半袖から長袖へと衣替えし、そして朝露が降りた今朝はそれに薄いカーディガンを羽織っての散歩となった。あの暑い夏の日々が終わって次第に涼しくなり、その涼しさもこれからは一日ごとに寒さへと変わって、季節は秋を深めて行くことだろう。台湾の旅から帰ったら、続けて2件の訃報があった。一人は市役所を定年前に退職した渡部祥二さんであり、もう一人の方は太田聰子(さとこ)さんである。
どちらの死も我が耳を疑った。渡部さんはまだ60歳、太田さんだってまだ67歳である。特に渡部さんとは市役所にいたころから良くお酒を飲み、付き合った数少ない気の許せる友だちだった。なぜ市役所を定年前に辞められたのかは良く分からないが「とにかく俺はもういいんだ。これ以上、役所にいたってしょうがない」と3年前にそそくさと退職を急いだものだった。役人らしさのない、気さくでとても明るい人だった。みんなにナベさんと呼ばれ、とにかく朝からナベさんのいる職場は笑い声に満ちていた。
退職後は市の嘱託として地域職業訓練センターの所長をやり、この春からは特別養護老人ホーム「欣寿園」の園長として迎えられ、勤務されていた。一方の太田さんは県の職員で、妻と同じ県の出先機関である仙北総合庁舎で働いていた。そこを定年で退職したのだが、とても妻を可愛がっていた。
渡部さんは14日朝に亡くなり、太田さんは17日に亡くなった。二人の訃報を耳にしたときは「えー。どうして!」とただ我が耳を疑った。太田さんの死は妻からの携帯電話で知ったのだが、なぜこうも自分の身近な人たちが次から次へと先を急ぐようにあの世に旅立ってしまうのかと強いショックと悲しみを味わった。
渡部さんが退職して、職業訓練センターの所長をやっておられたころはこちらもちょくちょく訪ねてはお茶をご馳走になり、まだ若かったころの昔話に興じたものだった。自分よりも7歳も年上なのに渡部さんは同年配者のように自分を遇し、「伊藤さん。最近、飲んでるか。おれは市役所を辞めたらさっぱり飲む機会がなくなって」と寂しそうに語り、「今度、やろうよ。いっぱい飲もうよ」と何度も何度も口癖のように約束を交わしたものだった。
渡部さんが市役所を早めに辞めようとしていたとき、こちらもインターネットを使った新聞「秋田県南日々新聞」を立ち上げようとしていた。「ナベさん。これからはパソコンを多少なりとも使えないと世の動きに着いていけなくなるよ。退職までにパソコンの操作ぐらいは身につけたら」と何度も勧めたが、渡部さんは曖昧な笑顔を見せて春を迎え、市役所を後にした。
それでも自分の取り組んだケンニチは気になるようで渡部さんをその職場に訪ねると、「伊藤さん。アクセス数はもういくらになったんだ。収入の見通しは付いたか」と心配したものだった。当時はまだケンニチの広告収入はなく、「いや。ナベさん。広告はまだだよ。まあこれだけは焦らずじっくり待つしかないな」「そうか。まだか。だけど伊藤さんの書く記事だから、きっと読まれる新聞になると俺は思うんだ。必ず収入につながる。頑張るべ」。渡部さんは自分のことのように心配したものだった。そしてある日、「ナベさん。ケンニチはやっと小遣い程度を稼げるまでになったよ」と報告に行くと、渡部さんは人のよさそうな笑顔で「オーッ。伊藤さん。やったか。広告が付いたんだ」と心底、喜んだ人だった。「伊藤さんはただの新聞記者で終わる人じゃないと俺は思ってたんだ。きっと何かやる。伊藤さんらしい何かをやるんだろうと俺は思ってたんだ」。渡部さんは目を細め、「インターネットと言う最新鋭の機能を使って新聞を出すなんて。やはり伊藤さんだよ」とべた褒めされたものだった。
