こちら編集室「新しいバナー広告」(4月6日)

 読者はもう気づいて下さっているかと思うが、秋田県南日々新聞にまた一つバナー広告が掲載された。鹿角市の総合印刷デザイン会社「株式会社アップル」である。仙台市と東京、さらに秋田市に事務所を構え、「アスキー」など中央の月刊誌の印刷を引き受けているエリート企業である。そこの代表者からメールで広告掲載の申し込みがあった。しかも県北の企業からの初めての広告依頼である。信じられないような思いでメールに目を通したものだった。一度、大曲市で名刺を交換したことがあるとかだったが、何より嬉しかったのはそうした大手の企業が、ケンニチの社会性を認め、自社の宣伝に役立てたいと言ってくれた点である。

 インターネットは成功さえすれば地域性を超えたPRにはなるとの自信はあった。しかし、そこへたどり着くまでの距離と時間、努力が大変だ。もちろん朝日新聞など国内の大手新聞社のようにニュースが分刻みで更新され、しかも英文の記事も同時掲載されるようなホームページなら国内外を超えた読者をつかみ、バナー広告も取りやすいだろうが、ケンニチは何と言っても一人である。一人で取材に走り、原稿を書き、ホームページを更新する。わずらわしい作業を一つひとつこなして、やっと電話回線につないで完成したばかりの記事を紙面に送る。すべてが手作業の繰り返しである。

 読者により多くの情報を送り届けるためにはもっと人手がほしい。一緒になって働いてくれる仲間がほしい。そう思っても収入が無い限り、人を採用することは不可能だ。現在だってケンニチだけの収入では自分の糊口さえしのげない。それでもいつかはいつかはとの夢を抱いて、96年12月からケンニチは毎日、一本か二本、あるいは三本のニュースを書き続けてきた。そのインターネット新聞に最初にバナー広告を出して下さったのは角館町の「おおさわ胃腸科内科クリニック」の大澤先生だった。大澤先生ともインターネットで知り合い、交流しているうちに「伊藤さん。いつまでも広告のない新聞では社会に認められたことにならないから、うちのホームページを使いなさい」とご好意でのバナー広告の申し込みだった。

 田沢湖高原のブナ林それからまたしばらく間を置いて、秋田清酒さんが「伊藤さん。ケンニチに広告を出させて下さい」と申し出て下さった。まだインターネットの力の弱さを知っていた自分は、秋田清酒さんの広告の申し出がとても嬉しかったが「あのー。ケンニチにバナー広告を貼ってもお酒の売り上げは期待されないかもしれませんが」とおそるおそる言ったものだった。業務部の伊藤道夫課長さんは当時、「それは心配しないで下さい。売り上げはこちらで努力すればいいのであって、ケンニチの魅力は読者が全国、いや海外にまでいるということであり、出羽鶴、刈穂と言うブランド名を全国だけでなく海外にまで広げられる魅力を当社では買います」と言ってくれたものだった。

 こうして初めて企業広告がケンニチに掲載された。そして昨年、大曲ライオンズクラブからの依頼を受けてインターネット新聞を講演した時に自宅近くのお医者さん「伊藤内科医院」の伊藤良先生から「いやー。伊藤さんのやっている新聞は大したものだ。うちの家内が経営している『あんだんて』も広告を出すよう相談しようか」となって、3つ目の広告掲載となった。そして今年、今度は新年会で出会った「大同衣料」の社長さんもケンニチの評判を聞いて「うちでも出しましょう。まあ私はインターネットのことは分からないので、息子に任せますが」と申し出があって4つ目の広告掲載が実現した。

 この他にも昨年は市内の企業からの広告の話しもあって、経営者の方とお酒を共にしたがその後の具体的な進展はない。もしもケンニチだけの収入で自分自身を補って行かなければならないとしたら平身低頭して広告の依頼に走っただろうが、そこはまだサムライ商法。豆粒のような新聞社でも記者としての悲しいプライドが邪魔をして頭を下げに行けないままだ。
 ともかくケンニチのバナー広告はこれまで自分の取材エリアだけのものだった。いつかは東京や県外などからバナー広告の申し込みがあるのではないだろうか。夢だったが、そんなことを想像したものだった。インターネット新聞は購読料は貰えなくてもアクセス数で成功さえすれば、企業広告で自分一人ぐらいの糊口はしのげるだろうとの夢は捨てなかった。そうした所へ思わぬ「アップル」からの広告の申し出。感動と同時にやっていて本当に良かったと思った。

