こちら編集室「書くと言うこと」(4月27日)

 新聞社には「予定稿」と言うものがある。事前の取材からあらかじめ結果を判断して、「こうなるだろう」と予測して書いておく記事だ。締め切り時間があるため、それに間に合わせるために必要な方法だ。15日に投開票が行われた知事選では、本紙でもその方法を取った。事前に予定稿を書いておいて、開票結果が出たら数字を入れるだけで済むようにして待機した。最終的な開票結果が出るのは午後11時前後と予定されていた。その結果を見てからの原稿では徹夜になってしまう。とにかくテレビでその速報が流れたら、得票数だけを入れてすぐに秋田県南日々新聞の紙面に流せるように準備を整えておいた。

 今回の知事選では事前の取材による感触や新聞各紙の世論調査の結果などから判断して寺田知事当選と判断、その記事を事前に書き上げておいた。

 秋田県民は寺田県政の継続を望んだ?。秋田県政の21世紀初頭への舵取り役を選ぶ県知事選は15日、投票が行われ即日開票された結果、現職の寺田典城氏(60)が○○万○○○○票を獲得、再選された。投票総数は○○万○○○○票で、投票率は○○.○○%だった。自民・公明・保守推薦で新人の村岡兼幸氏(43)が○○万○○○○票、共産党公認で新人の奥井淳二氏(48)は○万○○○○票だった。寺田氏が村岡氏に○○万○○○○票、奥井氏に○○万○○○○票の大差を付けて圧勝した。これで長野、栃木、千葉の知事選に続いて秋田も「無党派」候補が当選したことになり、政党離れへの一層の弾みとなりそうだ。自民党関係者は「秋田は違う」と強がるが、7月の参院選にも少なからずの影響が出ることも考えられ、緊張感が強いられることになりそうだ。

としておいた。

 いつも歩く自宅近くの公園で投票日の朝から自宅でその記事を書き進めた。パソコンをのぞいた妻が「もう寺田さんが勝ったことにしてるの。村岡さんが勝ったらどうするつもり」と半ばからかうように疑問を投げかけた。「その時はその時だ」と開き直ったが、一抹の不安も沸いた。万が一のことも考えて「県知事選、予想外の結果に−。県知事選は15日、投票が行われ即日開票した結果、現職の寺田氏が自民・公明・保守の推薦を受けた新人の村岡氏に敗れると言う大波乱が起きた」と結局、どちらが勝ってもすぐに対応できるよう準備を整えた。

 この予定稿、普段あまり書き慣れてないだけにやっかいだ。しかも書き終えてもどちらかの記事は世に出ないままボツにしなければならないから気持ちも乗らない。そうした時ほど書くのに苦労する。とにかく寺田さんが勝ちと見込んで書いた原稿に比べ、村岡さんの場合は四苦八苦しながらの仕上げだった。結果は寺田さんが村岡さんに22万票以上もの大差を付け、まさに地滑り現象、雪だるま式に票を伸ばして圧勝した。寺田さん優勢とは思っていたが、選挙は怖いものだと言うのが今回の結果を見た率直な感想だ。

 寺田陣営の大曲事務所では投票日当日の午後に訪れると「勝てる自信はある。しかし、勝っても数万票の差、ダブルスコアは無理だろう」と一抹の不安も抱いていた。それが予想をはるかに超えた大差で県民は「寺田さんでいい」と決めたのである。流れとは怖いものである。選挙戦のドラマを見事に県民は演じて見せた。

 それにしても今回の知事選ほどデマが流れた例は余り聞かない。告示と同時に「あの候補者は○○と言う病気になっている」と聞かされ耳を疑ったが、投票日前日には別の候補者の兄が警察に呼ばれ逮捕されたという情報が流れた。その逮捕されたと言う事務所には新聞社からまで問い合わせが入ったが、その場に逮捕されたと言う当事者が居たというからお笑いごとだった。ともあれそれほど今度の知事選では各陣営、お互い負けられないと意気込んだ結果だろう。

