こちら編集室「ヒット数50万と季節の変化」(6月8日)

 身体からはもう手放せなくなっている携帯電話を何気なく開いたら画面の隅を飾っている小さな絵は5月の「鯉のぼり」からカタツムリに雨が降っている画像に変わっていた。もう梅雨の季節に入っているんだなと季節の微妙な変化を、草木の移ろいよりもいち早く携帯電話と言うハードに教えられてしまった。季節の移り変わりを機械から教えられるようになっては人間の五感もお終いだ。自分の感覚を大事にしたいと柴犬のアキと歩く時は堤防の草花の表情の変化に注意し、空を行く雲の流れにも気を付けている。雑草の中に咲いたマーガレッは年ごろの娘たちのような明るさで相変わらず白く笑っているし、アカシアの花はその季節も終わって、すべての花びらを地面に振るい落とし、周囲を乳白色に染めている。

 雨の朝、視線を落としたら小さな本当に小さなカタツムリが堤防の上をゆっくりとしたスピードで横断しようとしていた。小指ほどの小さなカタツムリである。この小さな生命さえも堤防を横断し、新しい水、新しい棲息の場を求めているのだろうか。見ていてもいらだつ様な移動の鈍(のろ)さである。堤防はアキが歩き、車が走り、そして中学生たちの通学路にもなっている。そのままにしておいては小さな生命はひとたまりもあるまい。放っても置けず、片手でひょいっと手にし、マーガレットと雑草の群がる中にそっと置いた。「道路に出たら車にひかれるか、人に踏まれるだけだよ。冒険しないで、自分のすみかを大事にしナ」。

 小さな命でも大事にしてあげたい。このごろ、小さな動物、小さな草花、そして朝の光りと風を受けて銀色に輝く木々の葉にさえも感動する。注視したいと思う。余り関心を持たなかった小さな命、小さな生き物がこのごろ愛しい。草花の表情、葉っぱの一枚いちまいの違いにも新しい発見につながったような感動を覚えたりする。心境の変化とでも言おうか。こうした兆しが自分の心に芽生えたのは5月初めの病気からだった。病気そのものは自分でも余り深刻に捉えなかったが、目に映るもの目に入るもの、すべてを大事にしたい。そんな気持ちがあの日から強くなった。

 いつも歩く横手川堤防に架かる橋高校を卒業して新聞社に就職して一番後悔したのは高校時代に学んだ教科書、中学生時代から保存していた教科書のすべてを「焚書(ふんしょ)抗儒」のごとくゴミに捨てたことだった。教科書に怨みがあったわけではない。ただ単にこれで学校とはおさらばだ。やっかいな数学も化学も、物理も、英語も、歴史も、古典もすべておさらばだ。とにかく学校という時間に縛られていたすべてから解放された喜びが、教科書を投げ捨てようとさせた衝動に走らせたのかもしれない。

 その失敗に気づいたのは新聞記者になってからだった。吹奏楽の演奏など音楽会の取材に行くと楽器の名が分からない。トランペットやバイオリン、トロンボーン、チェロなど常識的な楽器の名は分かるが、オーケストラに登場する諸々の楽器となるとその名前が分からないのに閉口した。楽器だけではない。専門用語が浮かんで来ないため取材相手を前にしても聞きようがなく、「ああ。この人は音楽に関しては何も分からないんだ」と自らの無知をさらけ出し、恥を売るだけだったのである。国語、歴史の教科書でも捨てたのが悔やまれる思いを何度もしたものだった。元軍人の取材でも、俳人やお坊さんの取材でもある程度の歴史の知識やその裏付けがないといい取材にはならない。

 高校の授業中、教師は良く「授業をさぼること、勉強を怠ることは君たちの勝手だが、いずれ後悔することになるよ。俺だってこんな年代になってから若い時になぜもっと勉強しておかなかったんだろうと思うことがいっぱいなんだから」と手にしていた教科書を脇に置いて、しみじみとした口調で説教したものだった。当時は聞く耳を持たず、「こんな勉強のどこが役に立つんだ」と教師の言う説教も鼻で笑っていた。しかし、社会人になってから高校時代の教師の言った言葉の意味がようやく分かったものだった。

 どんな取材でもある程度の予備知識を持ってないと相手から話の聞きようがない。数学が絡み、化学が絡み、古典文学が絡み、歴史が絡む。農業の専門家をはじめ政治家、めったにないが芸能人、そして時にはお茶の先生、生け花の先生、踊りの先生、お医者さんとも会わなければならなかった。長い取材経験の間には音楽家の取材もあったし、元陸軍大尉とか海軍の将官との出会いもあった。田沢湖町の駒ヶ岳が爆発し、その取材のため火山学者の後を追ったこともあった。後を追っても質問のしようがない。ただ相手の話す言葉を聞き漏らすまいと必死になってメモを録っただけである。この時の取材では火山だけでなく、爆発によって死に絶える運命にさらされた高山植物の名前も覚えなければならず、必死になって登山家からその草花の名前とどれだけ貴重な植物なのかも教えられたものだった。

 とにかく取材というものには化学知識が伴い、歴史が伴い、生物学さえも伴った。時には文学、古典も伴い、仏教も伴った。そして俳句、短歌の知識も求められた。無知な面や話題不足を何とか補おうと小説で戦争の知識を深め、親鸞や法然、最澄など仏教の世界にも首を突っ込んだ。しかし、小説から得る知識は学問ではない。付け刃のようなごまかしであった。ふり返れば余りいい記事を書けなかったのは高校時代のさぼりが最後まで緒を引いているせいかもしれない。このごろ、反省しきりである。

