に農業技術を中心とするバイオテクノロジーの発展を加速させる」とも書く。台湾を代表するリーダーが目指そうとするこの高尚で自信に満ちた言葉を目にしたとき、自分は台湾こそ「すごい国」ではないかとさえ思った。さらに陳総統は「都市の規模を可能な限り縮小、通勤時間とエネルギーコストを削減し、分散型の居住形態を確立してスモールタウンを基本的な生活機能の単位とする。また、運輸機関や情報通信網でこれらをつなぎ、ネットワーク・コミュニティーを形成、グリーン・シリコン・アイランドのハード構造を完成する」とも書いている。つまり台湾型シリコンバレーを目指そうというのだ。
いわば日本の政治家にはないタイプの自分の言葉、自分のポリシーを持った陳総統の著書に心打たれたまま台湾入りしたのである。一種の憧れでもあった。その陳総統が「今、自分の目の前にいる」。8日午後2時過ぎ、台湾総督府に駐在する憲兵隊の厳重な警備の眼が光る玄関をくぐった自分はさすがに緊張していた。国土面積3万6000平方メートル。九州よりも一回り小さな島国とは言え、人口2200万人の国の代表者である。日本人でさえ自分の国の首相には滅多に会えないと言うのに外国のしかも、今年3月の総統選で国民の代表に選ばれたばかりの人が目の前にいると思うだけでも不思議な夢のような出来事だった。国の代表が面談の機会を与える。とにかくそれほど台湾の人たちは「大曲の花火」に期待を寄せていたのである。
やや言葉に失するが、日本の片田舎とも言っていい秋田県大曲市の青年会議所(大曲JC)のメンバーや私たち報道関係者の前に姿を表すだけでも異例中の異例な特別待遇だったろう。しかし、やはり一国を代表する主である。陳総統を出迎える前に秘書や通訳から私たち報道関係者には固い約束を求められた。写真撮影が許可されるのは陳総統が部屋に入って着席するまでの間と会談を終え、握手を交わそうとしている時以外は一切、カメラのシャッターを押してはならないと言う事だった。しかも撮影が許されたのはカメラ1台とテレビカメラ1台だけという厳しい制約だった。結局は自分が新聞社を代表してカメラを持つ事となった。責任重大である。まだ不慣れなデジタルカメラを手にいつの間にか指先までが汗ばんでいた。
初めてお会いした陳総統は終始、にこやかな笑顔を絶やさず「大曲の花火が台湾の年中行事になると思われので、非常に期待している。花火は美しいだけでなく活力や希望も表している。大曲の花火が台北だけでなく台湾全体にとっても大きな楽しみとなるだろう」と語られた時はさすがに感動した。「大曲の花火」というブランド銘が、台湾を代表する総統からその価値観が認められたのである。陳総統の左側に座った初代大曲青年会議所理事長の辻久男県議、挽野実之大曲JC理事長、小池澄夫大曲JCOB、伊藤一巳同、小西亨一郎会員の顔がうっすらと紅潮しているのが明らかだった。同時に「大曲の花火」を台湾での打ち上げのために資金面で協力し、陳総統との面談に同席した日本交流協会、日僑協会、日僑工商会など台湾在住の日本経済界のメンバーたちにも喜びと誇りがひしひしと伝わっているのが目に見えて明らかだった。さすがに嬉しかったのだろう。総督府からの帰りのバスの車中は明るい声と笑顔でいっぱいだった。
陳総統と会う前の李登輝前総統との出会いもやはり緊張の連続だった。李前総統と言えば世界の政治家を相手に一歩も引かず、堂々と自国の問題を語り、やり合った小さな国の“偉大な政治家”である。その李前総統は真新しい33階建ての「台湾総合研究院」と言うビルの最も高い所に広大で重厚な事務所を構えていた。ここも厳重な警備で固められていた。李前総統との会談は1時間近くにも及んだ。気品に満ちた室内で李前総統は終始、物腰柔らかな笑顔と正確な日本語で我々一行と接した。
