年末から年始にかけて随分、多くの読者から「心の薬」の贈り物があった。みんなケンニチの心の弱まりを心配してのことだった。心の薬はすべてメールで届いた。その中には「ああ。この人までも・・・」と、深い喜びを与えるものもあった。「ケンニチかかさずみてますよ。勝利はしばしば先送りされます。勇気のきわみ、それは自由ではないでしょうか」。簡潔な内容だったが、「ケンニチかかさずみてますよ」の一言が妙薬となってすーっと心の中の闇が消える思いだった。「勝利はしばしば先送りされます」。この人はこの人らしい方法でケンニチを心配し、ケンニチを応援しようとして下さったのだ。心の負担がすーと消えて、心の薬を実感した。
もう一つの薬は今、読んでいる司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」である。長編小説で、まだ途中までしか読んではいないが、読みながら何度、吹き出して笑ったことか。笑えるということはいい。これも心の薬なのである。型破りな幕末の英雄・坂本竜馬を描いたこの小説を手にしたのは確かこれで3度目だ。読み返しても、読み返しても飽きさせない。そして至福の時間を与えてくれる。坂本竜馬。なんて魅力的な男だろう。司馬遼太郎はこの小説を書くに当たって「わたくしは、日本史の人物のなかで、坂本竜馬ほど、男としての魅力にとんだ存在はないとおもうのだが、どうだろう」と問いかける。
読んでいる小説は竜馬が江戸に行き、千葉道場で免許皆伝の腕前となり、黒船騒動に巻き込まれ、騒然とする国内の中で竜馬自身もやっと「このままでは日本の国が滅びる」と変革の精神に目覚め、脱藩したまでしか進んでいないが、読み進めているうちに何度、声を出して笑ったことか。とにかく子どもっぽく、それでいながら愛らしいのである。そしてなぜかその言質も行動も人を感動させるのである。だから女性たちが放っておけない。土佐藩の家老の娘「お田鶴さま」に愛され、江戸では千葉道場の娘「さな子」に好かれ、旅先では居酒屋を切り盛りしている「お初」と出会い、一目ぼれさせる。
剣を持てば敵なしの強さであり、喋らせれば中々の弁舌家であり、土佐弁なまりの愛嬌もあって憎めない。司馬遼太郎によると剣豪・宮本武蔵も、坂本竜馬も風呂に入ることも顔を洗うという習慣も持ち合わせていなかったと書くが、その不潔さを持ってしても竜馬は行く先々で女性にもて、恋に出会うのである。小説だからどこまでが本当でどこまでが創作なのかは分からないが、とにかく司馬遼太郎は竜馬と女性たちとの出会いを面白おかしく語って読むものを夢中にさせる。
江戸へ旅立つ途中に宿泊した京伏見の旅籠(はたご)「寺田屋」、後の有名な「寺田屋騒動」の舞台となる旅籠のおかみ「お登勢」との初の出会いで、司馬遼太郎はそのお登勢の口を借りて竜馬の魅力をこう語らせている。「なんと可愛らしい若者だろう。眉がふとく、瞼(まぶた)が厚く、また顔一面にそばかすがあるのは無骨だが、口元が異様なほどあどけない。このお人はおなごにも騒がれるかもしれないが、それ以上に男のほうがさわぐかもしれない。この人のためには命もいらぬというのが、多勢出てくるのではないか」と。
その通りで竜馬は江戸に入って入門した千葉道場で、すぐに道場の娘「さな子」の心を捉える。さな子は女性だけに最初の出会いで、竜馬の履いた袴の不思議な模様に興味を抱く。
「あの、坂本さま。さな子は女でございますから、お召し物のことをうかがいとうございます」と坂本の履いた珍しい模様の入った袴のことを尋ねる。
「えっ、これですか」
竜馬は自分ではかまを見て、
「ただの仙台平(せんだいひら)です」
「でも、江戸では左様な模様のついたはかまを仙台平とは申しませぬ」
「ははあ、これは難儀じゃ。いかん」
竜馬は自分でも気づいたらしく土佐ことばでせきこんで、
「墨がいっぱいついちょるわい」
竜馬は手紙を書くために筆を使った後、筆をぐいっと袴でぬぐう癖があったと司馬遼太郎は書き、その小事にこだわらない大物振りをここで書き表す。当時の書道具と言えば筆しかなかったが、その筆を使っては墨で濡れたのを自分の袴でぬぐったという奇癖。ここにこそ竜馬らしい無頓着さがあって、笑った。そして魅力を感じた。現実、このような男を夫としたら妻は手がかかってしょうがないだろう。髪はボサボサ、それでいておしゃれで着るものはいつも上等な衣類しか選ばない。ところがその着物の袖で洟をぬぐい、唾をぬぐい、筆を手にすると墨を塗りたぐる。
大酒をくらい、飲んでは大きないびきで眠り、外へ出て行ったらいつ帰って来るかさえ分からない。常に危険に身を置き、身をさらす。女としてはハラハラオロオロして待つしか他に方法がない。それでもその男の持つ独特の魅力とどうしても放っておかれないと言う母性愛を竜馬は天性でもってかき立てる。
