こちら編集室「美の発見の旅」(2月9日)

 寒さのせいなのか、それとも道行く人の誰もがこの寒さで肩を丸め、着膨れした姿しか目に入らないせいなのか、車で街を走ると女子高生の足の群れにハッとする。この寒空の下、彼女らはコートも着ず、制服姿で街を歩き、しかも短いスカートからは長い素足をさらけ出したままなのである。文学的な言葉を借りれば「冬の華」のように目を楽しませてくれるが、「それにしても」と考えさせられる。「カンパイの挨拶と女性のスカートは短いほどいい」とはある男性のパーティでの挨拶だったが、確かに女性の短いスカート、そこからすらりと伸びた足は魅力的だ。だが、先日のあの猛吹雪の中でさえ素足のままで歩かれると彼女たちの足が気の毒に思えてならない。素足が寒さで真っ赤になって泣いているように見えるからだ。おしゃれもいいが、もっと足を大事にすべきではないかと彼女たちの姿を車の中からチラリと見てはお節介なことを考えてしまう。

 それにしても最近、記憶力が加速度的に衰えてきている。女優の浅丘ルリ子の離婚報道がなされたのは確か昨年暮れだったと思うが覚束ない。とにかく昨日の事でさえ記憶はきれいさっぱりと忘れているくらいだから。これが万が一でも警察に何らかの事件であらぬ嫌疑をかけられ、「あんたね。3日前の午後3時ごろ、どこで何をしていたのかアリバイはあるのかね。あるんだったらそれを証明してもらいたいもんだね」などと大声と同時に机をバーンと叩かれたら、もう手の打ちようがない。「そんな昔のこと覚えているはずがないでしょう」と言ったって通る話ではない。神さまに頼む以外ないくらいだ。

 写真は六郷町から眺めた真昼岳それはともあれ、浅丘ルリ子と言えば自分たち団塊の世代にとっては美少女の代表的存在で、その美しさは中学・高校時代は憧れの的だった。石原裕次郎や小林旭と共演し、いつもドラマチックで悲劇の女性として銀幕に登場しては心を捉えたものだった。その彼女の離婚報道をテレビで目にして、彼女がもう60歳を過ぎているのを知った。

 そのテレビを見ながら、歳(とし)は誰にでもどんな人にでも平等に訪れるんだナと妙な感慨を抱いたものだった。とにかく中学、高校時代は石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」などやくざ映画、小林旭の「ギターを抱えた渡り鳥」シリーズを見たくて、父や母にお金を無心しては近くの映画館に通ったものだった。裕次郎は霧笛が響く横浜の夜が良く似合い、独特の低音で「夜霧のブルース」などを歌っては観客をしびれさせたものだった。そして旭はギターを抱えて北から北へと旅を重ね、アキラ節とも言える甲高い声で歌う姿が何とも言えぬ格好良さで、心をワクワクさせたものだった。裕次郎の低音、旭の高音。どちらも好きで好きでたまらなかった。そうした中で浅岡ルリ子は女優として光り輝いていた。

 あのころはただ二人が格好よく、憧れの存在だった。ケンカに滅法強く、今では笑い種(ぐさ)だが、拳銃を手にしたら針の穴さえぶち通す見事さに心躍らされたものだった。常に強きをくじき、弱きを助けた。夜霧の中でコートの襟を立て、キラリと光る眼、そしてタバコを口にしながらふり返った裕次郎のあの姿、ギターを抱えて「赤ぁーい 夕日にさぁそーわーれてー」などと歌いながら、やくざたちを次々と殴り飛ばす旭の颯爽とした銀幕での活躍はたまらなかった。

 映画館は我が家の裏の川一つ隔てた向こうにあり、いつもスピーカーから二人の歌が流れていたものだった。その歌を聞きながら屋根にはしごを架け、春は屋根の上で日向ぼっこをしながら、聞きほれたものだった。そのせいか今でも飲みに行ってカラオケのマイクを握ると石原裕次郎や小林旭の歌を選んで、歌ってしまう。特に小林旭の歌は節の付け方までそっくりとなり、得意気になってしまう。