その李前総統は大曲JCや台湾在住の日本人経済界代表33人を前に「民間ベースでの交流を促進していこう」と大曲JCと台湾・中和市の青年会議所との交流によって今年1月1日に中和市で打ち上げられた「第一回台北花火節」の成功を喜び、「私も今回の花火大会は見に行く予定だ。世界一の大曲の花火を一度は見てみたかった。今回の花火大会を通じて日本の民間交流、経済・文化の交流がますます進んでいくことを期待している」と静かな口調で語った。さらに日本の植民地時代に台湾総督府民政局長を務めた後藤新平の名を口にし「岩手県出身の後藤は台湾の鉄道・電信などのインフラを整備してくれた。また資本主義社会の礎を築いてくれた人だ。私たちはその後藤新平にとても感謝している」と植民地時代の不幸な出来事には一切、触れず、むしろ後藤あっての台湾だと言わんばかりの口調で日本への親しみを込めた。さらに李前総統は「日本人はこのところ、自信を失っている。国歌にも国旗にも誇りを持つべきだ」と諭すような口調で日本への激励の言葉さえ述べた。
辻県議は陳総統、李前総統にそれぞれ「お忙しい所、このような貴重な時間を取っていただいて感謝している。また何よりも今年の正月に台湾・中和市での大曲の花火の打ち上げが大成功に終わったことへのご協力にもお礼を述べたい。大曲青年会議所の若い人たちが中心となって台湾の若い人たちと交流を深めお互いが発展していくことは素晴らしいことだ」とお礼を述べた。また大曲JCの挽野理事長は陳前総統に対しては「今年1月1日の第一回台北花火節での『大曲の花火』は警備の関係や公職の忙しさで観てもらえなかったが今回は観てもらえると言うことでとても喜んでいる」と感激の言葉を述べた。そして陳総統に対しても「総督府に招かれて大曲の花火を語れる機会を設けて下さったことに感謝したい」と緊張しながら謝辞を述べた。
一行は陳総統と李前総統に対してパネル張りされた「大曲の花火」の写真と花火の玉の模型や又五郎こけし、角館町のかば細工、そしてJR東日本鉄道株式会社秋田支社から預かった新幹線「こまち」のアルミ張りの写真を寄贈した。そして陳総統も李前総統も一行からのお土産を快く受け取り、記念写真にまで収まったのである。国家の代表者が秋田のしかも人4万人を切った小さな都市からの訪問客と肩を並べたのである。
今年正月の中和市での花火大会を打ち上げ前にも一度、当時は総統と言う立場で李前総統と会っている小西亨一郎さんは「李前総統は『日本の植民地になったおかげで私たち台湾人は日本語を覚えたし、戦後はアメリカのおかげで英語を覚えた。だから日本にもアメリカにも感謝しているとおっしゃった。過去の悲劇を常に前向きに、プラス思考に捉える偉大な人だと思いました」と帰りの車中で感想を述べた。人を包み込むような温かい笑顔がとても印象に残った李前総統の表敬訪問だった。
一行は陳総統の表敬訪問の後、中和JCと姉妹提携している関係もあって中和市役所の表敬訪問と言う日程となったが、こちらは陳総統、李前総統の記事を書き上げようとホテルに戻った。しかし、一抹の不安があった。7日夕、ホテルに着いてすぐにパソコンの接続方法とその電話番号を聞いてケンニチのホームページを呼び出そうとテストをしたが失敗に終わっていたからである。それでも何とかなるだろうと、とにかく急いで原稿をまとめ、写真を取り込み、ケンニチの編集作業を進めた。そして再び台湾からの電話番号をプログラムに取り込んで、接続を試みたが、繰り返しても繰り返しても意味不明な英文での声が聞こえてくるばかりとなった。「なぜだ。どうしてだろう」。焦った。冷や汗が出るほど焦った。しかし、下手な操作を繰り返して、それこそソフトを壊してはなんにもならないとあきらめ、ガックリとしたままホテルの部屋で過ごした。やるせない気持ちのままホテルで過ごしていたら、大曲JCの人たちから声が掛かり、永和市長が席を設けているとの事でタクシーで走った。明日9日の花火会場となる河川敷の近くを走り、その広大な面積に目を見張りながら、台北市の料理店に入った。林徳福市長は日本で言う掘ごたつのようなテーブルに腰を下ろし、「おー。良く来てくれた。大曲の新聞記者さんか。ご苦労さんでした」と抱き抱えんばかりの歓迎ぶりだった。隣り合わせとなった辻県議や向かい合った挽野さんや伊藤さん、小西さんらとは市長と言う肩書なしの親しい友としての触れ合いだった。
