ひとつ考えてみて下さい。
あなたは今、親友の運転する車で、ドライブを楽しんでいます。そこは、民家の点在するのどかな場所、会話もはずみ、親友は制限速度60kmのところを80km前後のスピードを出しています。突然目の前に猫か猿か小動物が飛び出してきました。急ブレーキをかけ、回避しようとして民家に激突し、家は大破、留守番をしていた老婦人にも怪我を負わせるという大変な事態になってしまいました。
さて、あなたは警察で、どのように証言しますか。
(1)国民の義務として事実を正直に「友人は80kmのスピードを出していた」と言うか。これは、国民としての役割を果たすことにはなるが、一方で親友を苦境に立たせ、その友人を失うことになるかもしれない。
(2)友人を庇う立場で「安全運転していた」と証言するか。これは、嘘によって友人は助かるかもしれないが、国民としての本来の義務を放棄することになる。
どちらを選びますか。
私達は、家庭、学校、職場、地域などの集団に属し、いくつかの役割をもって生活する中で「何を取るか」「どちらを選ぶか」といった悩みを持つことがあり、これを役割葛藤と言うそうです。
日曜日、父親は突然の接待ゴルフに行くべきか、子供との約束を守って一緒に遊ぶべきか。帰宅の門限を守って家族としての義務と信頼を守るか、それとも深夜に及ぶ友人関係を優先させるか。
学校の方針と生徒の要望、自らの教育理念に悩む教師や、医療ミスによって病院、患者側、そして自らの良心に苦しむ医師、その他消防士や公務員も職業的に役割葛藤の要因を大いに含んでいるのではないかと予想できます。
冒頭の問いについて、アメリカの大学生は、9割が(1)を選択し、それは国民としての役割を優先させる普遍主義者であり、(2)の友人を助けるという個別主義者は1割にも満たないという実験の結果があるそうです。
対して、日本はその逆で偽証までの深みを抱え込む人情家が大多数とか。これは、「ウチ」と「ソト」の概念がkey wordのようで、いずれにしても私達は内と外、表と裏、本音と建前といった相対する価値基準の中の葛藤に、どうにか折り合いをつけて生活しています。その方法の一つとして適応機制がありますが、これについて今回は割愛し、またの機会に書きたいと思います。
ところで、日本家屋には、昔から縁側と呼ばれるところがあって、意匠的には室内と外部を結ぶ役目を持っています。縁側は室内からみれば建物の一部であり、外から見ても庭との趣きを連帯する空間と言えます。
これはまた、縁側が室内から見れば外にある庭と一体化しているようにも見え、外から見れば室内の延長と言い換えることができると思います。つまり、家の内と外、気候や景観にうまく折り合いをつけてくれる場所が縁側ということになるのではないでしょうか。
私は人の心の奥には、うっすらと危ういものが潜んでいるように感じます。翻って、それはとてもsimpleな渇望にも取って代わるように思えます。本当の苦しみを体験したと言える人は、役割葛藤などしない―これは私の主観的極論なのですが、その辺りの迂路と茫洋さを借景とするのが文学であったり、そんな精神の状態を科学的に体系化させるのが心理学であったり、悩むことも解決することも社会構造の一事象として捉えるのが社会学であったりするわけで、焦点がぼやけてくるほど面白くなります。
こんなふうに少し距離を置きながら、縁側を連想し、このような文章を寄せることができた御縁を合縁奇縁と深謝して、たどたどしくも裾野をついた何かを綴っていけたらと考えております。
よろしくお願いします。
(本紙から=大橋祥子さん=ペンネーム=は「第76回コスモス文学新人賞」の随筆部門で「愛しい人」を発表、新人賞を獲得されました。横手市在住の主婦で、本紙の取材を受けたのを機に寄稿を約束して下さっていました。その待望の第一弾です。大橋さんの記事は1月16日に一般記事及び著名人に残ってます。今後の展開を楽しみに)