 ケンニチは96年12月にスタートした。その日から毎日、アクセス数を朝夕に記録してきた。それしか楽しみと励みがなかったのである。「今日は何人の読者がのぞいてくれたろう」。毎日、毎日、それだけを励みに記録してきた。スタートして16日目で973人だった。1日平均60人のアクセス数だった。そして12月30日、2173人のアクセス数でその年は終わった。1カ月で2000を超えた。そのささやかな数字でさえドキドキさせたものだった。こうして97年に入ると3000を超え、4000を超えた。7000を超えたころ、仙台市に本社を置く「河北新報社」から取材の申し出を受け、「大曲市から世界に向けて情報を発信 地方紙の記者・伊藤さんがインターネットで新聞を発行」といった見出しで「秋田県南日々新聞」が河北新報秋田版のトップ記事となって紹介された。あのころは7000と言う数字でさえもホームページの世界では大したものだと注目されたものだった。

 そして3月に入って待望の1万という数字が記録され、ケンニチを技術的に支えて下さった「きらうら花ねっと」の長瀬一男さんや海賀孝明さんらのご好意で泊まり込みの祝賀会を開いてもらったものだった。収入はなかった。出費ばかりだった。それだけに不安もあった。しかしその不安をしのぐほどの夢があった。無収入を心の面で支えたのは、読者から毎日のように来るメールでの励ましだった。そして同じ3月に「秋田新幹線」が開業し、7月には新しい大曲駅がオープンした。このオープンと同時に駅待合室に置かれることになった市内の観光情報をプラズマを使って知らせる情報発信業務を請け負った松戸市コンピュータサービスから「ケンニチのニュースを購入したい」との話が舞い込んで、月々2万円の収入が入ることになった。思えばそれが初のケンニチの収入だった。

 アクセス数1万が2万になったのはそれから3カ月後の6月だった。コツコツとケンニチは歩み続けた。10万という大台は遠い夢のような話だった。しかし、一歩一歩、確実にアクセス数は伸びた。そしてケンニチの読者は海外にまで多数いることもメールで知った。97年12月31日、ケンニチは6万2055ヒットを記録して、その年は幕を閉じた。とにかく98年内の10万ヒットは夢ではなくなった。毎日毎日、アクセス数のチェックと記録は続いた。そして98年6月26日、ついにケンニチは「10万」の大台を超えた。それを祝って7月には祝賀会がたざわこ芸術村の「田沢湖湖ビール」会場で開かれた。「きたうら花ねっと」の皆さんが企画し、多くのお客さまに囲まれ、温かい祝福を受けた。10万達成まで1年7カ月の時間を要したことになる。

 あれから3年。ケンニチは今度は50万を記録しようとしている。スタート当時は1カ月のアクセス数は2100から2500程度だったものが、今は1万4〜5000件と比較にならないものになろうとしている。バナー広告を出して下さっているスポンサー企業へケンニチがお返しできるのは宣伝効果だけである。社名が読者の目に触れ、そしてそのホームページへと一人でも多くの方が訪問して下さることを望む。ケンニチは間もなく、と言っても今のペースでなら多分7月ごろだろうが、いよいよ待望の50万ヒットを記録する。10万当時はとても出来なかったが、今度は読者にもプレゼントを用意したい。50万ヒットを当てた方には「秋田清酒」さんのブランド商品で、世界の人が認めた味「やまとしずく」、そして「あんだんて」さんの「箸置きセット」、それに「アップル」さんが発行している写真集「桃源郷 玉川」をプレゼントとしてお届けしたい。本来なら「大同衣料」さんの背広も加えたいのだが、まだそこまではとてもとても。と言っても大同衣料さんでなら、本当に手ごろな値段でスーツがオーダーできることを併せて報告したい。うーん。おおさわ胃腸科内科クリニックさん。ごめんなさい。

 いずれケンニチがスタートして今年で5年目を迎えようとしている。その間にはいろいろ感動的な思い出も刻まれた。多くの人との出会いもあった。最も印象に残っているのはケンニチのアクセス数25万を祝って読者が企画して下さった西木村での「紙風船上げ」である。読者が「いつもコツコツと一人で頑張っておられる伊藤さんのケンニチが間もなく25万を記録します」と「空飛ぶケンニチ」を企画し、紙風船作りのための募金活動を始めたのだ。紙風船を作ってもらうためには1個5万円だと聞いた。それほどの金額は集まらないだろうと悲観的に見た自分は足りない分は自分で出そうとさえ思っていた。それは杞憂に終わり、国内外から50人を超える方から19万円以上もの募金が寄せられた。そして昨年2月10日にケンニチオリジナルの紙風船が3個も夜空に舞い上がった。あの時は、静岡県や東京など県外からも多くの読者が駆けつけ、泊まり込みで祝ってくれたものだった。ケンニチにはそうした温かい読者がいる。ファンがいる。その人たちの一人ひとりの顔を思い浮かべ、新しいバナー広告が掲載された喜びを報告したいと思った。