その席から間もなく明日の花火大会に備えて試験的な花火の打ち上げがあると言うことで中正河浜公園へと向かった。公園にはびっしりと花火大会に備えて設けられた夜店用のテントが並び、ステージ上では芸能人が明日に備えて念入りにリハーサルを繰り返していた。間もなく激しい炸裂音と共に花火が打ち上げられ、台湾の人たちは大声を挙げて喜んだ。それを見ながら明日の大会「成功」を心から祈った。そしてその足で全員で台北の屋台街「士林(しーりん)」へと向かった。碁盤の目のように入り込んだ狭い路地を大勢の若者たちが行き交う。衣類、時計、靴、雑貨。様々な店が立錐の余地もなく並んでいる。東京・上野のアメ横と言っていいだろう。夜の10時過ぎだった。その賑わいを見て「台北も眠らぬ街」と思った。
士林での観光を楽しんではみたものの、気分はどうしても晴れなかった。深夜だったがあきらめきれず、午後11時ごろパソコンを手にフロントに行って日本語の分かるホテルの人と相談。ホテルの人はビジネスルームに自分を案内し、そこから「ケンニチ」へとアクセスを試みた。待望のケンニチが、ホテルのパソコンからつながった。「ああ。伊藤さん。これですね。なら、このパソコンを使って記事を送ってはいかがです」と勧めたが、ケンニチの編集用ソフトは自分のパソコンにしかないだけにどだい無理な話だった。ならせめて「読者の広場」からでも書き込もうかとも思ったが、キーボードを見ると中国語専用の漢字が羅列されてあって、使いこなせるものではなかった。ホテルの人も気の毒そうに「分かりました。明日まで待って下さい。何とか技術的な問題で分かる人に連絡してみます」となって就寝したのは午前0時を過ぎていた。
そして花火大会当日の9日朝。朝食を採ろうと一階ロビーに降りて行ったら挽野さんや小西さん、小池さんらが慌てふためいたような顔で「伊藤さん。花火が台風で中止になったようです」と口にし、「俺たちはこれから打ち上げ現場に行ってきます」とホテルを後にした。こちらはそれこそ重大ニュースだと再びパソコンに向かって記事を書こうとしたが、書いても送れないのに気づいて愕然とした。ホテル側からも何の連絡もなく、もうあきらめるしかないかと地団駄を踏む思いで部屋で過ごしていたら午前10時ごろ、大曲JC・OBの伊藤さんから依頼されたと言う現地の若者・リュウさんが部屋に来た。伊藤さんは前日の陳総統、李前総統との会談記事をケンニチに送れなかったことを「ケンニチの魅力は何と言ってもリアルタイムで記事が更新されることなのに」と残念がり、「自分の知っている台湾の若者を紹介しましょう」と前の夜に約束してくれていた。そのリュウさんがホテルの人よりも早く来てくれたのである。
リュウさんはまず、自分のパソコンを使ってケンニチへのアクセスを試みた。「ホテルから教えられた電話よりもこちらの方が接続しやすいかもしれない」と新しい電話番号での接続方法をリュウさんは取った。意外と簡単に部屋からもつながった。「ああ。これでいける!」。心は天にも登るような気持ちとなった。「よし送れる」。期待を込めて「FTP」を呼び出した。そしていつもの作業に入ろうとしたら、「FTP」からはこれまで見たこともないようなメッセージが出てきて、更新された記事を受け付けようともしなかった。英文のそのメッセージに目を通していたリュウさんは「伊藤さん。このFTPの使用期限が切れているそうです。もう一度、契約し直すかどうかと問いただしてます。どうでしょう。この台湾で契約をし直しても日本に帰ってから再びやり直しとなっては意味がないでしょうし・・・」。リュウさんはさも気の毒そうな顔で話した。「契約??。FTPの使用期限??」。意味不明な言葉に頭は真っ白な状態となり、ケンニチの台湾での活動はこれで完全に道を断たれた。
