これは映画の話である。もう10年以上も前の映画かと思う。クロード・チアリのギター演奏とシャガールの絵を愛したやくざの親分と言う設定が好きで、忘れられない映画の一つだ。「男の美学」を語った映画でもあった。高倉健主演のその映画「冬の華」は雪が降るこの時期になると、なぜか切なく思い出される。やくざ映画だが、高倉が扮する秀さんの親分こと横浜の組の会長はとても絵を愛した男だった。繰り返しになるが、その会長が愛した絵はシャガールなのである。シャガールの絵のためなら1000万でも2000万円でも奮発するという親分さんなのである。しかも親分さんはそのシャガールの絵で命を奪われるから因果な物語でもあった。やくざ映画と言えば怒号と悲鳴が入り交じった血なまぐさい争いに終始したものだったが、この映画は絵の他にチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」も取り入れた、知的でおしゃれな一面もあった。舞台も良かった。横浜なのである。港から聞こえる霧笛が映画を一層、もの悲しくさせた。
秀さんの親分は、大阪から流れてきたやくざ集団との抗争に落とし前をつけるため、最も愛していたシャガールの「絵」を代償として手放すことになる。敵の最も愛するものを奪え。これは戦うものの鉄則だ。大阪のやくざ集団はそれをやった。愛するシャガールの絵を手放してしまった親分は秀さんを前にしみじみと語る。「なぁ。秀。切った張ったはもうごめんだよ。絵でも見てるほうが一番いいぜ。特に油絵はよ。俺は惚れてたんだ。本気で。見たろ。家にあったあのシャガールを。銭かねじゃねーぜ。シャガールは・・・。シャガールはいいなー」。確か親分さんはこんなセリフを言って、秀さんに絵を失った悲しみを嘆いた。
親分さんこと藤田進という俳優も良かった。そして何よりもクロード・チアリの演奏によるギターの調べが良かった。途切れるような、糸を紡ぐような悲しいメロディーが良かった。時には大きな滝の瀑布のようにギターは怒り狂うが、メロディーはいつも悲しみを歌って男たちを支えた。
秀さんは14年前に組を裏切った兄貴分を刺している。その「おじき」と呼ばれた男には小さな娘さんがいた。秀さんは何も知らずに浜辺で遊び戯れるその女の子の前で、「なあ。見逃してもらうわけにはいかないか。俺にはガキがいるんだ。おめえとはなげエー付き合いじゃないか」と頭を下げられながらも、刺し殺してしまう。女の子は父が砂浜に倒れても、それが死を意味していることさえ知らずに父の背にじゃらつく。秀さんはその罪を背負って旭川刑務所で14年間の服役となる。その間、秀さんはその娘のために「ブラジルのおじさん」と言う役目を担って、養育費を組から送り続けてもらう。当時、まだ2歳だった娘さんは美しい高校生に成長し、秀さんとの文通が続く。
「おじさま。お元気にされてますか。この前、いつも手紙を届けて下さる武田さんからチラッと聞いたのですが、間もなくブラジルから日本に帰って来るんですって。それ本当?。本当なら葉子(?)、待ってます。心から待ってます。本当に待ってます。待ってます」。刑務所の作業場でその手紙を読む秀さんの無愛想な笑顔が良かった。
隣で作業をしていた男が秀さんに言う。「おい!。おめえ、ブラジルのおじさんなんだってな。間もなくその娘さんと会うんだろう。16歳か。会ったらやるんだろう。もう高校生だからいけるぜ。いいなー」。その男の言葉で愛する葉子の体が汚されたとでも思ったのだろう。猛り狂った秀さんは錐を握って、その男の手のひらにブスリと突き刺す。秀さんにとってその娘さんは、絶対に汚してはならない「聖母」のような美しい存在だったのだ。一点の曇りもない「愛」の対象だったのだ。守らなければならない娘さんだったのだ。
刑務所を出たら真っ先にその葉子に会いに行こう。秀さんはそう思っていた。しかし、14年振りに戻った横浜はまた昔のようにきな臭くなっていた。大阪からやくざ集団が流れ込み、戦争をおっぱじめようと挑発を受け、秀さんの親分もその仲間たちももがき苦しんでいた。刑務所を出たら、やくざから足を洗って旭川の木工所でまともな生活をしたいとさえ思っていた秀さんは結局、そのやくざ抗争に巻き込まれ、抜き差しならぬ状態に追い込まれる。
一方でブラジルのおじさんとして葉子に会いたかった秀さん。しかし、14年の務めを果たし、罪はぬぐったとは言え、その娘の父親を殺した殺人犯としての意識は消えない。会いたくても会えない。ある日、葉子の通っている高校の前に車を停め、バイオリンを手に下校して来る葉子の姿を遠目で眺める。葉子の手にしているバイオリンも秀さんが買って与えたものだ。車の中で背を縮めながら、清楚で美しい葉子の姿を目で追う秀さんの哀愁のこもった寂しい目が良かった。