竜馬は旅先の居酒屋で出会った娘「お初」をも一目ぼれさせて、その虜としてしまう。数日間の滞在だが、お初は「私を竜馬さまの女にして下さい」と竜馬を求め、竜馬との出会いに燃える。旅立ちの朝、お初は清めの風呂を沸かし、竜馬の体のすみずみまで細やかに洗う。司馬遼太郎は書く。
「世話になったな」
竜馬は、風呂のなかでいった。
「礼はいわぬ。いいかげんな礼言葉などをならべれば、うそになるだろう。人の一生の仕合わせというのは、こういうことらしい」
「どういうこと?」
「うまく云えん」
竜馬にはわかっている。
花は咲いてすぐ散る。その短さだけを恋というものだ。実れば、恋ではない、別なものになるだろう。
これでいい、と竜馬はおもっている。利口なお初も、それを知っているのだ。が、知っていながらも、
「ちゃんと云って下さい。女は言葉に出していってくださらなければ、わからないのです。いってくだされば、そのお言葉を一生の宝にします」
といってからお初は何かを懸命にこらえていたが、やがて竜馬の背に置いている両拳(こぶし)がふるえた。泣きはじめた。しかしすぐ泣きやんだ。
「いいえ。悲しいから泣いたのではないのよ。ここ数日、よろこびが大きすぎたから」 「それで泣いたのか」
「仕合わせすぎた証拠のようなもの。お別れの儀式のようなものよ」
「儀式なら、おれも泣こうか」
この竜馬とお初との言葉のやりとりに自分も泣いた。切れ味のいい文体に手を叩いて感動した。司馬遼太郎はこう言いたかったのだろう。「花は咲いてすぐ散る。その短さだけを恋というものだ。実れば、恋ではない、別なものになるだろう」。竜馬がお初の情に溺れ、そこにそのまま居ついたら単なる男であって、竜馬は竜馬ではなくなってしまう。どんなに惚れていても竜馬には歴史を動かす義務が待っている。竜馬は旅をしなければならない。恋を実らせてはならない。そうした宿命を背負っていたのだ。
それにしても竜馬はもてる。行く先々で常に女性との出会いがあり、ドラマを生む。竜馬の動きを追いながら、その世界に没頭し、心の薬とした。外は相変わらずの雪である。雪を寄せ、雪を捨て、雪との付き合いで毎日、汗を流した。不思議なもので心が重い時はこの雪寄せ作業もとても空しく、気持ちを暗くさせるものだが、スノーダンプで雪寄せをしているうちに「これだってレジャーの一つではないか」と思ったら、とても楽しいものになった。玄関前から車庫前に除雪車が大量の雪を置いていく。さらに勝手口には屋根から滑り落ちた雪がたまる。流雪溝のふたを開け、スノーダンプを手に雪を運び、投げ入れる。単純な作業だが、繰り返し繰り返し雪を運び、投げ入れているうちに道路からも勝手口の通路の雪も姿を消す。それを楽しみながらやったら「なんだ。もう終わったのか」と時間の長ささえ忘れた。疲れも感じさせなかった。
6日から3日間の連休が続いたので、雪寄せ作業を終えてから車を出し、風景を追い求めた。雪に埋もれ静まり返った集落を眺めた。吹雪で家々は真っ白である。しかし、吹雪で凍えた風景も、また時折、覗かせる青空を受けて光り、輝き出す風景もとても美しく感動させられた。「この美しい風景を見られるのも雪国に生れ、雪国で暮らせるからだ」と思った。読者から頂いた心の薬で心の闇は消え、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」から生れた勇気。この二つのおかげで雪寄せ作業も取材と言う仕事も楽しくなり、仕事への情熱も沸いてきた。連休と言っても土曜日夕方には西仙北町での取材があり、日曜日、そして月曜日の成人の日も大曲市での新人音楽祭の取材が待ち受けていた。昨年からの心の重みを引きずっていたら、どちらの取材も気重なままで家を出たことだろう。そうした虚ろな気分が消えた。
朝の目覚めと同時に「海の深層水」をこのごろ習慣のように飲んでいる。この水を飲んで「女好き」と言う病気を治したい、などと冗談をこの場で書いたらわざわざ送って下さった読者もいる。相変わらずその病気は治まりそうな気配はなく、美しい人を見かけるとときめきするばかりだ。パリを旅した作家のヘミングウェーではないが、美しい人を見かけたり、運良く隣り合わせになったりすると「ああ。美しい人よ。あなたは今、私のものだ」と思い込んでしまう。きっとケンニチの編集っ子は今年も美しい人との出会いがあればその人に恋をするだろう。それもいつも独りよがりな片思いで・・・。それでいい。司馬遼太郎ではないが、実ったら恋ではない。いや悲劇だ。