飲むに行くと女の子を前にジョークを交え、イヤらしさを感じさせない程度のエッチな話題で笑わせ、周囲を沸かせたものだった。眼鏡の奥の目はいつもほほえみ、その優しい目と明るい口調で常にこちらを立て「ママさん。この伊藤さんはすごい人だよ。記事を書いては読ませるし、女は泣かせるし、(おいおい。ナベさん。こちらはその口調にあわてたものだった)センスはいいし、俺はほれたね」とこちらが赤面するような褒め方をしたものだった。その渡部さんのべた褒めに乗って、こちらはそのママさんと甘い恋のお酒を飲んだものだった。恋と言っても、二人でコーヒーを飲む程度の付き合いだったが、渡部さんは「伊藤さん。あのママさんと付き合うなんてたいしたものだ。やるねー」と恋の架け橋になった事を無邪気に喜び、「また飲みにいくべ」と誘ってはこちらがそのママさんを前に子どものように小さくなっている姿を楽しんだ人だった。
その渡部さんがこの春から「欣寿園」の園長として迎えられたのを知らずに、こちらは久しぶりに「ナベさんはいるか」と職業訓練センターを訪ねた。センターでは「あら。渡部さんは今は欣寿園です」と言い、「伊藤さんに言わなかったんですか」と職員たちも意外そうな顔だった。こちらも「何だ。ナベさんも水臭い」と少ししらじんだが、渡部さんは市役所を辞めた時も飄々(ひょうひょう)としていたし、「欣寿園」の園長と言う新しい職も、普段どおりの流れと受け止めたのだろう。「欣寿園」を訪ねると渡部さんは「いやー。伊藤さん。良く来てくれた。まず座れ。まず座れ」と席を勧め「この春に突然さ、ここに来ないかと声を掛けられて、唐突だったものだから伊藤さんにも報告する暇もなくて」と相変わらずの笑顔で歓迎したものだった。
欣寿園では古くなった建物を前に「建て替えなければならないけど大変だろうな」と財政的な面で頭を悩ましているようだった。そして14日、欣寿園では「敬老会」が行われる予定だった。渡部さんはその準備に追われ、前日はリハーサルまでしていたと言う。初めての敬老会の責任者となった渡部さんはどんなに緊張していたのだろう。出勤しようと家で着替えていた時にドンと倒れ、そのままの旅立ちとなってしまったという。渡部さんの葬儀の日は議会の一般質問の取材があったためどうしても行けず20日朝、その自宅を訪ねた。出迎えた奥さまは「主人は伊藤さんが欣寿園に訪ねてくれたよととても喜んでました。そして最近、飲んでないから伊藤さんと飲みたいなとも言ってました。私も伊藤さんをお誘いしたらと言ってたのに。このごろ根気を詰めていたようだから、気晴らしに飲みに行くようにともっと強く勧めておけば良かったのに・・・」と静かな口調で話した。奥さまの目は祭壇に飾られた渡部さんの遺影を見つめたままだった。
写真は白いスポーツウエアをまとったラフなスタイルのものだったが幸せそうな笑顔だった。奥さまは「家族で男鹿に旅行に行った時に撮った写真なんです」と見つめたままだった。「ナベさん。さようなら」。仏前に額ずき、最後の別れを告げた。
そして同じ日の夕、今度は妻の友だった太田さん宅を訪ねた。太田さんは県職時代に良く妻の職場に来てはお茶を飲み、「和子さん。和子さん」と可愛がっていた人だった。退職後も「和子さんは私の一生の友だちよ」と大事にしてくれた人だった。我が家を新築したときは「伊藤さんたちが請け負わせた大工さんだもの。間違いないわ。私もそこへ住宅をお願いしたい。紹介して」と伊藤住宅に新築を依頼したものだった。そして柴犬のアキを迎えると太田さんまでが「我が家でも犬を飼いたい」と同じ柴犬を飼った人だった。最近、音信がないなと心配していたら8月に入院し、そして最後となったらしい。妻は太田さんの死に驚き携帯電話で「マア。太田さんまで亡くなったんだって。あの太田さんが」と悲痛な声で太田さんの死を報せてきた。「ああ。なんだ。どうしてこうも」。渡部さんの訃報に続いての太田さんの死。妻は「人ってあっけないものね」と帰りの車中で悲しんだ。先日の西村妙子さんの死に続いて失った友。深まる秋を前に寂しさが一段と強まった秋となった。