「おじさま。葉子は今、横浜の馬車道にある音楽喫茶で大好きなチャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴きながら、この手紙を書いてます」。葉子の手紙をいつもポケットにしのばせていた秀さんは、その喫茶店にも足を運ぶ。そこではいつものように葉子の大好きなチャイコフスキーのピアノ協奏曲が流れていた。クラシック音楽とは縁のないやくざな生活をしてきた秀さん。「何かリクエストはありますか」と尋ねるウエートレスにおずおずと遠慮がちに立ち上がって「あのー。あのー。チャイコフスキーのピアノ協奏曲をお願いしたいんですが・・」とリクエストをする。「その曲ならただいま流れております」。この笑いを誘わせる場面も実感がこもって良かった。
会いたくても会えない。いや、会おうとすればいつだって会える仲なのに秀さんはジッとこらえる。そして触れてはならない美しい花のように葉子を遠くから愛で、慈しむ。その苦悩と懊悩、寂しげな姿が良かった。雪の降る夜の街で雪に埋もれた小さな花に手を添え、雪を払いのける秀さんの優しさも良かった。秀さんは本当は葉子をどうしたかったのだろう。父親のような愛、そして男としての愛が複雑に交錯していたのかもしれない。長い間の文通で交わした「心と心」の交流があった。強い絆がお互いにあった。だが、会えない。せめて葉子の声を聞きたい。秀さんは葉子の住んでいる寮に電話をする。
「モシモシ。あの○○ですが(葉子の姓は思い出せない)」。秀さんはその声を無言で聞く。「あのー。モシモシ。どちらさまでしょう?。モシモシ。もしかしておじさまではありません?。おじさまでしょう。葉子です。葉子です。おじさま。いまどちらにいらしゃるの?」。池上季実子の必死な呼びかけも良かった。秀さんは黙ってその電話を切ってしまう。
葉子は無言で切れた電話は「おじさま」に違いないと判断し、秀さんの関係者が経営する自動車会社の事務所を訪ねる。「あのー。もしかしてブラジルのおじさまが帰ってきているのではないのでしょうか」。尋ねる葉子。目の前にはそのおじさまこと秀さんがジッとしている。秀さんは手にしていたコーヒーカップをブルブルと震わせ、葉子の顔さえ見れない。葉子を前に体を震わせる秀さんの純粋さ、弱さも良かった。
しかし、愛していた葉子にはやくざの恋人がいた。旭川刑務所から送られて来る秀さんからの手紙を「ブラジルのおじさんからだよ」と届けに来る武田という若者と葉子は既に恋人関係となっていた。ある晩、公園で抱き合う二人の姿を見た秀さんは暗闇で、厳しい表情を浮かべてタバコを口にする。その表情が良かった。秀さんの顔には悲しみは似合わない。厳しい顔にこそ、心の傷みの深さが潜んでいるかのように見えた。秀さんはそんな時でさえ黙って耐える。
そしてその心の傷を抱きながら、横浜の夜の街を歩く。確か映画では雨か雪が降っていた。大阪のやくざ集団が秀さんに肩をぶつけ「おい。痛いじゃんか。黙って行くのか。えー。兄さん」。秀さんに因縁を付ける。立ち止まってタバコを取り出し、口にする秀さんがむしょうに格好いい。「へー。貫祿やな。えー。兄さん。筋の者か」と啖呵を切って、秀さんのくわえたタバコを奪って捨てる。再びタバコを取り出し、口にするとやくざ集団はそのタバコをも奪って捨てる。堪忍袋の緒が切れた秀さんは、心の傷みをもこのやくざ集団にぶっつけ、大立ち回りとなる。それが切っ掛けとなって本格的なやくざ抗争へと映画は展開する。
シャガールを愛した親分は仲間の裏切りで殺され、もう失うものは何もない。そして愛してはいけない娘を愛し、その愛のやり場さえ失った男の悲しみを秀さんは怒りの塊となってぶっつける。
秀さんと言う男はやくざを前に強さを発揮するだけではなかった。「素人のお嬢さんに気安く手を出すんじゃねー」と葉子の恋人・武田を諭し、「お互い愛しているのなら足を洗って、あの娘さんを幸せにしてやれ」とやくざ世界から抜け出すのを誓わせる。「おじき!。葉子さんに会ってやって下さい。会いたがってます」。すがりつく武田。「ばかやろう。殺した相手の娘さんに会えるか」。秀さんの心の傷みはそこにあったのだ。時には父親のように、時には男としての愛を遠くから注いだ秀さん。しかし、会うわけにはいかなかったのだ。「美しい輝くような人妻になっていてほしい」と最後の手紙を差し出して再びドスを手に切った張ったのやくざの世界に飛び込む秀さん。甘い愛に満ちた世界には生きられない、男の悲しさがその背からは感じられた。身を捨ててこそ男だと言う秀さんの「男の美学」がそこにはあった。クロード・チアリのギターの悲しみも良かった。
こちら編集室でこの映画「冬の華」を取り上げるのはこれで2度目になるはずである。やくざの世界でありながら、チャイコフスキーのピアノ協奏曲が挿入され、シャガールの絵が登場し、愛してはならぬ愛に傷つき、姿を消した男の背中。黙って苦しみに耐える姿が良かった。果たして自分に出来るだろうか。雪を眺めながら、映画「冬の華」をふり返った。太宰治は「思案の敗北」で「今年の春、妻とわかれて、私は、それからいちど恋をした。その相手の女のひとは、私を拒否して、言うことには『あなたは、私ひとりのものにするには、よすぎます』。私は、あわてて失恋の歌を書き綴った。以後、女は、よそうと思った」と書く。高倉健さんの耐える男より、こんな言葉が好きだ。師走。窓の外を眺め、そこにある悲しみを見つめていよう。