● 「痛み」を共有できる21世紀社会になるか(前)」(01・4・5)
                                 
                                          フリーランス・ライター 酒井隼男

 2001年も早4ヶ月を経過した。「世紀越えだ」「新世紀の到来だ」などと浮かれたように起きた「カミング・センチュリー」のお祭り気分も過ぎ去り、冷静に21世紀を展望する論調や主張が目に付くようになった。もちろん21世紀は20世紀の延長上にあり,前世紀に起こったすべての遺産(正も負も)を受け継がなければならないことは言うまでもない。20世紀に日本、いや世界で起きたあらゆる出来事の中で最も影響力が大きく、かつ歴史を一変させたのは、第2次世界大戦であることは多くの方々の一致を見るだろう。人類史上未曾有の大戦が終結して55年が経過し、日本いや世界の政治・経済構造、人々の意識と生活様式は劇的な変化を遂げてきた。この論考は、それらを論理的、実証的に解明することにない。そういった事実を前提に、21世紀の、特に初めのディケイド(10年間)に日本人は何をすべきなのか、どうあらねばならないのか、一つの提言を試みようとするものである。当たり前だが、TVゲームのように簡単に「リセット」して、ゼロから21世紀をスタートすることはできない。それゆえに、私たちの眼前で起きている諸問題を、今あらためて整理し考え直してみることは、今世紀にも生きる私たちにとって意義があると思われる。

 「645兆円」…国と地方公共団体が背負った借金の総額である。もはや天文学的数値になりかけているのは明らかである。「そんなの知らなかった」と主張したとしても、私たち国民はこの膨大な借金の‘連帯保証人’にさせられているのである。財務大臣・宮沢喜一が「私は世界一の借金を作った大臣として後世に語り継がれるだろう」と嘯(うそぶ)いている。ここまで借金を膨れ上げさせた第一の責任は、もちろん政治家、特に1955年以降日本の政治を牛耳ってきた自民党が負わなければならないが、もはや自民党にはその責任をとる気力も展望も戦略もない。党に反旗を翻した派閥の領袖に対しての責任だけはきっちりとらせているようであるが、そんな党利・党略に終始している間にも、借金額は日々膨らみ続けている。21世紀の最初の仕事になった「省庁再編」で一時的にお茶を濁しても、再編された当事者たる官僚から下々の公務員一般にいたるまで、「お役人体質」が抜けない限りは元の木阿弥に終わるのは目に見えている。財政危機を打開する方策も見えなければ借金を返済していく見通しもないという絶望的な状況に置かれているのが、20世紀末の日本のリアルな政治状況で
あった。

 だが私たちは、政治家や政権党の責任を追及するだけで足りるのであろうか。私たち自身の政治に対する要求行動や選出過程において問題は無かったか、政治家に相対する私たちの姿勢はあれで良かったのか、いまいちど検討を加える必要があるように思われる。例えば「ダムを作る」「公共施設を作る」「道路を作る」「新幹線を引っ張って来る」から「子弟の進路の面倒を頼む」「入札の口利きを頼む」まで大小さまざまな要求を、厳密な将来計画に基づくことなく、あるいは私利私欲のために、政治家に求めてこなかったか。そういった要求を役所につきつけ、圧力をかけて成果を引き出させ、一部を自分のポケットに入れる一群の「政治屋」を、「実力者」と勘違いして選出し続けてこなかったか。議員の行動や発言をチェックすることなく、「オラが先生」だからといって無批判に支援してこなかったか。政治家を「政治便利屋」として扱い、己が利権の‘守護神’として奉ってこなかったか。国の将来を憂い、時には苦い政策を堂々と掲げる真の「政治家」を育てる努力をしてきたか。「政治家のレベルは有権者の政治意識のレベルを超えることは出来ない」という格言を、いまいちど思い起こして欲し
い。

 昨年暮に北陸新幹線、九州新幹線ルートの建設に大幅な予算を上積みした2001年度国家予算案が発表されたときに、国土交通大臣・扇千景(林寛子)が「50年経ったら黒字になる」などとまったく根拠に乏しい説明をしていたが、その一言に代表されるように、「将来必ず財産になる」「経営が黒字になる」などといううたい文句で作られたものの、結局目論み通りにならなかったものを私たちは多数目撃している。その多くが来るべき選挙の票目当てであったことも、私たちは知っている。そういった大小さまざまな積み重ねが55年間続いて、645兆円という額に膨らんでいったことに私たちは気づかなければならない。

 確かに20世紀、特に戦後は私たちの生活は豊かになり、モノがあふれかえり、日々快適で便利な暮らしが営まれるようになった。それも645兆円という借金をした結果であることに、真正面から向き合わなければならない時がきている。しかしそのことは、すなわち私たちの生活様式やレベル、要求行動を根本的に変えることに直結するため、相当な覚悟を強いることになるだろう。

 私たちには、21世紀の早い段階で解決しなければならない難題が、まだまだ待ち構えている。「地球温暖化」「オゾンホール増大」「環境ホルモン」「排気ガス規制」「土壌・海洋汚染」…環境問題への取り組みを急速かつ劇的に進めなければ、地球そのものがダメになる。化石系エネルギーの枯渇も21世紀の早い段階で起きる。代わりに原発を稼動させれば済む問題ではない。ゴミ処理場問題は、あちこちで住民との摩擦を起こしている。

 相次ぐ凶悪犯罪、学力低下と学級崩壊、基本的マナーと公共モラルの欠如、引きこもり増加と社会や仲間からの隔絶…将来をになうべき青少年の意識や行動が、特に90年代後半になってからおかしくなってしまった。

 規制緩和の圧力は、優勝劣敗の二者択一を私たちに突きつけている。誰も敗者の道を選択したくないから、人々は否応無く地球的規模に拡大した競争経済の中で心身を削りながら戦い続ける。それは工業・テクノロジーの世界のみならず、地場商業、農林漁業も巻き込んで進行している。「リストラ」という体のいい首切りも、労働基準法などどこ吹く風とばかりに、一般に認知されるところとなった。もはや「死に体」、民主党幹事長・菅直人に言わせればすでに「死体」となっている総理大臣・森喜郎が、主要な政治目標に掲げている「IT革命」に乗り遅れた者には、社会から「対応不適」のレッテルを貼られるかもしれないという強迫観念が蔓延し始めている。

 年金・保険制度崩壊への危惧、金融機関に対する信頼崩壊は深刻さを増すばかりである。少子・高齢化は確実に日本、特に地方の活力を減退させる。減りゆく’土着’日本人に代わり、増加の一途をたどるであろう外国人との共存、共生は、真の国際化とは何か、日本人とはいったい何かという課題を、私たち1人1人に突きつけるだろう。

 移植医療技術の革命的進化は,これまで再生不能と思われていた人間の臓器を,新たなものに付け替えることを可能にした。生と死の概念の論争は今後も続けられるであろうが、「死すべきもの」からの’パーツ採取’は、社会的認知を得つつあるかに見える。人工授精はすでに一般に認められる医療技術になり、遺伝子操作の技術革新は、ついにクローン人間の誕生をも現実のものにしようとしている。21世紀は「自然の摂理」で生れる人間と、ヒトの手によって生れる人間との共生という世紀になるのか。
(以下次回へ、文中・敬称略)

酒井隼男略歴 1958年岩手県出身。岩手県のローカル紙やタクシー業界紙の記者を経て、現在、旅行代理店に勤務しながらフリーランス活動。