やるせないままホテルのロビーをブラブラし、台北駅へと足を向けた。駅前には日本の三越デパートがあった。大勢の買い物客がデパート前で開店を待っていた。こちらも開店と同時に店に飛び込んだ。漢字の案内文字を見ていても大体、どんなものが売られているかが分かる。12階が電気器具と趣味のコーナーとあった。エレベーターに乗り込んだ。大勢の台北市民が電器がまや冷蔵庫などを品定めし、買い物だった。ここでも台湾の景気の良さを見たと思った。本のコーナーがあり、そこにも立ち寄った。中国語の本だけでなく、司馬遼太郎など日本の文庫本も売られていた。滞在している多くの日本人のためなのだろう。とにかく店内全体が買い物客で活気づいていた。そうした賑わいを見て歩きながらも「それにしても花火大会が台風で中止になるなんて」と心の中はどこか虚しさでいっぱいになった。
ホテルに戻って部屋の中で昼ごろまで過ごしていると電話が鳴った。「伊藤さん。花火は中止になったが中和市長さんらの歓迎会がありますから、大至急、下に来てください」と小池さんからの呼びかけだった。バスが用意されていてそれに乗り込んだ。案内されたのは台北市内でもトップクラスと言われる「海鮮料理専門」のレストランだった。絢爛たる装飾が施された室内で、七十代とも思われる呂芳煙市長夫妻は私たち一行を肩を抱くかのように歓迎した。市長室の男性秘書、計量室主任という女性職員もいた。また市長さんの親類までも呼ばれていた。親類一族を大事にする、と言う台湾ならではの風習なのだろう。
テーブルには次々と本当に次々と様々な料理が運ばれ、ビール、ブランディー、ウイスキーでの「乾杯」が繰り返された。乾杯と言っても台湾の人たちとのお酒の交流はまさに一気飲みなのである。向かい合わせた男性と目が会うと「おー。イトウさん。カンペイ」とブランディーの入ったお猪口のようなコップをこちらに向ける。「ハイ。乾杯」とこちらはビールの入ったコップを手に乾杯を交わし、二口三口飲んだが相手は「オー。ノーノー」と承諾しない。一気にコップの中のビールを空にしろと言うのだ。中にはコップの中のブランディーの量が同じかと確認したうえで、それを3回も繰り返して一気飲みを求める。さらには自分がタバコを吸いたくなるとポケットからタバコを取り出し、その中の一本をこちらに抜き取ることを勧め、お互いに同じタバコを吸うのを求める。
とにかく酒の席となったら相手に酔ってもらわないと困るのだ。相手が愉快に酔ってくれるのが台湾の人たちには一番の歓待となるらしい。隣に座った女子職員からもビールが注がれ、「イトウさん。カンパーイ」と来る。ニッコリとしたその笑顔を見つめ、再びこちらも「カンパーイ」を繰り返した。するとそれを見ていた斜め向かいの男性職員もブランディーグラスを手に「オー。イトウさん。カンペーイ」と求めてくる。それに応え、こちらもビールを飲み乾す。料理が運ばれ、少しだけ箸を付ける。まだいっぱい残っていると言うのに再び料理が運ばれ、残った料理がウエートレスの手で運ばれる。饗応。台湾式の接待とは随分、目まぐるしい。そして心から感情を込める。その接待の熱っぽさに「台湾人たちの接待は少し水割りにしないと心が受け付けられない」とさえ思った。ともかく一人ひとりの笑顔の何といいことか。料理を目にし、台湾と言う国はまさに食文化の国であり、もてなしの国だと思った。
レストランを出ると台風の影響を受けた雨がパラパラと降っていた。夕暮れが迫っていた。ほろ酔い気分でホテルに帰った。そしてその夜、再び始まったのが国会議員の陳永清さん主催の花火師さんたちも交えての慰労の酒宴なのである。連さんの悔し涙を見て、また花火が台風で挫折したのをバネにより盛大で大きな大会にしようと心を切り換える台湾の人たちの心の強さを見た。そしてどんなことがあっても酒の席では陽気に楽しく飲もうとする台湾の人たちの朗らかさにも触れた。歌があり、合唱もあった。大曲JCの人たちも肩を抱き合って歌い、踊った。大曲の花火のムードをここで演出しようと小西さんはマイクを握って「第十三ゴー。昇り八重芯変化菊」と叫んだ。みんなの目が潤んだ。そして光った。台湾の人たちはその声に延期になった大曲の花火にとても情熱的な感情を注いでいるんだと分かった。10月10日に延期になった「第二回台北花火節」。その日こそ本当に台湾で最高の天気になることを祈りたいと思った。
