家の周りのあちこちから煙がたなびく季節となった。冬囲いを外し、雪の下で眠っていた落ち葉やゴミを拾い集め、庭や畑で焼いているのだろう。薄紫色の煙がたなびくこの季節は好きだ。やっと冬から解放されたという喜びでいっぱいになる。それだけにこの4月と言う季節は1日1日を胸に刻むようにユックリと進んでもらいたいのだが、目まぐるしいほどの時の流れの早さに身も心も流されてしまう。
とにかく晴れ間の広がった先週の土曜日には我が家でも裏の雪囲いを取り外し、春を迎える準備を済ませた。窓の外を埋めていた雪の山も日増しに沈み、日曜日の夕方までに残ったのは手で掬(すく)えばすぐに消え入りそうな小さな雪の塊3個だけとなった。その雪を見ながら「春になって冬の名残を惜しむように降る雪を『名残雪』と言うらしいが、この残雪の哀れさはどう言うんだろう」。そんなことをつぶやいたら、濡れ縁で日向ぼっこをしながら寝込んでいたアキがむっくりと起き上がってシッポを振った。柴犬のアキもどうやらこの冬を無事に乗り越えて、春を迎えた。寒くなった昨年の暮れからお正月にかけて再び食欲をなくし、「この冬を持ち越せるものか」と心配したものだった。それもどうやら食欲も回復し、プクプクと風船のように太り出した。アキの生命力の強さに感動した。妻の「多めの食事作戦」の成功にも頭を下げたい。
雪のある間は、散歩に連れ出しても用を済ますと一目散に自宅を目指して帰り、床暖房を敷いた車庫の中の犬舎でジッと横たわっていたものだった。それが雪も消え、ポカポカと陽気も暖かくなったら、堤防を歩く距離も長くなり、車庫に入るよりも裏の庭の濡れ縁で太陽を浴びたいと望むようになった。アキもどうやら春の日差しをその背中から腹にかけて浴び、元気を取り戻したいのだろう。健気さを感じさせる。濡れ縁で横たわるアキの姿を見つけて、家の中にいるパピヨンこと「パピー」は「僕も外へ出たいよー」と「アッアッアッ」と夢中で叫んでいる。時には立ち上がって、両手で窓をガタガタと叩き、外にいるアキに「遊んで!」とせがむのだが、アキはいつも知らんぷりを決め込んでスースーと気持ち良さそうに狸寝入りだ。
とにかく雪囲いも取り外した。窓も開け、土曜日から日曜日にかけては初めて春の外気を家に取り入れた。清々しい空気がいっぱい室内に流れ、「春はいいなー」と思わず背を伸ばして空気をいっぱい吸い込んだ。空の色にも優しさが感じられる。夕方には真っ赤な太陽が大きくなって、西山に沈む。ああ。この春よ。もっとゆっくりと時間が流れてほしい。水芭蕉が咲き、カタクリの花が咲き、サクラが咲く。香ばしく輝く春よ。もっとゆっくりと流れてほしい。そう願いながらまどろんだ。
やはり疲れがたまっていたのかもしれない。土曜日も日曜日も目覚めたのは午前7時過ぎだった。窓を開け、カーテンを開けたら朝の日差しがまぶしいほど寝室にさし込んだ。太陽はずーと前から「もう朝なんだよ」と呼びかけていたのだろう。カーテンを開けるとシャワーのような光りがサーッと飛び込んできた。春は朝からワクワクさせる。
「よーし。起きるか」と気合を込めてベッドから立ち上がり、玄関に走って新聞を取り出し目を通す。知事選の取材で先週までは土曜日も日曜日もなかった。とにかく3人の候補者の選挙カーを追い、それをレポートするまでは休日は返上だと思っていたが、やはり疲れがたまった。戦っている候補者はそれどころではないだろうが、土曜日は雪囲いを取り外しながら、知事選で戦っている人たちが気がかりでならなかった。
高校生のころだった。何の選挙戦だったのか思い出せないが、近くのおじいさんが我が家を訪ねてきて、母と何やらやりとりしているのをチラリとかいま見た。果たして何のことかと最初は気にも止めず自分の部屋に閉じこもっていたが、そのうち母の「とんでもないことをしないでタンセ!」と怒りに満ちた声が聞こえてきた。「タンセ」と言うのは、秋田弁で、母は「とんでもないことをしないで下さい」と言っているのだが、「そこを何とか。まず受け取ってけねば俺の顔も立たねーし。何とか受け取ってもらわねば」。二人のやりとりのただごとでなさに思わず障子をガラリと開けたら、そのおじいさんは当時の百円札を数枚手にし、母に強引に渡そうとしていた。
