我が家の庭の片隅に育つ「ミヤコワスレ」が芽を膨らまし、淡い紫色の花が咲き出した。「都忘れ」とも書き、その悲しみを秘めた名の響き、そしてあどけなく可憐でありながら、どこか寂しげな花の姿が愛しく、この花が咲くころになると出勤を前にした朝の忙しい時間帯でもふと足を止めて眺めてしまう。その花を愛でているうちになぜか、ミヤコワスレについてもう少し知識を深めたいと思った。広辞苑で調べたら「ミヤマヨメナの園芸品種」とあった。ただそれだけの説明である。何と味気なく、不親切な解説かと思い、さらにミヤマヨメナで検索したら「深山嫁菜」と言う意味深い漢字が使われ、「キク科の多年草。山地に自生。茎は高さ約30センチメートル。晩春から夏、ヨメナに似た淡紫色か白色の頭花をつける。園芸品種にミヤコワスレがある」とあった。これだけである。無味乾燥な説明で、感情も何もない。辞典だから仕方ないだろうが、堂々巡りで、取りつく島もないと辞書を閉じた。
深山嫁菜・・・。当て字だろうが、この漢字が気になって仕方ない。もっとミヤコワスレを知りたい。この可憐で、どこか寂しく、愛しい花に物語を付けてやることはできないか。そう思い詰めた。深山=深い山に咲く花とここまではまあ想像が付いた。だが嫁菜とは何か。お嫁さんのように清楚で可愛いと言う意味から付いた名なのか。その解釈も正しいかもしれない。山奥の野にひっそりと咲く野菊のように清楚な花。汚(けが)れを知らぬ新妻のようなたおやかさ。手弱女(たおやめ)のイメージからか。とにかく小さな庭に咲き出したミヤコワスレをもっと知りたいと図書館に走った。
手にした「野に咲く草花図鑑」にそのヨメナがあった。その説明が奮ってる。ただし男性の立場から読めば面白いのだが、女性の目から読んだら「これってセクハラじゃないの?」と腹立たしくなるかもしれない。「春の若草の代表として、摘み草の時には必ず摘み取られる運命にあり、秋が来ると今度は花が咲いて、また美しい野菊の如き君になる。若くしてみずみずしいうちは、皆にもてはやされ、もっともおいしい野の草としてヨメナと名付けられた」とある。なるほど花の姿は新妻のように可憐で可愛いし、食べても菜のようにおいしいことから付いた名のようだ。と納得はしたが、次の説明の下りを読んでいて「オイオイ、そこまで書いていいのか」とハラハラした。こうである。
「しかし夏を迎えると、もう堅くて煮ても焼いても食えぬとばかり見向きもされなくなるのは、あまりにも人生に似ていていろいろと考えさせられる。女の人は、家に入ると嫁になり、鼻につくと嬶(かかあ)となるが、何とそっくりな運命をたどることであろう。そう考えてくると『野菊の墓』というあの純愛物語も、いろいろ想像をたくましくして見ることができて、なかなか味が出てくることだろう」と締めくくっている。
読ませる文章にしたい。きっとこの本の著者はそう思って、サービス精神を発揮したのだろう。だが、表現が気になった。これでは「女は年を取ると煮ても焼いても食えぬ存在となり、家にいては鼻に付くばかりだ」とでも理解したくなる。ミヤコワスレを調べるためにお世話になった本に難癖を付ける気持ちは毛頭ないが、読んでいてこの本の作者は女性に恨みでもあるのかなんて横道に逸れてしまった。
女偏に鼻が付いて嬶(かかあ)と読むこの漢字も、そしてその言葉の響きも嫌いで、一度も口にしたことはなかった。フェミニストを自負するつもりはない。ただ子供のころ、男たちが我が家に集まり、酒が入ると「うちの嬶は・・・」と連発するのを聞いて、その言葉の響きがとても嫌だったのである。どちらかと言うと母の尻の下に敷かれ気味だった父も、嬶と言う言葉を発した事はなかった。父と母とが若いころはお互いどんな呼び方をしたのかは記憶にないが、ものごころ付いてからの記憶では父が母を呼ぶ時はいつも「ばっちゃ」だった。母も父を呼ぶ時は「じっちゃ」だった。その響きには優しさがこもっていた。一家団欒の幸せがこもっていた。
魚屋という商売だったせいか、自分の幼いころは我が家にはいろんな人が出入りし、時には朝からちびりちびりとコップ酒を楽しむ人もいた。どちらかと言うと酒に弱かった父はただお付き合いするだけだったが、そうした朝酒をやる人に限って「うちの嬶は」を連発する人が多かった。その言葉の響きには自分の母への非難も含まれているようで嫌だった。
