さて、前稿まではネガティブな内容ばかりが網羅され、日本はもはや沈没するしかないとの印象を読者に与えてしまったとすれば、筆者のいたらなさであり、恥じ入るところである。もちろん悲観論ばかり流すのは、本論考の意図するところではない。
問題が深刻かつ複雑であればあるほど、それに立ち向かう人々の勇気とアイディアを生み出すエネルギーも増大する、と筆者は信じている。それにはまず、すべての日本人が21世紀最初のディケイド(10年間)を「ライフスタイル・チェンジング期間」と位置付けて、お互いに知恵を交換し、生活すべてに見直しをかけるという‘勇気’を持つことが必要になろう。溢れかえるモノに踊らされ、ひたすら利便性を追求してきた20世紀後半の暮らしや行動様式を検討し直し、自然と共存する等身大の生活とは何か考え実践してみようという趣旨である。
ただその結果、今の暮らしのレベルや利便性を少々犠牲にせざるを得なくなるかもしれない。ある者は今の仕事や地位を失う可能性もある。利権や既得権にぶら下がっている勢力からは反発も予想される。しかしその「痛み」「不便」「反発」を前に手をこまねいていたら、状況は間違いなく悪化する。「手術が痛いから盲腸は切らない」と放っていたら、病状が悪化して命取りになるのと同じこと。今は痛いが、その痛みを乗り越えたらまた健康な身体に戻れるのである。それも早い段階のうちに手術したら、痛む期間も短くなるだろう。しかしそのとき、ある一部分、特に社会的弱者だけが痛みを被ったら「不公平」とのそしりを免れないし、支持も得られない。社会を構成する全員がその‘体力’‘地位’‘立場’に応じて応分の痛みを分かち合うという原則を打ちたてるべきであろう。
そしてまた、改革はスピードが勝負になる。利益調整型、足して2で割る手法、審議会に諮って云々というやり方は、時間がかかる上に玉虫色のドクにもクスリにもならない結論が出やすく、もはや切羽詰まった状況では、その効力は徐々に失われている。長野県知事・田中康夫が県幹部に名刺を折られるという手荒い出迎えを受けたのち、この1年弱の間に矢継ぎ早に改革を打ち出している。あの「脱ダム宣言」に反対だった中央官庁から出向していた当時の土木部長をただちに更迭するという一件で、自らの意図を貫徹する姿勢を見せたのが彼の真骨頂だった。変化のスピードについて行けない官僚、県議会こそ、急速な意識改革が必要なのだが…田中に対しては「パフォーマンス優先」「目立ちたがり屋」果ては「ヒトラーばりの独裁者(保守系長野県議の発言)」という過激なものまで、批判する側からさまざまな反発や罵詈雑言が渦巻いている。だが改革を実行していく者に、多少強力なリーダーシップ(言いかえれば強引さ)を我々は認めなければならない。それなしでは改革は出来ないし、その結果判断は、次の選挙で下せばいいからである。そしてそういった中に「よそ者が何をする」という声もあると聞く。しかし、その「強引さ」を納得させる条件として、「よそ者、変わり者がやったのだからしょうがない」と思わせる(あるいはあきらめさせる)ことも、実は大事ではないだろうか。
総理大臣・小泉純一郎はじめ、東京都知事・石原慎太郎、高知県知事・橋本大二郎、宮城県知事・浅野史郎、前述の田中康夫、日産社長・カルロス・ゴーン・・変革の最先端に立っているのは、いずれも変わり者かよそ者ばかり(失礼!)である。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、坂本竜馬、西郷隆盛、Dマッカーサー…変革の時代にあって活躍するのは例外なく、既存の権力や権益、しがらみ、価値観から離れた「変わり者」「よそ者」であった歴史的事実を我々は思い起こしたい。
この原稿をものにしている間に、ハンセン病訴訟で患者側が勝った判決を国は受け入れるという判断を小泉純一郎首相が、国のトップの責任で行った。官僚や自民党内から相当の反発があったことは想像に難くない。しかし考えてみれば、世論やこれまで患者が受けてきた想像を絶する苦しみ・辛酸を思えば、国のトップとして当然の決断を下したまでであって、高い評価を与えるというほどのことだったのかどうかは議論の余地があるように思える。それまでの総理大臣の決定権、リーダーシップがいかに脆(ぜい)弱なものであったかを、逆に浮き彫りにする一件でもあった。
人気俳優東山紀之、浅野温子が出演する「平成夫婦茶碗」というTVドラマが、あった。貧乏家族が、力を合わせて苦難を乗り越えていく物語であったが、これが、おもしろいヒントを与えてくれた。お金が無くても、今あるもの、あるいは安価で手に入れたものをアイディア豊かに使えば、立派に生活ができるというコンセンプトは、示唆に富むものがあった。最近流行のリサイクル店とフリーマーケットは、モノがあふれかえる中での一つの「アンチテーゼ」ではないだろうか。そしてまた家族の絆が社会生活の基礎にあることも、あらためて教えてくれた。
例えば、イギリスでは築後100年200年経った家は珍しくなく、みんな手入れをしながら長く住み続けている。ガーデニングをこよなく愛し、都市生活を送った勤労者は、引退後田舎に移り住んで年金の範囲で悠悠自適の生活を送る。イギリス人の家庭に行ってみると、その調度品は長く使われている、いや使い込まれているものが多く、最新式のTVやAV製品が置かれているところなど稀であることがわかるであろう。車だって年式の古いやつが、今にもネを上げそうな音を立てながら平気で走っている。物質的な豊かさをいたずらに追い求めない反面、クッキーを食しながら飲むアフターヌーン・ティー、仕事の後で政治やスポーツ論議に花を咲かせながら飲むパブでの一杯を、何より大事にしている。イギリス人は、自然と調和した等身大の生活を送っているかのようで、「モノより心の豊さ」を人生第一の優先課題にしているように見える。
どうしても新幹線が通らなければ豊かにならないのだろうか。高速道路が出来なければ「交通が不便」となってしまうのだろうか。東京に直行する空港はすべての県に必要なのだろうか。鉄筋コンクリートの「何とか会館」がなければ、地域興しにならないのだろうか。隣りの町が造ったからオラの町でもなければならないのだろうか。あらゆる人々、自治体が横並びして‘ウチも欲しい病’に感染し、実情にそぐわない、コストに見合わないものが次々と造られた歴史を、再度思い起こしていただきたい。1000人収容のホールが無くても、500人収容の今の施設で二回やれば同じこと。「なくてもなる」「今の範囲でできる」ことはもっとあるはずである。
アメリカ合衆国大統領J・Fケネディー(故人)は1960年の就任演説で、「国家が諸君に何をしてくれるのか問うのではなく、諸君が国家に何ができるのか(自らに)問うてほしい」と重い課題を投げかけた。「国家」も「自治体」も、そして私たちが生命を授けられ管理を任されている「地球」も危機におちいっている今こそ、この課題に応えるべく、勇気をもって「痛み」を分かち合う生活を選択したいと思う。
※文中敬称略
酒井隼男さんの略歴= 1958年岩手県出身。岩手県のローカル紙やタクシー業界紙の記者を経て、現在、旅行代理店に勤務しながらフリーランス活動。