市役所から会社までは歩いて5分そこらの距離しかないだけに、会社に用事があるときは雨の日以外はたいてい、歩くことにしている。別段、健康や体力づくりに気を遣っているわけではないが、コツコツと鳴る自分の足音を聞きながら歩くのが好きなのだ。一人で歩く時は結構、早足の方だ。コツコツコツ・・・。アスファルトを踏む靴の軽快な音がいい。もうすぐ本格的な雪が来るだろう。雪で道路が真っ白になったら靴音さえ立てられない。今のうち靴音を鳴らして歩こう。その音を聞きながら歩くとまだまだ自分も捨てたもんじゃないと元気が出る。
市役所を出るともう木々は葉っぱを振り払い、ほとんどが裸木となって風景全体も色あせ、殺風景なものに変わってしまった。目を楽しませるものがないだけに、せいぜい自分の靴音に耳を傾け、ぼんやりといろんな事に想いを馳せ、歩くことにしている。
靴と言えば革靴を初めて履いたのは高校に入学してからだった。小学生のころは短靴と言ったゴム製の靴だった。中学生になってからは下駄だった。小学校までの道のりは3キロほどで、まだ砂利道だった。一軒の家もなく、見渡す限り田んぼしかなかった。その単調な道をいつも一人で歩いて帰った。なぜか晴れた日の午後しか記憶にないが、いつも空を見上げ、白い雲の旅を見ながら帰ったものだった。「いいなー。あんな雲に乗って空を自由に飛べたらどんなに気持ちがいいだろう」。空に憧れたものだった。白い雲に乗って空を旅する-。雲の上にあるおとぎの国を想像したものだった。たわいない空想を描いて家路に付いたものだった。
道端に小さな農業用水路があって水が流れている時は笹の葉を取って笹舟にし、その舟と競争しながら家を目指したものだった。走るとコトコトと背中のランドセルが音を立てたものだった。小学生のころ、雨の日はどんなふうにして家に帰ったものか。雪の日はどんなふうに学校に向かったものか。雨の日の記憶はなぜか覚えてないが、雪道をゴム長で歩いた時の足の冷たさ、手のひらが赤切れし、ひび割れしたあの痛みだけは記憶に残っている。教室に入って赤々と燃えているストーブを囲んだ時の喜びも、温かさも忘れられない。吹雪の日、年長者が先頭になって後ろ向きになって歩き、自分たちをカバーしたあの義務感に燃えた一つか二つ上の先輩の顔もかすかだが記憶に残っている。みんなに「ぼっちゃん。ぼっちゃん」と呼ばれたお金持ちの子だった。
製材所で大きな屋敷に住み、金属製のトラックやパトカーなどいっぱいのおもちゃに囲まれ、あの当時は珍しい自家用自動車まであった。お抱え運転手がいて、まかないのおばさんもいた。高価な蓄音機さえもあった。不思議なのはいつ遊びに行っても家族の姿と言うか、家庭の温もりが感じられなかったことだ。この家に関してはこれ以上は触れまい。とにかくぼっちゃんと呼ばれたその人は激しい吹雪の日、先頭に立ってぬかるむ雪道を踏み固め、後ろ向きになって小さな自分たちを元気づけ、顔を真っ赤にして登校したものだった。あの時の義務感に燃えた顔だけは覚えている。その後、ぼっちゃんと呼ばれたその人はいつの間にかその大きな家から姿を消した。
中学生になるとただ詰まらん毎日だった。校庭で野球やソフトボールを同級生たちは毎日のように楽しんだが、小さいころ欲しかったグローブもとうとう買ってもらえなかった自分はそのボールを投げることも、捕ることも苦手で、野球にもソフトボールにも興じることが出来なかった。勉強にもそれほど熱心に打ち込んだ記憶もない。ただ漫然と学校生活を送り、漫然と家に帰った。卒業間近になって高校に進学するため、あわてて教科書をひもとき、何日か徹夜で勉強しただけだった。