 自分の病気をささやかと例えたら一生懸命治療にあたって下さったお医者さんに叱られそうだが、とにかく5月初旬に体験したささやかな胃の病気のおかげでこのごろ美に対する意識が少しずつ変わった。雑草の群れを見ても、朝の光りの具合によっては日本画家・東山魁夷の屏風絵のように「わび」や「さび」を感じ、見とれてしまうことさえある。雨に濡れた雑草の姿も心の変化で一幅の絵のようにさえ見える。晴れた日の夕方には東山から昇ってくる白い月に感動し、西山を赤く染める夕日に密かに涙するのである。花鳥風月に心動かされ、月と太陽との入れ違いの宇宙のドラマに大きなため息をついている。

 アキと共に歩く堤防は葦(よし)の海原にもなっている。その葦の茎や葉を生活の場としているのだろう。ヨシキリたちの鳴き声が毎日、かまびすしい。ギョギョシ、ギョギョッシ。そんな声で鳴いている。このヨシキリの声もアキと歩く散歩道に変化を付けて楽しませる。子どものころ、その鳥の卵を採ろうと兄とその友だちの後を追って葦の原に入ったことがある。深い葦の原は海のようでもあった。カサカサと葉擦れの音を聞きながら卵を探し求めたものだった。

 狙いはその卵をふ化し、育てようとしたものだった。しかし、卵を採るどころか、葦の葉の鋭い切っ先に触れて手の指を切ってしまった。激しい出血に自分でも驚き、大きな声で叫んだ。兄たちがあわてて駆け寄ってきた。血が流れる指を抑え、その手を握ったまま兄は大急ぎで自宅まで連れ帰った。母が血相を変えて駆けつけ「マア。何したんだ」と絶叫した。血が流れでる指を消毒し、包帯をグルグルと巻き、「そんな所には絶対に入るもんでない」と叱られた。母の叱り方は実際に怒っていてもどこかに優しさがあった。いたわりがあった。ガラガラした声だったが、母に叱られるのはどこか嬉しさもあった。それは甘えられる嬉しさだった。

 素朴で飾りっ気のない愛情を母と父は自分に注いだ。今、思えば子どものころの葦の葉の群れの中をさまよって指を切ったのも、高校をさぼったのも、恋に破れたのも、みんな自分の肥やしになった。恋で思い出した。高校時代、初めてのデートを父に告げたら「そこの村の娘さんはみんな裕福な農家ばかりの子だ。お前に恥をかけさせられないからな」と当時にしては大きな金額の小遣いを貰ったものだった。父が息子の初めてのデートをそうやって祝福したのだ。そのお金を手にしながら初恋の人と約束のバスの中で出会い、大曲の街を誇らしげに歩いたのだが、何を話したらいいのか分からないまま時を過ごし、そのまま嫌われてしまった。

 その失恋で得た打撃は大きかったが、その代わりノートの中に自分の好きな人を創り出し、その人に向かって毎日の出来事や心境などを手紙形式で書いて時間をつぶすことも覚えた。空想で描いた好きな人の名は「k」だった。「kへ。僕は今日、君に誓いたいことがある。学校で職場実習があり、バスで岩手県湯田町へと向かった。実習は湯田町にある大きな工場視察だったが、君に知らせたいと思ったのはバスの中から眺めた風景の美しさだった。ダムが造られて生れたと言う錦秋湖は壮大で見事な美しさだった。その湖を眺めながら、僕は誓った。大人になったら君をきっとここに連れてきたい。この湖を一緒に眺め、君と希望を語り合いたい」。

 毎日毎日、このようなつぶやきをノートに書き込み、自分だけの想い人に心境を綴ったものだった。ある意味で孤独な青春時代でもあった。青春とはそうしたものだろう。岸辺で平らな石ころを拾い、流れる川に投げる。水面を何度ジャンプするのか。石ころは銀色の水しぶきを上げてジャンプし、水の底に沈んだ。それを夕方まで繰り返し、虚しく家路に着いた高校時代だった。

 とここまで書いたのが昨日までだった。そして今日。秋田県南日々新聞はついに50万のアクセス数を記録した。96年12月1日にスタートしたインターネット新聞。98年6月26日には待望の10万ヒットを記録し、そして次は50万をメモリアルカウントとしていた。一口に50万とは言うが、一人で運営している新聞としては「よくぞ」と言う達成感に浸っている。これも読者の支援のおかげであり、ここまで継続できたのもスポンサーからの経済的な支援があったおかげだ。ありがとう。そして50万を射止めた阿部拓也さん、おめでとう。早速、記念品をお送りしたいと思います。

 それにしても今日はてんてこ舞いの1日だった。千畑町での死亡事故の取材のため現場に走り、その原稿を書いた。今朝の段階では亡くなったのは少年1人で、運転していた少年と同乗者の3人は重態だった。とにかく事故の記事をケンニチに突っ込み、市議会の取材に走り、さらに雄物川河川敷での「水防訓練」の取材に行き、議会の記事を書いていたら千畑町での事故で女子高生も死亡との一報が入ってきた。最初の記事を全面的に書き直し、議会の記事、さらには夕べの寺田知事の原稿を打って今日のケンニチを仕上げた。

 ともかく6月8日、本紙はヒット数50万を記録した。記念すべき日となった。明日から「インターネット新聞のあり方で話し合いたい」と3月に生れた大館市のインターネット新聞「あきた北新聞」から話があり、十和田湖へ一泊の旅となる。話し合いは話し合いとして久しぶりに十和田湖の初夏を楽しみたいと思っている。