現場を見られたおじいさんはやはり気まずかったのだろう。チラリとこちらに視線を向け、手にしていた百円札をサッと握り潰した。自分は何も言わず囲炉裏のそばに座り込んだ。無言の圧力をかけようと思った。さすがにバツが悪くなったのか、そのおじいさんは背中を丸めて「せばナンシ。せばこのことはなかったことにしてければ・・・」とボツボツつぶやきながら立ち上がって、家を出た。母も心に傷ついたのだろう。おじいさんが立ち去った後もしばらく囲炉裏をジッと見つめたままだったが、「フン。なんぼ貧乏でも選挙の金なんかもらうか」と気丈な啖呵を切って、再び黙々と縫い物にいそしんだ姿を覚えている。
選挙戦。いつの時代でも買収や饗応はつきものだが、人の心を金で買おうとする浅ましさは嫌いだ。選挙こそ自由な心で自分の信頼すべき人を選び、1票を投じるべきだ。今度の知事選ではそうしたこともなく、フェアプレーが行われているものと思う。それにしても今度の知事選、自民党陣営も少し大人気ない。新聞各紙は10日、知事選に対する世論調査の結果を発表したが、その結果は現職が優位で、自民党新人候補がその後を追うと言う結果となった。最終的には15日の投票結果を待たなければならないことだが、世論調査通りの選択が下される可能性もあるだろう。そのアンケート調査が報道されると同時に敗色が濃厚とみた自民党陣営からは「なんだあの記事は。いくら地元から出た知事とはいえ、あんな偏った記事を書いてどうするんだ」。
選挙戦終盤となると運動員は興奮気味となる。特に自民党陣営は勝ち戦の波に乗るとどんな風評が流れても「ワハハハッ」と鷹揚に笑い飛ばすが、一端、敗色が濃くなると感情的になりやすい。負け戦の経験が少ないだけに怒りのやり場を失い、報道された記事に当たり散らしたくなるのだろう。特に今度の知事選のように党の組織を上げて戦いながら、前回に続けての敗戦となるような空気が広がると、記事の内容を鵜の目鷹の目で隅から隅までチェックし、重箱を突っ付くような目で落ち度を探す。
こちらは決して現職の知事が大曲市出身だからといって、それを一方的に応援するような記事を書いた覚えはない。だが、自民党陣営からはどう読んでも偏った記事として、こちらに八つ当たりしたかったのだろう。記事の中に在る「出迎えた人びと」の数字さえもチェックして「我々の追跡調査では記事に出た人数の半分も出てない」とやり玉にあげる。たかが数字だけなのにそれにさえもこだわる。候補者を出迎えた数字が戦いにどう影響するのか。こちらはその数よりも出た人たちの熱気を観察するのだが、当事者はその数字に目くじらを立てて感情を害す。
利口な有権者はどちらの候補者が来ても笑顔で迎えるものだ。笑顔で握手を求めるものだ。ましてや選挙カーが来ると物珍しさも手伝って大勢が集まり、声援を送る。しかし、その大勢がそのまま票になるとは限らない。面従腹背。表面的には「応援してるよ」と笑顔で迎え、腹では舌を出して笑っていることだってある。選挙戦を取材するこちらは候補者のために外へ出てきて握手する人たちの顔、その熱気、表情から票になるかならないか、ムードも読む。自民党の人たちはその勢力を総動員して集めた人、すべてが票になると思っているのだろうか。なら人が好過ぎる。いや。今度の選挙戦、何としても勝ちたい一心で臨んだだけにある意味では策士、策に溺れたのかもしれない。とにかく明日1日がある。記事にあれこれ難癖を付ける前に最後の最後まで自民党さん陣営も頑張って欲しい。
ともかく気ぜわしい選挙戦だったが、これも明日1日を残すだけとなった。こちらはその気ぜわしさから逃れ、9日には田沢湖町へと絵になる風景を求めて取材に出かけた。春の霞(かすみ)で山々は靄(もや)っていた。田沢湖は風もなく、あきらめたような静けさだった。湖畔を歩く若い男女を見つけ、遠くからカメラを向けた。男と女。二人が寄り添うように湖畔を歩く姿はいいものだ。時間がこの二人のためにあるようにさえ思えた。選挙戦の取材に追われ、表紙の写真更新も滞っていたが、湖畔を背景にこの若い二人の遠景をケンニチの表紙に飾ろうとシャッターを何度か切った。春ののどかな午後だった。