 それにしても予定稿を書きながら思った。文章には幾つになっても苦労させられると。会社から新聞記者の肩書をもらい、名刺を与えられ、右も左も分からないまま上司から取材先を指定され、聞いて来るべき内容を教えられ、ノートにメモし、会社に戻って原稿用紙に向かったあの当時、わずか数十行の記事を書くためにどんなに苦労したか。1枚140文字の原稿用紙を机に置き、書いては破り、書いては千切った原稿の屑。「どうしたら先輩たちのようにスラスラと記事を書けるようになるものか」。悩んでは削除し、書き直しては破ったものだった。

 そして先輩記者の書いた新聞記事に目を通し、日刊各紙に目を通し、記事の構成や表現の仕方などを懸命に勉強した。さらに図書館に通っては小説を借り、本屋に走っては「作家論」や「文書読本」などの本を見つけては文章のあり方を学んだ。太宰治、川端康成、井上靖、三島由紀夫、五味川純平、水上勉、司馬遼太郎など多くの作家の本に接した。小説が自分の文章の先生だった。新聞の社会面の記事が教科書だった。言葉、言葉。とにかくスラスラと言葉が泉のように沸いて来るようになりたいと多くの活字に目を通した。

 新聞社だから読者からの文化欄への寄稿も多い。様々な読者が随筆や俳句、短歌を書いては送って来る。それにも目を通し、原稿とゲラ刷りとをチェックし、誤字や脱字、誤植はないかなど校正するのも自分の仕事だった。寄稿して下さる方は年代を重ねた人が多いため、使われている漢字や言い回しは昔の字体や仮名遣いで、それを読み取ることにも苦労した。しかし、それもいい勉強だった。分からない漢字や言葉に出会うと辞書を手に調べ、意味を解釈した。

 先輩記者は「一つのセンテンスの中で同じ言い回し、同じ言葉は使うな」と口癖のように注意したものだった。そして苦労してやっと書き終えた原稿を差し出してチェックしてもらうと赤ペンで次々と削られ、50行ほどの原稿はその半分近くにも減らされたものだった。すごいなーと感動したのは自分の表現力や言い回しの個性は生かしながら、文章を直していく先輩の添削力だった。それは職人技としか思えなかった。そして削除された記事を改めて読み直してみると、文章とは削れば削るほど良くなり、磨かれると言うことだった。鏤刻(るこく)とか鏤骨(るこつ)の文と言う言葉がある。自分の骨を削るような苦心を重ねて書く文章のことだ。その意味が分かったのは新聞記者になって何年目だったろうか。とにかく書き終えた記事は何度でも目を通し、不要な部分は削除し、書き直しを重ねることでやっと生きて来ると分かったものだった。

 表現力でいつも感動を与えてくれた作家は太宰治や川端康成だった。中でも太宰の小説「津軽」は貴重な手本だった。訪れた蟹田で知人から酒と料理、そして言葉での大歓迎を受けた太宰は「私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである」と書いた。津軽の人たちの接待は「ちぎっては投げ、むしっては投げ、取って投げ、果ては自分の命までも」というもてなしだとも表現した。その見事な言い回しに目を見張ったものだった。

 太宰は三厩から龍飛へと続く海岸沿いの路で見た風景を「あたりの風景は何だか異様に凄くなって来た。悽愴とでもいう感じである。それは、もはや、風景でなかった。風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ35丈の華厳の滝にでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが幽かに感じられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟じられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない」。

 この表現には唸った。そして津軽半島最北端の「龍飛」にたどり着いた時の「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて路は全くつきるのである」。

 この文に出会った時は神の手による表現かとさえ思った。その龍飛岬を見たくて冬の津軽半島の旅に出かけたこともあった。海岸沿いの狭い道路は幾つもの洞窟をくぐり抜け、2月の不気味な荒波が岸壁を洗っていた。荒涼とした寂しさだった。宿にたどり着いて食堂で一人酒を飲み始めたら、電気工事のために泊まっている津軽の人たちが自分に声を掛け、一緒に飲み始めた。そして太宰のいう疾風怒濤の如くの津軽の男たちの接待を受け、意外と明るい酒を飲む自分にその電気工の人たちは「なあーんだ。お客さん、結構、笑えるし飲めるんだ。おれたちもそうだけどこの宿のご主人もこんな季節に龍飛に男一人で来たから、もしかすればとみんなで心配してたんだ」と自殺志願者に思われたのをみんなで笑い飛ばしたものだった。

 それにしても幾つになっても太宰や川端のような名文は書けない。文才がないだけにこれも仕方ないが。