自分が生れたのは昭和22年。ものごころが着いて遊び始めたころ、人びとはまだ戦後の空気を引きずっていた。そうした世相を背景に幼少時代を過ごした。商売で来る人たちの気性も今の人たちに比べると荒かった。同じ世間話でもその意味も分からず、聞いているこちらはまるでケンカ越しのやりとりにしか思えなかった。空襲を逃れて東京から疎開して、そのまま居ついた人も出入りしていた。朝鮮の人たちも顔を出していた。いろんな言葉と方言、それに当時、蔑視的に表現された“東京弁”、さらには朝鮮訛りの強い言葉が幼いころから耳に入り、小学校に入ると自分の会話は秋田弁であっても、秋田弁ではなくなっていた。中学に入ると先生から「マサオ。お前、何いいふりこいてる」と言葉のアクセントの違いで嫌みを言われたこともあった。
とにかく男たちが集まり、酒が入ると口にする「カカア」と言う言葉とその響きが嫌いだった。それだけに父の口からそうした言葉が出なかったのは子供心にも嬉しかった。魚屋と言う商売をいつ廃業したのかは記憶にない。おそらく、家業を継ごうとした長男夫婦が家を飛び出したのが切っ掛けだったのかもしれない。中学、高校へと進んだころは父は自転車での行商に切り換えていた。その一日の商売を終え、家に帰ると飄々(ひょうひょう)とした表情で母を目で探し、姿が見えないと「マア。ばっちゃはどこさいったんだ」と行き先を心配したものだった。母は父を頼り、父は母を頼った晩年だった。そうした思いやりはおそらく、苦労しながらも長男が残した商売上の負債を払いきり、やっと老後の不安がおぼろげながらもなくなった安堵感から来たものだろう。
小さな庭に咲いたミヤコワスレの花を調べようとしたのが切っ掛けで「嬶」と言う漢字と出会った。これも不思議な縁であろう。花の季節は続いている。堤防を歩くと桐の木が釣り鐘状の小さな花を咲かせている。これは淡い紫の花だ。いろんな花の色の中で、紫色ほど上品で美しいものはないように思える。桐の花の紫は遠く離れても目にあざとく入って来る。目立つ色だなと思ったりする。
このごろ色の表現がうまく言葉にならず本屋に行ってカラー見本の本がないかと探してみた。色に関していろんな本はあったがいずれもデザイナー用だったりで、単なる色見本の本はなかった。このカラー。記事を書く上で時には欠かせないものとなる。特に女性の服装を表現する場合などは「淡いピンク色のスーツを着た○○子さんはほほえみながらこちらが発しようとした次の言葉を待った」などと書く時、そのカラーをどう表現するかは記者のセンスが問われるからだ。そのカラー表現がこのごろ思わしくない。花を見ても赤いツツジには間違いはないが、単なる赤ではない。赤にピンクが交じったような色であったりする。黄色いツツジの花も黄色と言うより橙色に近いような色だったりする。それをどう表現すべきか。公園に咲くツツジの花や堤防で見かける野の花を見て、その色の表現に悩むこのごろだ。
ここまで書いて思い出した。高校時代だった。学校で「わらび座」団員によるバイオリンとチェロだったろうか。とにかくクラシックの演奏会があった。その時の若い女性演奏家が着ていた服装はフワフワとした広がりを持った袖のある真っ白なブラウスに目も覚めるような紺色のロングスカートだった。腰まで伸びた長い黒髪。そして白と紺の服装の組み合わせ。その美しさに目を奪われ、音がどんなに良かったのか、演奏がどんなに素晴らしかったのかははまるで頭に残らず、「大きくなってお嫁さんを貰うんだったら、あのような服装が似合う女の人でなければ」と思い込んだものだ。
とにかくミヤコワスレの淡い紫の花は好きだ。鎌倉時代、当時の後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと起こしたのが承久の乱(1221年)である。結局は公家勢力は敗れ、武家社会の台頭を許す結果となったのだが、都を追われ佐渡へ流された順徳院がこの花を見つけ心のなぐさめとし、都への思いを断ち切ったことから「都忘れ」との名が付いたという伝説もある。
都忘れのどこか寂しげな花の姿は恋に似ている。
さよならとあなたは言った。「また来るよ」とも言った。
あの日からもう3年。あなたはもう私のことなど忘れてしまったのでしょうね。
庭に咲いている都忘れの花を見つめてます。
あなたの言ったサヨナラの声はこの都忘れの花のように悲しい響きでした。
「また来るよ」とさりげなく言ったあなたの言葉。信じたかったし、信じた。
庭に咲いている都忘れは今、私の涙でうるみ、ぼんやりとしか見えません。
今日は泣こうと思ってます。この花の前で泣いて、すすり泣いて、
そしてあなたを忘れます。
今までは涙を我慢しました。でもこらえるのもうをやめます。泣いて、そして少し
成長して、新しい私になります。紫の花は悲しい。都忘れの花は私の恋の思い出。
こんな拙い詩を書いて都忘れの咲く初夏を迎えている。ツバメが飛ぶ初夏。カッコウがさえずる初夏。青空が美しい5月もあと残すところも少しだ。