「小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成な方がはるかに大きいものであることを忘れてはならないと思う」。石坂洋次郎の「若い人」より。
雲一つない青空だった。日曜日、妻も留守だったので小犬のパピーを連れて横手市の横手公園を歩いた。石坂洋次郎の文学碑があった。小説「青い山脈」などで知られる石坂は1925年(大正15年)に旧横手高女(現横手城南高)、29年(昭和4年)には旧横手中(現横手高)で教鞭をとり、横手市に滞在中の33年(同8年)から37年(同12年)にかけて青春小説「若い人」を発表し、ベストセラーになったという。しかし、その小説の内容が当時の右翼団体からにらまれ、不敬罪と軍人ぶ告罪で告訴されたと言うから当時は作家にとっても随分、窮屈な世の中だったようだ。
育った時代が違ったせいもあるかもしれないが、石坂文学に直接、触れた覚えはない。映画やテレビドラマで「青い山脈」を何度か見た程度である。「恋しい、恋しい」と書くべきラブレターを「変しい、変しい」と書いて女学生に出したのが先生に見つかり、職員室で大騒ぎになるシーンだけがなぜか覚えている。当時は学生がラブレターを出すだけでも不良行為だと騒ぎになったようだ。電子メールが普及し、見知らぬ男女が自由にメールを交換し、出会い、交際を深めるようになった現代からみると可笑しくて、悲しい時代だと言えよう。
公園はくぬぎやケヤキ、モミジが新緑の真っ盛りでまばゆいばかりだった。家の中しか知らないパピーは本当に久しぶりに外に出してもらったせいか、見るもの触れるものすべてが珍しいようで耳をそばだて、キョロキョロとあっちに目をやりこっちに目をやり、人の姿を見つけては両足で立ち上がって愛嬌をふるった。
横手公園を歩くのは本当に久しぶりだった。ましてや一人で訪れるなんてこのかた思いも寄らなかったことだ。一人で公園を歩くのは寂しいし、わびしい。しかし、小犬のパピーと歩く公園の道は不思議に楽しいものだった。柴犬のアキとはこうはいかない。アキの場合、人嫌いするせいか以前に妻と共にこの公園に連れてきてお弁当を開いていたら、人影を見ただけで「ウォーン、ウォーン」とけたたましい声で吠え出した。自分たち家族を守ろうとアキはアキなりの愛情を示しての威嚇だが、恥ずかしい思いをしたものだった。それだけでなくアキの場合、見知らぬ土地に行くとなぜか落ち着かず、オロオロしては帰ろう帰ろうとばかりに紐をグイグイと引っ張る。そんなことからアキを連れての人ごみの多い公園の散歩は避ける事にしていた。
とにかく家で一人でぼんやり過ごしているよりも折角の青空だ、外をブラブラしてみようと横手公園を訪れた。公園は新緑も美しかったが、ツツジが今盛りで赤や黄色、白が競うように咲き誇っていた。ツツジを愛で、木々の新緑を楽しみ、パピーと共に歩いた。横手市で暮らした石坂洋次郎の文学碑が公園内にあるのは前から知っていた。しかし、その碑文に興味を持った事はなかった。読んでみると中々、味わい深いものがあり、石坂文学の底の深さを初めて知った。
「小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成な方がはるかに大きいものであることを忘れてはならないと思う」。
胸にジーンと来る含蓄のある一文だった。確かに長い人生は小さな完成で満足しているよりも、未完成でもいい、その未完成の中に孕んでいる可能性こそ大きいかもしれない。その通りだと思った。人の一生にとっての小さな完成とは苦労して大学に入るのも一つだろうし、難しい試験にパスして優良企業に就職するのも小さな完成だろう。あるいは結婚して家庭を設けるのも小さな完成の一つかもしれない。平サラリーマンなら係長、課長、部長と階段を一つひとつ登っていくのも小さな完成だろうし、極端な事を言えばノーベル賞ものの発明でさえ小さな完成に過ぎないかもしれない。人間が完成すると言うのは死を迎えた時の一瞬ではないかとどなたかに聞いたような覚えがある。