そして10日朝を迎えた。午前10時には台湾政府新聞局の陳樹銘さんが台北市内案内のために迎えに来る事になっていた。陳さんもインターネット新聞へのニュースが送れなかったことを残念ながらも「伊藤さん。せめて台北の観光を楽しんで下さい」と私たちを案内し、「故宮博物館」や日本の靖国神社に当たる「忠烈祠」、寺院、さらには台湾の電脳街「八徳路」などを案内した。台湾や中国の歴史に疎い自分は博物館ではただその悠久な歴史の流れと展示物に恐れをなすだけだったが、忠烈祠で見た2人の衛兵が微動だにせずに門に立つその姿の美しさには感動させられた。銃剣を大地に下ろしたまま、まるで蝋(ろう)人形のように微動だにしないのだ。その衛兵をバックに大勢の観光客が次々と記念写真を撮る。銀色のヘルメットをかぶった衛兵が動かせるのは目だけである。深めに被ったヘルメットの下から目だけが時々、ギラリとした光を放って動く。陳さんによるとこの不動の姿勢は1時間交代で続けられるのだと言う。
運良くその交代の時間が来た。他の兵士の手助けを受けてマントを背負い、雨の中をピーンと背筋を伸ばし、ザクザクと靴音も高く本堂に向かう2人の衛兵。そして本堂前での交代の儀式。国のために亡くなった霊が奉られている忠烈祠。その霊を守ろうと厳かな儀式で銃剣を掲げ、美しさと威厳を保ちながら交代する衛兵には感動させられた。
趙さん主催の慰労の席でインタビューに応えた大曲JC理事長の挽野実之さんは「ここまで長く付き合えたのはやはり台湾の人たちの人を大事にするという紳士的で社交的な民族だからです。台湾と日本とは国交がないが、日本とは民間交流、観光を通じての交流がとても盛んだ。今回は台風で延期にはなったが、この国で大曲の花火を打ち上げられると言うことは私たちの誇りだ。花火を通じて大曲市とこの台北市や中和市、永和市との行政交流へと通じたら最高だが、今すぐは望んでいない。これからは私たちの子どもたちとの交流も深めるなど時間を掛けて民間交流を深め、この国の人たちとの触れ合いを大事にしたい」と語った。
10月10日に延期になった「第2回台北花火節」。この10日は台湾にとって最も大切な「国慶節」と言う国の誕生を祝う日である。台北市では毎年、この日に花火大会を開いて「国慶節」を祝ってきたが、今回の花火の延長を機に台北で行ってきた「花火大会」は台湾の第2の都市「高雄市」に移動し、「大曲の花火」で祝おうと言う国を挙げての話にもなっている。台風がもたらした思わぬビッグイベントだ。大曲JCのメンバーたちはこの話を聞いて「大曲の花火のブランドがますます高まる」ともろ手を挙げて感動している。
今度の旅では大曲JCの人たち、そして台湾政府新聞局の陳さん、国会議員の趙さん、中和市長の呂さん、永和市長の林さん、その他、本当に多くの人たちのお世話になった。そして台湾の花火のためにもう一度、台湾に渡る北日本花火興業(神岡町)、仙北火工(同)、小松煙火工業(大曲市)、大曲火工新山煙火店(同)の皆さま。本当にご苦労さまとお礼を述べたい。
11日夕、台湾から夕方に羽田空港に着いた。空港から自宅に電話を入れた。「秋田空港に着くのは7時ごろと思うんだ。家に着いて8時か。お願いだから湯豆腐だけ作ってくれいか」と懇願した。台湾での豪華な料理と酒。小食家の自分は大量の料理を見ただけで胃袋が満腹になり、食欲が落ちていた。せめて日本に帰ったら大好きな湯豆腐で満足したい。それだけが願望だった。こうして台湾への旅は終わった。