十和田湖は初夏の霞の中で静かな湖面をたたずませていた。発荷峠から眺める十和田湖も、湖畔から眺める十和田湖もひっそりとした孤独な美しさで、見るものの心を捉えて離さなかった。それにしてもやはり北国である。県南ではもう深い緑になっているというのに十和田湖とその周辺はまだ、どこまでもどこまでも目に優しい青葉の季節で、アカシアの花、トチノキの花が盛りだった。車を走らせながら、こんなにも新鮮な青葉のシャワーを浴びたのは何年ぶりだろうと感激した。奥入瀬の流れも緑一色だった。十和田湖を周遊する道路も若葉の緑一色に染まっていた。妻は「アッ。ここで停めて」と何度も感嘆の声を挙げては車から飛び下り、盛んに写真を撮っていた。もちろんこちらも同じ場所でデジタルカメラのシャッターを切った。
十和田湖への旅となったのは3月に誕生した「あきた北新聞」の齋藤武さん(大館市)との出会いが切っ掛けだった。齋藤さんは先月27日に「秋田県南日々新聞」がなぜあれほど驚異的なアクセス数の伸びとなったのか、そのノウハウを伺いたいと大曲市を訪ねて来た。齋藤さんもインターネット新聞への期待の可能性と夢を抱いてホームページを立ち上げた。やはり自分と同じように大館市の地方紙の記者も経験している。そこを退職後は音楽をプロデュースする会社を経営しているようだが、新聞への愛着は捨てきれず、インターネットで新聞をやってみようと「あきた北新聞」をスタートさせた。
その齋藤さんは大曲に来た時にこう述べた。「やはり金喰い虫です。インターネット新聞は」と。いわば利益にはつながらずお金ばかりかかる新聞だとぼやいたのである。「後を追うものとして伊藤さんの5年間の実績は大きい。5年も前にインターネット新聞を、しかも国内で最初に取り組んだと言うその先見の目とこれまで継続してきた力はどうしたって追いつけない。ネットの世界ではまだ『あきた北新聞』の知名度はゼロと言ってもいいし、ケンニチはもうすごいアクセス数でしょう」と驚きと敬服の目を見せた。
その齋藤さんは「北と南、お互い手を結んで全県をカバーする新聞にしませんか」との提案もしてきた。確かに全県的な取材網を持った新聞へと発展させたい夢はあるものの、こつこつと続けてきたたった一人だけの新聞を維持するだけで手がいっぱいであり、やっと付いたスポンサーを大事にするためにもあまりリスクを負いたくない話だった。
ただ本紙にバナー広告を掲載して下さっている鹿角市の総合デザイン・印刷の「株式会社アップル」社長の石木田一彦さんからもこれまでのメールの交換で、「インターネットを活用したビジネスをいろいろ考えてみたい」との話しもあり、「どうです。今度はこちらで出かけますから十和田湖かどこかで石木田さんも交えてお会いませんか」と提案していた。幸いにも石木田さんとは齋藤さんも面識があるとのこと。それに石木田さんも時間が取れるとなって、9日の十和田湖への旅となったのである。
石木田さんとは実は3度目の出会いだったようだが、人を覚えるのが苦手な自分はその認識がなく、9日夕の出会いでは初対面としか思えなかった。宿泊した十和田プリンスホテルのロビーで齋藤さんと話しながら待っていたら、ニコニコした顔で現れたのが石木田さんだった。「伊藤さんとは秋田市と大曲市でこれまで2度、お会いしてるんですよ。名刺も交換してます。当時、県内のプロバイダーの立ち上げに力を入れていた県の商工労働部長さんがとても伊藤さんを褒めていたのが印象に残ってるんです」と石木田さはおっしゃる。そうした話から薄々と記憶はよみがえってきたが、直接、石木田さんと話をするのはやはり初めてのような気がしてならなかった。
そうしたやりとりをそばで聞いていた妻が「すみません。主人は本当に人を覚えれなくて。石木田さんからは毎年、丁寧な年賀状を頂いていると言うのにどういう人だったろうと首を傾げているんですよ」と自分の非礼を石木田さんに詫びた。これに対して笑顔のままおっしゃった次の言葉が石木田さんの人柄を語っていた。「いやー。伊藤さんは新聞記者という仕事柄、お会いする人が多過ぎるのですよ」。何と人を傷つけない、上手な言葉を紡ぎ出せる人かと感動したものだった。
