「病葉(わくらば)を 今日も浮かべて 街の谷 川は流れる」。仲宗根美樹が歌った「川は流れる」を初めて耳にしたのは中学生か高校生のころだったろうか。ふと思いついて図書館で「昭和歌謡大全集」を調べたら、昭和36年とあるからまだ中学生のころだったようだ。ハスキーで哀愁のこもったこの歌声に魅せられ、テレビでこの人が歌いだすと夢中で観たものだった。瞳の大きなとても美しい人だった。もう一人、西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」も大好きで、この歌にも心痛むほど執心したものだった。清楚で白い菊の花のように美しい人だった。「アカシヤの雨にうたれて このまま死んでしまいたい」。透き通るような悲しい歌声が好きだった。
血筋なのか、幼いころの原体験のせいか、悲しみを見つめているのが好きだった。テレビのお笑い番組を見てゲラゲラしているよりも、静かに悲しみを語る歌を聞いているのが好きだった。哀愁のこもった歌声と悲しみを愛した。
川は流れるでは「ささやかな 望み破れて 哀しみに 染まる瞳に 黄昏(たそがれ)の 水のまぶしさ」と歌い、「思いでの 橋のたもとに 錆(さび)ついた 夢のかずかず ある人は 心つめたく ある人は 好きで別れて 吹き抜ける 風に泣いてる」と続いた。
家の近くを今もそうだが横手川が流れている。その川に架かった当時の橋はまだ木橋だった。砂利道で、バスが走るともうもうと土埃が立ち上がったものだった。それでも仲宗根美樹の歌の哀しみを胸に抱いて欄干に手をつき、ジッと川を見つめ想いに耽ったものだった。そして口には出せず、頭で諳じてこの歌を歌ったものだった。「ある人は心つめたく ある人は好きで別れて 吹き抜ける 風に泣いてる」。当時、その歌の意味が分かっていただろうか。ただ仲宗根美樹のハスキーで悲しい歌声とこの人の美しさに魅せられていただけに過ぎなかったのだろう。アカシヤの雨の西田佐知子の場合だってそうだ。あの人の澄んだ瞳と美しい唇と透き通るような歌声に憧れていただけに過ぎない。
とにかく明るい歌よりも悲しみの歌が好きだった。太宰治の「道化の華」の出だしの言葉にある「ここを過ぎて悲しみの市(まち)」などという言葉を目にするとドキドキして後は夢中でその悲しみを友に小説を読み進めた。中学、高校生のころから悲しみを友としてきた性格は大人になるにつれ時には忘れ、時には捨てたが、いま50代になってなぜか再びその悲しみを友にする感傷がひどくなった。アカシヤの雨や川は流れるといった歌を思い出し、その歌を聞いてみたい、その歌詞を手にしたいと図書館に走った。
そして横手川周辺を歩いた。川は昔からその表情を変えず今も滔々と流れている。木橋はコンクリート橋に変わり、そこから1キロほど下ると雄物川に合流する。冬の川の眺めは寂しいものだ。峻烈とも言えるほど人を寄せつけない。雪で埋まった白い岸辺。黒い枝を岸辺に伸ばすネコヤナギの木々。水は暗い雲を映して灰色に濁り、心を錆びつかせる。横手川の水を受け入れた雄物川は冬ざれの凍えるような光景を見せて、ただ滔々と流れているだけである。その水をみつめて「川は流れる」の最後の歌詞のように「嘆くまい 明日は明るく」とつぶやいた。
「川は流れる」も「アカシアの雨がやむとき」もあれほど好きだったのに両方ともレコードを買った記憶はない。レコードを手にしたら多分、単なる憧れが恋い焦がれるような気持ちになってしまわないかと言う恐れもあって買わなかったのかもしれない。また男子たるものこのような女々しい歌を大きな音で聞いて、それが外へ流れるのは我が心を世間にさらけ出すようなものだという恥ずかしさも手伝ったのかもしれない。とにかく二人の歌はテレビで聞けるのを楽しみにしただけだった。