 近所にあった映画館は木造の二階建てで、とても古い建物だった。足しげく通ったものだから映画館の経営者とも親しくなって、映写技師からいつの間にか映写機の動かし方まで伝授され、中学時代は日曜日などで人手が足りなくなると「これからは映画料金は要らないから、映画の上映を手伝ってくれ」と映写室に呼ばれ、映画を映したものだった。同じ年頃の連中が映画館に入って来ると「これから上映する映画は俺が映すんだからな」と自慢しては映写室への階段を駆け上がったものだった。室内には黒い鉄の塊のような大きな映写機が2台あって、片一方の映写機で放映中のフイルムが終わりに近づとスクリーンの右端に「ほし」と呼ばれた白い「○」が一瞬、映し出され、確かその○が2個か3個、画面に登場すると次のフイルムを抱えて回転しだしたもう1台の映写機の窓を開け、スクリーンに放映する仕組みになっていた。

 スクリーンの右端に登場する小さなほしである「○」を見逃すと、次の映写機を動かすタイミングも遅れ、スクリーンは真っ白になって「穴」が開くことになる。さらに光源として使っていたマグネシウムへの点火に失敗すると、映像はストップしたままとなる。それが数分も続くと、観客も騒ぎだし、客席から「オイ。何、やってんだ」と怒鳴り声が上がった。まだ中学生だった自分はその怒鳴り声にあわて、ますます緊張してマグネシウムを点火するための二つの歯車の移動の微妙な指の操作がうまくいかず大慌てで1階の事務室に駆け込んで救助を求めたものだった。経営者は「しょうがないなー」とブツブツ文句を言いながら光源を点火し、映写機を回した姿を覚えている。どっぷりと太った頭の毛が何もない人だった。

 映画館だから石原裕次郎や小林旭ものだけではなく、片岡千恵蔵、大友柳太郎、長谷川一夫と言った大物俳優の時代劇、そして時には洋画も上映された。洋画になると自然、キスシーンが多く、中学生の自分はただそのシーンを見てどぎまぎするばかりだった。とにかく洋画のストーリーはほとんど頭に入らず、ただそのシーンだけをまじまじと見つめたものだった。キスシーンばかりでなく、時代劇で着物を着た女優がその裾をはだけ、白い太股をあらわに川に入って足を洗うシーンなどを見るともう興奮するしかなかった。思えばあの頃から女性の足の魅力の虜になっていたのかもしれない。とにかく女性の足の魅力には未だに心揺れる。眼差しも揺れる。中学時代から洋画のキスシーンを目にしていたから、今の中学校の先生たちが昔はそのような生徒がいたと聞いたらビックリすることだろうか。いや今の子たちはもっと強い刺激に慣れっこになっているかもしれない。

 冬。とにかく映画館の中は寒かった。冬になると映画館では暖房用の炭を観客に売ったものだった。小さな火鉢が用意され、映画館から買った炭をそれに入れて暖を取りながら映画、時には芝居を楽しんだものだった。母は映画よりも芝居が好きだった。小学生のころは母に連れられてその芝居を観に行った。いつもやくざモノで、「番場の忠太郎(名前の漢字は間違っているかもしれない)」など親のため、あるいは義理のため死に場を求めて行くシーンなどになると涙もろい母は目にいっぱい涙を浮かべて観劇していたものだった。こちらは母がなぜ涙を浮かべ、それをぬぐっているのかの意味も分からずただ悲しい思いをして映画館から帰ったものだった。

 その芝居を見て母と二人、夜の雪道をトボトボと歩いているうちに体の芯を襲う強烈な寒けを覚えた。風邪だった。家に入ると同時に「寒い。さむい」と声を震わせ、体を震わせた。母も父も驚き、「とにかく寝かせろ寝かせないと」と大急ぎで布団を取り出し、その中に飛び込むように横になった。それでも寒くてガチガチと歯を鳴らした。湯たんぽが入れられ、それを抱きしめた。寒さは治まらなかった。父は「熱を計ってみないと」と体温計を脇の下に入れさせた。しばらくしてその体温計を取り出し、母のいる台所に駆け込んだ。「おい。39度もあるぞ。こりゃ医者に来てもらわないと駄目でないか」。心配する父の声が聞こえた。「こんな時間に来てくれるべか」。母も心配そうにうなずいているようだった。まだ電話さえない時代である。父は「とにかく俺、あの先生のとこへ行ってみる」。父は橋一つ隔てた所にある開業医に走って医者を呼んできた。