工業高校に入学して機械工学や流体力学を学んだ。英語、化学、数学も学んだ。当然なことだが国語、古典、倫理社会も学んだ。興味を示せたのは国語と古典と歴史、それに倫理社会だった。そこには親しめる文学があり、人間の顔や語れる歴史があった。倫理社会の勉強で初めてイエス・キリストの言葉に出会った。キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口からでる一つ一つの言(ことば)で生きるものである」と語った。「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」。この言葉が不思議に心に響いた。聖書を読んでみたい。そう思ったものだったが、いつの間にか忘れ、聖書を手にしたのはずーと後からだった。
高校2年になってよその高校の女の子に恋をした。手紙を何通か交わした。恋と言っても独りよがりで一方的な片思いだった。恋に恋しただけだった。それでも猪突猛進した。手紙を書き、会いたいと何度も催促した。一つ年上の人だった。その人は大曲市からは遠く離れた町に暮らしていた。大森町の花見に同級生と自転車で行ってその人に出会ったのだが、高校時代に一番、燃えた瞬間だった。一度だけバスに乗ってその人は大曲市に遊びに来てデートをしたが、女性の扱いに慣れてなかった自分はほとんど無口で大曲の街を二人で歩いただけだった。その不器用さに呆れたのか別れ際に彼女はたった一言、「私には好きな人がいるんです。だからもう会わない」。茫然自失の一言だけが耳に入った。彼女の乗ったバスを黙って見送り、見失った恋の痛手を背負って夢遊病者のように歩いた。そしてもう二度と女の人とは口は利くまいと堅く決心した。
その見事な決心は3日で破れた。小中学校は違ったが、近くに住んでいて幼いころから知っている女子高生から「遊びに行っていい」と声を掛けられ、欣喜雀躍して家に迎え入れた。目のクリクリした可愛い子だった。しかし、こちらが相手を好きになって、その人のために尽くす恋はいいのだが、相手から飛び込まれた恋には戸惑った。その上、3日前の無残な気持ちも胸を焦がした。マザーコンプレックスが一気に高まった。家に入ってもらい自分の部屋に通したのだが、何も喋れず時間だけが重く流れた。「どうしたの?」と彼女は訝しげな目でにらんだ。「おれ、おれ。女は苦手なんだ」。ボソリとどうしようもない、心にもないことを言ってしまった。女の子は「そう。そうなの」とささやいて、押し黙ったまま家を飛び出した。
頭の切れるとてもいい子だった。後悔して後悔して何度もその子の夢を見た。なぜあんなことを言ってしまったのだろう。自分のバカらしさ、不甲斐なさに地団駄踏んで悔しがった。失恋の痛手が新しい恋の糸口をつかめなかったのかもしれない。女性との会話する術がまだ身に付いていなかった。
高校を卒業し、社会人になって秋田市の会社に就職し、体を壊して半年、入院生活を送った。まだ少年だった自分を哀れと思ったのか、病室を出てロビーに出ると入院患者で30代ぐらいのおばさんが良く声を掛け、心配してくれたものだった。体と同時に心も弱っていた自分はそのおばさんの優しさに夢中になった。そして同じ年代の看護婦さんにもいつしか好かれる仲になった。高校時代の失恋の傷みはとっくに忘れ、二つの恋に夢中になった。一度に二つの恋に燃えたため、いつしかバブルのように弾けてしまった。だが、お互い勉強になったのは恨み言を残さないままの別れとなったことだった。おばさんとは退院してからもたまに横手市にその家を訪ね、食事を共にした。「あなたは年上の女を心配させる得な性格のよ」。笑顔で食事し、別れられる仲になっていた。同年代の看護婦さんともいつしか単なる友だちのようにあっさりと声を掛け、さらりとサヨナラできる間となっていた。こうして女の人に向かうと喋れなくなっていた自信喪失が二つの恋のおかげで少しずつ薄れた。
