こちら編集室「たわいのない言葉」(10月27日)

 「クーッ、クーッ」。朝、犬を連れて散歩をしていると頭上から白鳥たちの鳴き声が聞こえて来るようになってきた。その鳴き声に誘われて空を見上げたら、蒼い空を背に10数羽の白鳥たちが群れをなして南の空へと飛んでいた。もう渡り鳥がやってくる季節なんだなと冬間近を感じているこのごろである。朝夕の冷え込みも一段と厳しくなり、短い秋の日々をいとおしんでいる。

 秋は子どものころは楽しみもあったものだった。栗拾いやナツメ取り、柿取り、スモモ取りなど秋は木の実を追い求めて兄やその友だちと組んで、あちこちを冒険して歩いたものだった。あのころは甘い食べ物が少なかったせいもあり、よそ様の屋敷に勝手に入り込んではコソコソと木の実を失敬し、そこのご主人に見つけられると「コラーッ!」と大声で怒鳴られ、ほうほうの態で逃げたものだった。必死で逃げたから「取る」と言うよりも「盗った」と書くべきかもしれない。とにかく怒られるのも、逃げるのも冒険の一つであり、懲りない面々であった。いま思い出すと恥ずかしいし、申し訳ないことをしたものだと頭を下げたくなる。でも子どもにとってはあのころ木の実を取って食べるのは必死な行動でもあった。

 そして取った木の実をポケットに入れ、近くの神社で分け合い、その収穫を喜び合ったものだった。栗は皮をはいで生のまま食べた。柿はせっかく取ったのに渋柿で、ガッカリしたり、大笑いしりしたものだった。とにかく食べること、そして取ることがゲームであり、冒険であり、生きるための勉強でもあった。近くの神社はそのための「作戦基地」であり、兄たちは「今ごろはどこそこの栗が落ちているだろう」とか「柿はあすこの屋敷のものが食べごろになっている」とどこから仕入れて来たのか多くの情報を持っていた。その兄たちの後を追って付いていくと「マア。お前は逃げ足が遅いから見張り役だ」と悪いことをする現場には出来るだけ踏み込ませないようにとカバーしたものだった。年下のものを危険な目に遭わせたり、悪いことをさせてはいけないという暗黙の配慮があったものだった。

 写真は田沢湖町の「鶴の湯温泉」でしかし「コラー」と怒鳴り声はしても追われたという記憶はほとんどない。大人たちも寛大だったのかもしれない。勝手に屋敷に入ってはコソコソと木の実を取ったり、拾っていく悪ガキは時には銀バエのようにうっとうしく、小うるさいが、それを捕まえてまで叱るほどの憎たらしさはなかったのかもしれない。大人たちも怒鳴ることに快感を覚え、こちらは怒鳴られて逃げることに冒険心を燃やしたのかもしれない。とにかく木の実を求めていろんな場所を訪ね歩いたものだった。ただ取るにしてもキッチリと管理されたリンゴ園などへは決して足を踏み込むことはなかった。子ども心にもあれは商品として貴重な品であり、それに手を付けるのは「取る」のではなく「盗る」ことだという意識があったのかもしれない。

 家に帰るとナツメや柿の実、リンゴなども母が買ってくれてあったものだが、家にあるものではなく、とにかくよそ様の屋敷から取った木の実でないと食った気がしなかったのも不思議だ。今、こうして書いているとあの当時は雑草さえも食べ物になった記憶がよみがえって来る。草の名は思い出せないが、木の枝を10センチほどの長さで切り取って、その一部を器用に皮をはぎ取り、その皮の筒に塩を入れ、再び皮をはぎ取った木の芯で栓をしてしばらく時間をかけると美味しい雑草の漬け物となり、喜んで食べたものだった。秋は食欲の秋でもあった。

 そして月が明るい夜は自然と仲間たちが集まって道路で影踏みと言うゲームも楽しんだものだった。今のように車なんて滅多に走らない時代だったから、道路は子どもの遊び場でもあった。それに街灯もなく、月夜になると見事なほどの人影が道路に映し出され、その影を踏んでは鬼ごっこをしたものだった。夕食を済ますと「マア。行かないか」と兄は自分を誘い、外へ出た。満月を眺め、その月の光を受けて落とす影を踏んでは追いかけ、追い求めたものだった。近くから兄たちの仲間もいつの間にか集まってワイワイがやがやと夜が更けるのも忘れて遊んだ。遊びながら秋が過ぎていった。

 気がつけば冬になり、冬になればなったでまた新しい遊びがあったものだった。雪合戦もそうだし、雪の土俵で相撲を取った。雪の落とし穴を作って近くの女の子が足を落として泣いたのをみて直接謝れずに密かに「ごめん。ごめん」と心痛めた記憶がある。なぜか女の子には小さいころから弱かった。これまで何度も書いたように母が年を取り過ぎていたため、母を通じて異性というものを学べなかったせいか女性へのコンプレックスが強かったし、弱かった。学校でも同級生の女の子に文句を言われると口答えが出来ず、ただ黙ってうつむくしかなかった。だからどちらかと言うと小学校で一緒に過ごした女の子たちには余りいい思い出はない。特別に仲良くした人もいない。

 不思議なことだが同級生の女の子には嫌われた方だが、なぜか小さいころから年上の女の人にはかわいがられた。それも近くの人ではなく、夏休み大森町で過ごした姉の家で近くの悪ガキどもにいじめられると決まって「何するのよ」と懸命にカバーしてくれた人がいる。色白で、瞳の大きな子ども心にもきれいなお姉さんだった。「マコちゃん。マコちゃん」とちゃん付けで呼んでは、見知らぬ町を案内してくれたものだった。あの美しいお姉さんはいまどうされていることだろう。確か自分よりも5歳ほど年上だった。今でも大森町に行くとその人のことが懐かしくなって会いたいなとさえ思う。ぼんやりとだがその人の面影が今も心の隅に残っている。あれが幼いころの小さな恋だったかもしれない。

 そして50代になった今、さすがに心にも苔(こけ)が生えたようでその苔のおかげで女性にもさらりとした冗談を言えるようになった。異性へのコンプレックスが少しだが、薄れたのだ。市役所の売店の女の子は正直で、まじめな方だ。これも母の血を受け継いだせいもあるのだが、自分はコーヒーを飲んでいるよりも水を飲むことが多い。最近は水道の水でなく、もっぱら市販されているミネラルウォーターが中心だが、同じミネラルウォーターでも「海の深層水」が体にいいと聞いた。売店の女の子にその水を取り寄せることは出来ないかと以前から頼んでいたのだが、「取引先の関係なのかどうしても手に入らないようなんです」と申し訳なさそうに謝ってきた。

 「そう。入荷できないの。困ったな。その水を飲んで病気を治した人がいるから自分も病気を直したかったのに」とこちらはその人の目を見つめてつぶやいた。女の子は「伊藤さん、病気なんですか」と気の毒そうな目で真剣に見つめた。「ああ。病気なんだ。それを治したくてどうしてもその水を手に入れたかったんだ」と弱々しく答えた。「ごめんなさい」。気持ちの優しい人なのだろう。顔を赤らめ、困惑していた。「いいよ。仕方ないさ。我慢するよ。『女好き』と言う病気なんだから」と吐露すると「ワッ。なんだー」。後は口を抑えて苦しそうに笑っていた。たわいのない言葉遊びだった。女性に抱いたコンプレックスはこうして年齢を経ると共に水割りで薄らいできた。