確かそう言ったのは若くして父を失った仲良しの記者の話だったような気がする。一緒にお酒を飲みながら人生論を聞かされ、「俺はね。伊藤君。親父を大学生の時に失ったけど、父の死に顔を見た時、『ああ。親父はこれで人間というものを完成させたんだ』とそう思ったものだった。会社を経営していた親父は羽振りも良かったが、いつも眉間にしわを寄せ、どこかに苦悩や寂しさを隠しているのを感じられたものだった。ところが死んだ時のあの穏やかな顔を見たら、生前の苦悩なんて微塵も感じさせないんだ。親父はこれで人生を完成させて満足して死んだんだなと。そう思ったものだよ」。
杯を交わしながらしみじみとした口調でその人は語ったものだった。実際、自分も父の死に出会った時、父の死に顔の穏やかさを見てホッとしたのを覚えている。病気による苦痛も、死への恐れもかき消した穏やかで静かに眠っているような顔だった。その後、十数年して妻の父の死も迎えたが、軍人上がりの厳粛さを持っていた義父の死に顔もとても穏やかで優しさと気品に包まれていた。義父は死を自分で意識していたのか、体が弱っていたにも関わらず死ぬ数日前に馴染みの理容店に出かけ、こざっぱりと散髪までしていた。
そして死の前日には見舞いに来ていた兄弟、いとこ、子どもたち一人ひとりを順番に枕元に呼び、「今日はみんなに会えて良かった。我が人生で最良の日だよ」と笑顔さえ見せたものだった。厳粛さの中にも温かみのある人で、心から尊敬できた義父だった。代々、続いた古い家系で、村の名士として親しまれた人だった。その死からもう7回忌を迎える事になる。今月26日には内輪だけの仏事を済ませたいと妻の実家からお誘いを受けている。喜んで義父の生前を偲びたいと思っている。
横手公園をしばらく歩いてからもう少しドライブを続けてみようと国道107号線に入り、岩手県湯田町を目指した。5月の青空はどこまでも澄んでいた。ぶどう畑、リンゴ畑が国道脇に広がる。山々は新緑で萌え、気持ちのいい風景がどこまでも続いた。「小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成な方がはるかに大きい」。石坂の言葉を思い返していた。秋田県南日々新聞がスタートした96年12月1日はそれこそ小さな完成だった。しかもとても不安で、孤独な完成だった。あれからもう5年になろうとしている。小さな完成は未だに大きくもなれず小さな完成のままとなっている。しかし、多くの読者とスポンサーによる温かい支援を受けている。ケンニチとして親しまれているインターネット新聞の小さな完成は、別な見方をすれば未完成である。小さな完成に満足することなく、未完成の中に孕んでいるものを見つけ、育みたい。
山内村、そしていくつかのトンネルを抜けて岩手県湯田町に入った。駅舎は木造の二階建てで温泉付きと言うユニークな建物に変わっていた。湯田は温泉の町でもある。その個性を駅舎で表したものだろう。昔はそれこそマッチ箱のような小さな駅舎だった。そしてその駅舎の前に正岡子規の句碑があったはずである。今も在るだろうか。それはすぐに見つかった。
「秋風や人あらはなる山の宿」。
子規は明治26年(1893年)7月から1カ月がかりで芭蕉の「奥の細道」を慕って東北へと旅立った。酒田から象潟に入り、さらに秋田へ向かい、秋田から大曲、六郷町をたどり、岩手県湯田へと向かう。六郷町の黒森山の険しい峠道をあえぎあえぎ登った子規は
蜻蛉(とんぼう)を相手にのぼる峠かな
との歌を残している。六郷より岩手への旅は苦難の旅だったろう。「あやしき伏家にようよう午餉(ひるげ)したためて山を登ること一里余 樵夫(きこり)歌 馬の嘶き(いななき) 遙かの麓になりて巓(いただき)に達す。神宮寺大曲を中にして一望の平野眼の下にあり。
蜻蛉を相手にのぼる峠かな
山腹に沿うて行くに四方山高くして一軒の藁屋だに見えず。処々に数百の牛のむれをちらして2人3人の牛飼を見るは夕日も傾くにいづくに帰るらんと覚束なし」。
山腹に沿って岩手に入ったが、四方は山ばかり。その上、一軒の藁屋(家)さえも見えない。夕方が近づいて牛飼いたちも家に帰ろうとしているが、その姿さえも覚束なく見えると記した子規。疲労困憊。ようようの思いで湯田に入った子規はどんなにホッとしたことだろうか。
秋風や人あらはなる山の宿
湯田駅に立つ正岡子規の句碑に目を落としながら、旅の郷愁を味わった。久しぶりのドライブだった。パピーはどこへ行っても嬉しいらしく目をキョロキョロさせてはピョンピョンとチョウが飛ぶように歩いた。パピーと二人の春の小さな旅だった。