退院してから地元新聞社で記者を募集しているからとの紹介があり、新聞記者として採用された。多くの人を訪ね、いろんな職場を訪れ人と会い、その話を聞くのが日課となった。まだ20歳そこらの若者が30代や40代、あるいは50代の人たちと会い、会話する。その相手は代議士もいれば県会議員、さらには市長や町長、警察署長、福祉事務所長など多彩だった。とにかく“長”の肩書のある人たちと直に接し、話を聞けた。新聞記者と言う肩書と名刺が20代そこらの若者を同格者のように迎え入れた。
しかし、不慣れな場での取材に困惑する毎日となった。本を読み、知識を深める訓練も重ねた。救いの手を差し伸べてくれたのは同業他社の先輩記者たちだった。市役所記者室でもっぱらマージャンをしながらの取材のイロハの勉強だったが、彼らの会話の豊富さ知識の深さは体に染みた。一緒になって酒を飲み、夜の世界で働く女の人たちと話す訓練も受けた。彼らは酔っていても乱れることもなく、洗練された紳士だった。そして女性を楽しませる術もあった。
高校時代、女性との話しが下手で失恋した記者は病院生活を送り、新聞記者になってようやく本当に少しずつだが、照れることもなく話をできるようになった。軽口も叩いて、その場を和ませる術も身についた。酔っていても相手を決してけなさず、褒めることで酒を楽しめることも身についた。恋の手紙まで出して喜劇を演じることもやった。いつだったか、やっと「聖書」を手にした。高校時代から読みたかった聖書だった。旧約聖書を読み、新約聖書にも目を通した。新しい世界が広がった。しかし、モーゼの「十戒」にはすっかり自信を失った。夜の街を歩き、カウンターに座ると口でキリストの愛の言葉を述べ、左手にグラスを握り、右手は若い女の子の膝に手をやっている困った聖書愛読者なのだ。
ケンニチ・コムの編集っ子はこうした想像を楽しみながら、20世紀最後の師走を迎えた。ケンニチがスタートしたのは1996年12月1日だった。あれから今日で4年。青息吐息をつきながら、恥じをかき、頭をかいて4年になった。その間、多くの読者から励まされ、声援を受けここまでやってきた。特にアメリカの岩間郁夫さんからはいつもいつも貴重な玉稿を頂き、ケンニチ・コムを国際的なインターネット新聞として下さった。お礼の述べようもない。ありがとう。今年2月10日には読者の声援と寄付を受け、西木村の冬祭り会場で「秋田県南日々新聞」の名前と自分の顔のイラストが描かれた紙風船が上がった。「空飛ぶケンニチ」として忘れられない思い出を頂いた。静岡や東京、秋田市などからケンニチのファンが会場に駆けつけ、寄付によって作られた1個5万円のオリジナルの紙風船が3個も舞い上がった。アリガトウ。いい思い出をありがとう。
そしてこの新聞を立ち上げるために北仙北インターネット協議会事務局の「きたうら花ねっと」の皆さん、特に長瀬一男さん、海賀孝明さんには本当にお世話になった。おかげさまでケンニチは昨年12月1日でアクセス数が25万だったのが、今日でもう40万件を超えるまでになった。「あんだんて」と言う新しいスポンサーも付いた。ゆとりのなかった新聞運営もパソコンやカメラ、携帯電話を更新できるまでになった。アリガトウ。本当にいっぱいのありがとうを言いたい。
ケンニチ・コムの編集っ子は、普通の新聞のように難しい世論の主導や社会批判は苦手だ。相変わらず子供のころ、高校生のころの思い出に浸ってばかりだ。そして脱線し、笑わせ、泣かせている。そして恥をかいて、頭をかいてばかりだ。ごめんなさい。ケンニチはそうした振る舞いしかできないのです。きっと明日も・・・。