ポカポカとした太陽が背を温める。青空がまぶしい。雪がまだ田んぼを一面に埋めているせいか風は冷たいが、やっとコートも羽織らずに外を歩ける季節が来た。待ち遠しかった春である。春分の日の20日、まだ雪のため車では行けないだろうと思っていた墓地への道路がきれいに除雪されていた。それを確認して妻を誘って墓参りをしてきた。墓参客で混んでいたため墓地への入口で車を停め、久しぶりに土がむき出しとなっていた道路を歩いた。足の裏に土の柔らかな感触が伝わって来る。田んぼの白い雪がまぶしい。青空がまぶしい。お日様が笑っているように思えた。しかし、お墓はまだ雪に埋もれ、墓石だけが顔を出していた。
花瓶も線香を立てる祭壇用の石もみんな雪の下だった。事前に雪寄せをしておけば良かったが、気づかなかった。日ごろの怠惰がたたった。しょうがない。花も線香も雪の中に差して、買ってきたおだんごも雪の祭壇に上げ、両手を合わせた。父が眠り、母が眠っている。父が77歳で亡くなってからもう21年にもなる。母が88歳の老衰で眠るようにあの世に旅立ってからも14年になった。若い若いと思っていた自分もすでに50代の半ばになろうとしている。墓前で両手を合わせながら、月日の流れの早さをつくづくと感じた。
思い返せば父も母も貧しい生活ながらも晩年は平和でのどかな生活を堪能したと思っている。長男に失敗し、その後を継いだ兄にも出られ、「昔から長男がだめだったら、末っ子しか頼るものがないものだ」とお茶を飲みに遊びに来た近所の人たちと囲炉裏を囲みながら口癖のように言っていた父と母だった。高校時代は家庭内の不和で暗く暗澹たる日々もあったが、父と母の3人暮らしになってからは貧しいけれど腫れ物が落ちたようなスッキリした顔で二人にも笑顔が戻っていた。
父は行商で稼ぎ、母は縫い物で生活費を稼いだ。そして一心に自分に愛情を注いだ。人並みに不良の真似をしてタバコを覚えても、酒を飲んでも怒ることはなかった。高校の仲間を家に連れてきて泊めてやっても「マアの友だちか。学校でお世話になってるべ」と大歓迎し、喜んで食事の準備をしてくれたものだった。和やかさ。居心地の良さ。父も母も貧しくてもやっと取り戻した平和な生活にさざ波を立てまいとしたのだろう。笑顔が常にあった。
高校生になると欲しいものも並大抵のものではなくなる。当時、流行っていたステレオが欲しくて父に買ってくれと無心した。小遣いが数千円しかもらえなかったのに、ステレオは7〜8万円、いや高いものだと10数万円もした。10万円という金額は自分の頭では想像さえつかなかった。父も母も本当に困ったことだろう。それでも二人で相談し、近くの電気屋に行ってその店にあったステレオを見ながら「マア。これで我慢してくれないか」と注文してくれたものだった。レコードを何枚か重ね、自動的にレコードがプレヤーに運ばれ、回転する仕組みになっていた。今でも思う。あの家計の中のどこからあのステレオを買えるお金を捻出したものか。思えば随分、我がままをした高校時代でもあった。一途に縫い物に打ち込んでいた母の猫背が思い出される。自転車に乗って遠くまで行商に出かけた父の飄々とした顔が思い出される。雨の日も、風の日も父は出かけた。櫛風沐雨(しっぷうもくう)の日々を父は重ねた。
高校を卒業して就職したが、精神的に追い込まれ、胃を壊して横手市の病院に半年近くも入院し、再び父と母には苦労をかけてしまった。幸いにも今の新聞社に記者として迎えられ、安いながらも収入は安定。そして妻を迎え、3人家族が4人になった。結婚前、相手は旧家の娘と聞いた父と母は怖じ気づき、秋田の姉まで呼び、「マア。そのような家の娘に嫁に来てもらうのは無理でないか。マア一人の思い込みでないのか。断られるだけでないのか。敷居が高過ぎるよ」と心配し、オロオロしたものだった。その妻が花嫁姿で我が家に来た時の父の喜びようはなかった。「サッサッ。入ってけれ。さぁ、上がってけれ」と立ち居振る舞いがまるで機械仕掛けの人形のような覚束なさで「まず。何とか仏さんを拝んでけれ。頼むんし」と手招きし、「あやー。いい嫁だ。いい嫁だ」と誰はばかることなく感動の涙を流して喜んだものだった。
