こちら編集室「読者から届いた深層水」(11月3日)

 早いものでもう11月である。秋は山から里へと下りて、遠くの山々からはもう雪の便りさえ聞かれる季節となった。ポプラの鮮やかな黄色が目に付き、サクラやモミジの赤が目に染まる「里の秋」である。この季節になると思い出すのが絵本の「葉っぱのフレディ−いのちの旅−」である。作者のレオ・バスカリーアは葉っぱに“心”を与え、春から秋への葉っぱたちのドラマを感動的に描いた。そして冬、枯れ葉となって大地に散らせ、静かに死を迎えさせた。

 以前にも一度紹介したが、フレディが生れ育った木も初冬を迎える。風が北風に変わって、葉っぱたちに襲いかかる。「さむいよう」「こわいよう」。風のうなり声に葉っぱたちはおびえ、堪えきれずに大地に散って行く。フレディの親友・ダニエルは呼びかける。「みんな引っ越しをする時がきたんだよ。とうとう冬がきたんだ。僕たちは一人残らずここからいなくなるんだ」と。
 「引っ越しをするとか ここからいなくなるとか 君は言ってたけれどそれは 死ぬということでしょう?」とフレディは悲しみ「ぼく 死ぬのがこわいよ」とつぶやく。フレディの寂しげなこの言葉に自分の胸もしめつけられ、秋になって葉っぱが散るころになるといつもこの絵本を思い出す。「ああ。フレディたちが今日も散っている」と。

 写真は田沢湖高原の鶴の湯温泉で撮影したものですダニエルは死についてこう語る。「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは一つもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。君は春が夏になるときこわかったかい?。緑から紅葉するときこわくなかったろう?。僕たちも変化しつづけているんだ」。

 自分も人間と言う生き物をもう53年も続けて来た。変化し続けている。顔のしわは深まり、髪の毛は白くなり、遠くへ走ることも険しい山へ登ることも、そしてジャンプする気力も体力もなくなった。「寿命」という大木から伸びた枝にこれまでは若さと言うエネルギーに助けられ無意識にすがりついていたのだが、その指先の握力も次第に弱まり、冷たい北風がヒューと吹けば葉っぱのフレディやダニエルと同じように大地に散り、枯れはてることだろう。

 「ねえ。ダニエル。僕は(葉っぱに)生れてきて良かったのだろうか」。フレディの問いかけは悲しい。自分も時々、思う。「人間として生れてきて良かったのだろうか」と。ペンを正義の剣として振るい、あるいは人びとの幸福を追い求める十字軍として気負ったこともあるが、果たしてそれで良かったのだろうか。

 ダニエルは答える。「ぼくらは春から冬までの間、ほんとうによく働いたし、よく遊んだね。まわりには月や太陽や星がいた。雨や風もいた。人間に木かげを作ったり、秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりもしたよね。それはどんなに楽しかったことだろう。それはどんなに幸せだったことだろう」と。ダニエルはわずか1年間のその小さな営みに満足して、ほほえみさえも浮かべて「さようならフレディ」と別れを告げて散った。

 夏の暑い時は木かげに涼を求めてやってくる人間のために体を寄せ合って木かげを作る仕事をし、仲間の葉っぱたちと葉をそよがせて風を送る作業もした。そして春風に誘われてクルクルとみんなで踊り、夕立に体を洗ってもらう遊びもした。小鳥たちに休み場を与え、月や星や太陽の動きを木の枝の高い所から眺め、見晴らしを楽しんだ。ダニエルはそれらの思い出を胸に抱いてサヨナラを告げた。フレディも「葉っぱに生れてよかったな」と春を楽しんだ。