 その間、布団の中でただ震えながら「医者は嫌だ。医者は嫌だ」と心の中で呪文のように念じていた。「マア。マア。ガンバレな」。冬の夜、子どもを連れて芝居を観に行き、そして風邪を引かせてしまった親として、母はその責任を一心に取ろうとしていたのだろう。時には布団の上から自分を抱きしめ「マア。ガンバレな」と涙ながらに叫んだ母の声がありがたかった。玄関戸が開き、「先生。こっちだんし。こっちだんし」と大慌てで医者を呼んできた父。初老の医師はおもむろに黒いカバンから体温計を取り出し、体温を計ってから震える自分の布団をめくり、胸に聴診器をあてられた時のあの冷たさは今も体の中に記憶として鮮やかに残っている。そして注射を打たれ、そのまま死ぬように眠ってしまった自分も。

 風邪はその翌朝もまたその次の日も抜けきれず、小学校を休んだ。目が覚めると父も母も自分の顔を覗くように両手を畳について上から眺め、「マア。なんただ。まだ頭が痛いか。寒いか」と交互に声をかけたものだった。兄たちはとうに学校に行き、家の中はシーンとしていた。喉が乾いていた自分はとにかく「サイダー」が飲みたかった。「サイダーを飲みたい」。翌朝になると実際はそれほど苦しかったわけではないが、まだ甘えたかったのだろう。わざと苦しそうな声で「サイダーを飲みたい」とねだった。父も母も「サイダーか。よしよし、今、買ってくるからな」と言っては近くの雑貨屋に駆けつけ、当時もまた今も六郷町で作られている「ニテコサイダー」を買ってきては飲ませてくれたものだった。あのピリリと喉を刺激した味わいは今も忘れられない。とにかく貧しくても大事にされた子ども時代だった。親とはありがたいとものだという思い出しかない。

 子どものころ映画や芝居を楽しませてくれたあの映画館はその後、廃業し、しばらくは倉庫として使われていたが20年近く前に原因不明の火災で消失してしまった。石原裕次郎、小林旭の映画に憧れ、浅丘ルリ子の美しさに心もだえた自分も今は50代に入ってしまった。裕次郎は既に鬼籍の人となってしまったが、いまだに多くのファンの心の中に生きている。小林旭は今も時々テレビに登場し、格好よくアキラ節を聞かせている。彼ももう60代になったろう。そうそうもう一人、青春時代から始まって今も心を捉えて離れない俳優・高倉健はもう69歳と言う。健さんはさすがに顔のしわも深くなったが、映画で見るとほとんど老化は感じさせない。我が青春時代に輝いた星は今もって大きく輝いているのである。彼らは60代になってもりっぱな現役のスターだ。いやまだ彼らは青春時代のまま人生を楽しみ、大きな星として輝いている。

 自分は今、50代。女子高生の足を見ればハッとする。これからも美しい人を見れば心をときめかし、心を揺らし、夢を追い求めることだろう。中学時代から始まった女性への憧れとコンプレックスは、いまもそのままだ。その困った病気を背負い、片思いでいい、あまり精神に負担のかからない恋でも追い求めるかなどと身勝手な夢想を描いている。そんな下心があった訳ではないが、夕べ訪ねたお店のママさんは「伊藤さんの手はとても柔らかいのね」といつまでも手を握っていてくれた。なぜかそのママさんは自分の手を握るのが好きだ。あるいは誰にもそうしているのかもしれないが、自分はいつも自分だけへのサービスだとうぬぼれ、酔ってはいつもそのお店で腰を落ち着けてしまう。そのママさんの優しい指の感触を水割り片手に楽しんでいると「相変わらず子どものようね」と姉のような、母のような親しみを込めて彼女はほほえむ。その笑顔がいい。そうした至福の時間がいい。お酒を飲みながら、美しい女性(ひと)に甘えていられる時間がいい。堅苦しく飲むのは嫌いだ。隣に座った女性のどこかに必ず在るその人独特の個性と美を発見し、それを褒め、お互い気持ちよく飲み、酔うのがいい。夜の街を飲んで歩くのは美の発見の旅であり、ロマンの旅である。