晩年は父も母も妻を娘のように可愛がり、本当の幸せを味わって、その老後を過ごしたはずだ。妻は父を相手に良くオセロゲームを楽しんだ。その姿を見て、高校時代の我がままを平和で穏やかな家庭を築くことで恩返ししたと自負したものだった。やがて母が脳卒中で倒れ、その母を看病していた父も肺ガンで倒れ、私たち夫婦は父が亡くなるまでの半年間、病院のベッドの下で暮らした。本の好きだった父のため、妻は職場の図書室から次々と小説を借りては、まだ体調の良かった父に読ませた。入院した2月から3月、そして4月、5月ごろまではまだ普通の生活だった。自分たちは歩けない母の下で夜を過ごしていた。毎日、職場から病院への直行だった。
母は右半身が効かない体となっていたため食事の介助が必要だった。父は自分の食事を済ますと母の病室を訪れ、4人で消燈まで過ごしたものだった。6月に入ると父も体力を失い、次第にベッドで寝たきりの日々となった。「マア。おれ死ぬ病気だか」。父の口元から弱々しい声が漏れた。「そんなことはない。先生は治る病気だと言ってる」。こちらはまともに父の顔も見られず、吐き捨てるように言ってはトイレに駆けつけてオイオイと泣いたものだった。
7月に入ると大部屋から個室に移された。私たち夫婦も母を離れ、そちらの部屋で夜を過ごすようになった。個室だけに他人に気兼ねすることもなくなったが、常に父の顔を見る生活は辛かった。息苦しくなって母の病室に行くと「なんただ。苦しんでないか」と父を気づかった。「ああ。大丈夫だ。眠ってるから」。「そうか」。そう言うと母も安心したように目を瞑った。
8月の暑い盛りだった。父は「家に帰りたい。何とか家に帰ってみたい」と強い口調で言い出した。医師に相談し、お盆の13日に車いすを借りて父と母を玄関まで運び、車に乗せた。涼しくしてやろうと車はエアコンで冷やしていたが、弱っていた父の体にはエアコンの風さえも辛かったのだろう。「寒い。寒い」と唇を震わせ、あわててエアコンのスイッチを切った。後ろの座席に座らせ、とにかく自宅へと妻と共に急いだ。「家に着いたよ」。ドアを開けると父と母はおぼろげな目で家を眺め、まだ歩く力が幾分残っていた父はゆっくりとした足どりで降りようとした。その父の背を妻と二人で支え、家に入った。
父と母のためにと建てた部屋は夏の暑さでムンムンとしていた。窓を開け、押し入れから布団を出し、柱にもたれるように足を伸ばしていた父を横にさせた。母も車いすから降ろし、隣に横になった。窓から見える小さな庭に目をやりながら「ああ。家に来れたんだな」とか細い声を出して二人は喜んだ。一晩か二晩は泊まる積もりだったが、看護婦も医師の姿も見られない自宅での生活に父は急に不安を感じたのだろう。その日の夕方になると「マア。悪いけど病院に戻ってもらえないか」と言い出した。「だって今日は泊まることになってるよ。病院に帰っても食事も出ないかもしれないから」。そう言っても聞かなかった。「帰りたい。苦しいから連れて行ってくれ」と両手で祈るような仕種をした。母もしわがれた声で「マア。病院に連れてやってけれ」と涙を流した。あたふたと再び病院へと向かった。
父はそれっきりほとんど寝たきりとなった。それでも気力を振り絞って部屋の簡易トイレには何とか立って用を済ませた。しかし、9月に入るとそれさえも出来なくなった。夜になると蛍光灯の灯さえも気になるのか、「電気を消してくれ」と気を揉み、とても神経質になった。時々顔を出す主治医はこっそりと自分を呼び「持っても今月いっぱいでしょう。苦しむことのないよう全力を尽くしますから」とささやいた。東京から兄たちが見舞いに駆けつけた。秋田からも姉が駆けつけた。もう生命の火は燃え尽き、呼びかけても反応もなかった。9月27日深夜、父の脈は停まった。77歳の穏やかな死に顔だった。
通夜。兄たちと酒を飲み、思いっきり泣いた。「マア。難儀かけたな」。すぐ上の兄、その上の兄たちのねぎらい、そして二人の姉のねぎらいの言葉に泣いた。優しかった父のために泣いた。親孝行。本当に親に尽くせたかどうかは眠っている父しか分からないが、とにかく晩年は「マア。いい嫁もらったな」と幸せそうに語った父だった。久ぶりに訪れた墓地。春の日差しを浴びながら、父と母の思い出を思い浮かべ帰途に着いた。