西田佐知子は「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜があける 日がのぼる 朝の光りのその中で 冷たくなった わたしをみつけて あの人は 涙を流して くれるでしょうか」と歌った。人は時には死に憧れる。悲しみにも浸り親しむ。恋に破れたこの歌の女性は死に憧れ、死んだらせめても私のために幾ばくかの涙を流してくれるだろうかと歌った。あの当時はそうした悲しみに触れ、見つめているのが好きだった。中学、高校生という年代はそのようなものだったのかもしれない。
石川啄木の歌集「一握の砂・悲しき玩具」を買い求めたのもそうした悲しみに浸っていたいと思ったからだろう。当時、文庫本で買い求めたその本はとっくに無くしてしまったが、先日、飛び込んだ書店にその歌集があったので購入した。やはり再び、悲しみと同居したくなったのかもしれない。
あたらしき心もとめて 名も知らぬ 街など今日もさまよひて来(き)ぬ
やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
横手川の堤防から雄物川へと歩いた。凍えるような寒さだったが、歩くのも気晴らしになっていい。歩きながら思った。啄木のような悲しみも、また「川は流れる」「アカシアの雨がやむとき」の悲しみも、悲しむと言うことは明日へのエネルギーではないかと。雪は相変わらず激しく舞い降りていた。遠くの西山はその雪のカーテンでかすみ、ぼんやりとした映像のようにしか見えなかった。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は時間もなく、第二巻をまだ読みかけたままだ。土佐藩の家老の娘「お田鶴さま」に愛され、江戸では千葉道場の娘「さな子」に好かれ、旅先では居酒屋を切り盛りしている「お初」と出会い、一目ぼれさせる竜馬。そして旅の宿となった京伏見の旅籠(はたご)「寺田屋」のおかみ「お登勢」に好かれ、火事場で救った「おりょう」という女を愛した竜馬。いや女たちだけでなく男たちにも惚れられ、この男のためなら命を捨ててもいいと多くの男たちが竜馬の下に群がった。最後は暗殺と言う不幸な出来事で波乱の人生に幕を閉じるのだが、暇を見つけては「竜馬」の世界に没頭し、幸せと勇気を分けてもらっている。
「お田鶴さま」の言葉を借りれば竜馬は「まったく眼が話せない坊や」であり、風呂嫌いの竜馬のため、火事場で汚れた衣類を無理やりと脱がせ、風呂に入れて背中を流す。本来なら竜馬でさえも声をかけるのをはばからなければならぬお姫さまがである。
「お田鶴さまも、なにやら乙女姉様に似て参られましたなあ」
「竜馬どのが似させてしまうのでしょう。あなたのご様子をみていると、そこまで面倒をみて差し上げねば、うまく生きてゆけないひとだというような気になってしまいます。いってみると竜馬どのがわるいのですよ」
「私はしっかりしておりますよ」
「それはお口だけ」
「そうかなあ」
「手のかかる人です。江戸のさな子どのとやらも、そういうお気持ちでございましょう」
どうやら竜馬と言う人は好きになった女性がいれば、堂々と愛する女性の前で報告していたようだ。お田鶴さまには江戸の「さな子」を報告し、お登勢さん、おりょうさんにはお田鶴さま、さな子を語って聞かせた。この辺からもやはりただ者ではない。
江戸時代の政治とは庶民の生活を考えるのではなく、徳川家一門の利益のために権勢を振るおうとした時代である。そうした中で「アメリカでは、大統領が下駄屋の暮らしの立つような政治をする。なぜといえば、下駄屋どもが大統領を選ぶからだ。おれはそういう日本をつくる」とまで言い切った竜馬。このセリフが好きだ。竜馬が活躍した時代は19世紀後半だった。今は21世紀に入った。なのに日本の政治は下駄屋の暮らしを考えるよりも党利党略に走り、ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団問題のように自分の懐を温める政治屋が相変わらず跋扈(ばっこ)している。竜馬はどう思うだろう。雪空を仰ぎ、雪に埋もれた川沿いの堤防を歩き、帰途に着いた。「嘆くまい 明日は明るく」。そう生きたいと思った。