 自分も今、人間に生れて良かったなと人生を楽しんでいる。しかし、人生の黄昏(たそがれ)が迫って、自分もまたフレディ同様、死を前にしたら「ねえ。僕は人間として生れてきてよかったのだろうか」と誰かに疑問を投げかけないとも限らないだろう。だから一日一日を大切にしたいと思っている。悔いを残すまいと思っている。しかし、人生はいつだって一寸先は闇だ。どんなことが起きるか分かったものでない。間違いを犯した人を糾弾することこそが報道に生きるものとして正しいことだと信じて書いた記事が、時にはその家族をも巻き込み、傷つけ、被害者に追い込んでしまうという事もありかねない。

 人は誰にだってミスはある。間違いがある。それだけに書かれる側の「心の傷み」も見据えた記者でありたいと思う。これは報道に携わるものすべての人たち課すべき規矩準縄であろう。聖書にある。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と。モーゼの立法を破った女を石で打ち殺せと騒ぐ群衆をいさめたイエス・キリストの一言だ。誰がこの世で一つも罪を犯さずに人生を全う出来る人間があろうか。ふり返れば自分はモーゼの十戒をいくら破ったことか。

 ダニエルも去り、たった一人になったフレディ。そして明け方、迎えに来た風にのってフレディも枝から離れる。痛くもなく、こわくもなく。空中をしばらく舞って、それからそっと地面に下りる。

 「フレディが下りたところは雪の上です。やわらかくて意外とあったかでした。引っ越し先はふわふわして居心地のよいろころだったのです。フレディは目を閉じ、眠りに入りました」。
 「葉っぱのフレディ」と言う絵本を手にし、それを読んだ時、自分は何度、涙を流したことか。フレディの死は悲しかった。しかし、それは避けられない自然なことだと作者は語った。生きている命はいずれは枯れる。枯れるものならフレディのようにありたい。雪の上の柔らかくて意外と温かくてふわふわした居心地のよい所で目を閉じ、眠りに入りたい。そう願ったりしている。

 先週のこちら編集室の「たわいない言葉」で「海の深層水」に触れた。「女好きと言う病気を治したいから、その水を取り寄せてもらいたい」と売店の女の子をたわいない冗談で笑わせたのだが、女性読者から宅配便でペットボトル入りの「室戸の海洋深層水」が6本も送られてきた。その方はきっとその「女好き」という困った病気を水で治してもらいたいと母のような慈しみを込めて送ってくれたのかもしれない。あるいはそんなジョークを飛ばして同性を泣かせたり、笑わせたりする困った「こち編」の編集っ子に本物の深層水を送って懲らしめるべきだと粋な計らいをしたのかもしれない。30日夕、自宅に帰ったら宅配便が届いていた。ケンニチ・コムにはこのような読者さえいる。女性読者には大変なご負担をかけさせてしまった。ありがとう。おかげで困った病気はますます深刻になりそうだ。ええ。あなたに。

 --さん。とても辛い思いをしていると風の便りに聞きました。いまはどうされてますか。きっと心を傷め、涙し、静かに時の流れをあなたは見守っていることかと思います。--さん。どんな辛いことも悲しいことも、きっと時が解決してくれます。これからの時の流れはとても足どりが重く、長いかもしれません。でもきっとその重い時間があなたの心の傷みを薄皮の一枚一枚を剥(は)いで行くようにゆったりとしたスピードで癒していくことでしょう。--さん。どうぞ負けないで・・・。頑張らなくてもいいから、我慢しなくてもいいから、ただその悲しみや辛さが前に向く始まりだと思って今の心の寒さに堪えてほしい・・・。秋田はもうすぐ冬に向かおうとしています。

 深層水を送って下さった読者、そして辛い思いをされていると聞いた読者。ケンニチは少しでも力になりたい、心の癒しになりたいと思いながら、聖書にさえも目を落とし、言葉を探しましたが、哲学者でも宗教家でもない、平凡な人生しか歩んで来なかっただけにこんなことしか書けませんでした。ごめんなさい。今は枯れ葉さえみても涙が落ちるかもしれません。それでいいのです。その美しい涙にあなたの優しさと心の美しさがこもっているでしょうから。ありがとう。