石木田さんのお話しを伺っていて分かったことだが、父親が経営していた印刷所は莫大な借金を背負って潰れ掛かっていたと言う。それを何とか建て直したいと後を継いだ石木田さんは人との出会いにも恵まれて、当時まだどこもで手がけてなかったデジタル印刷技術をアメリカから導入し、東京の出版社などにダイレクトメールで売り込み、注文を得られるようになって、どうにかこうにか会社を持ち直したのだという。40代前半のまだ若い方なのに大変な苦労を背負った方でもあった。「経営者が貰う給料なんて安くていいんです。私の会社では社員の方がずーっ、と私より高い給料を貰っている人がいっぱいいます。それを知ってるから社員は頑張ってくれます」。社員を大事にし、そして仕事には厳しい石木田さんの経営感覚だった。
北と南のインターネット新聞同士で手を結びたい。齋藤さんの新聞にかける熱い思いには回答を出せなかったが、石木田さんを交えたインターネットを活用した話はとても貴重で、夢と希望を沸かせるものだった。鹿角市に印刷工場を持ち、仙台や東京にも事務所を構えて中央の印刷物を受注していると言う石木田さんは「ケンニチの魅力は読者の人脈のすごさなんです。アップルとしてはケンニチにバナー広告を貼っていることによっていずれはそうした人脈とも結びつき、きっとビジネスに結びつくと思ってます」とまでおっしゃった。そして「企業は5年後、10年後を考えてないとやっていけない。その意味でもインターネットはこれからの時代です」。
夕食を囲みながらの話し合いも、部屋に入ってからの会話も有意義でとても充実した時間だった。ケンニチは北に齋藤さん、そして石木田さんという貴重な人脈を得た喜びでいっぱいだった。石木田さんはスタートしたばかりで孤独な新聞運営を強いられている齋藤さんにも協力の手を差し伸べようとする配慮も忘れなかった。こちらが齋藤さんに言えるのは「焦らず継続する努力を続けてくれ」と言う程度だった。齋藤さんはまだ40代の若さだ。全県をシュアとした組織的な新聞にしたい。その気持ちは分からないではないが、スタートを切って3カ月そこらで焦るのは早過ぎる。じっくりと構えることを望むしかなかった。そうした言葉に齋藤さんは「伊藤さんから伺った、顔の見える新聞、心の見える新聞。それをやってみようとこちらもコラムを始めました。確かに伊藤さんの言われた通り、自分を語ったり、心を見せるコラムをやったらアクセス数も伸びてきました」と元気のある顔も見せた。
それにしても小坂町も鹿角市もなんて魅力的な街なんだろうと思った。観光資源がいっぱいあるのだ。八幡平を抱えた鹿角市はおしゃれなアーケード街の美しい街だった。十和田湖を包み込むように伸びた小坂町はアカシアの木々がいっぱいの町だった。花輪ばやしという平安時代から続いている伝統的な祭りのある鹿角市。日本最古の木造芝居小屋劇場「康楽館」のある小坂町。鹿角市では「切田屋」というそば屋さんで昼食を取り、それから小坂町へと足を伸ばした。ちょうど「アカシア祭り」の日だったようで「康楽館」やオープンしたばかり明治の建物「小坂鉱山事務所」のある明治通りは人、ひとで賑わっていた。
アカシアの並木通りを歩き、鉱山事務所を見学しながら「旅っていいなー」と思った。田沢湖町からブナ林の続く玉川を通って山を登り、新緑に輝く八幡平の樹海を眺めてのドライブだった。玉川の椈森(ぶなもり)ではテントの中でハチミツを販売している人がいた。通り過ぎてから妻が「あすこに寄ってみたい」と言い出した。戻るのも面倒くさくて「ハチミツなんてスーパーでもどこでも買えるじゃないか」と言ったが「そりゃそうだけど、ハチミツはどんなふうに作っているのかそうした現場を見るのもいいじゃないの」と言って譲らない。車をUターンさせたら、「折角、Uターンしてくれたお客さんたちだから特別サービスしますよ」と相手は上機嫌だった。ハチミツを一個購入し、蜜箱をいっぱい置いてある林の方に目をやった。
「あんまりそばに寄らないでね。ハチたち今、蜜を採られたばかりでご機嫌ななめだからね」。「ハイ。お客さん、この蜜を付けたビスケットを食べてみて」「この先はタケノコ採りの人たちの車でいっぱいだから、事故に気をつけて下さいよ」。
鬱蒼とした椈森の中で出会ったハチミツ売りの人との会話。旅はいろんな思い出を提供してくれる。人との出会いだけでなく、休憩した玉川ダムで飲んだ一杯のお茶も、ダム湖の眺めも、椈森の若葉や新鮮な空気もみんなみんな感動させる。
十和田湖に入ってからの新緑の見事さも感動だった。そして奥入瀬の渓流の見事さ、緑の見事さも言葉にならないほどの魅力だった。十和田湖や奥入瀬を歩いたのはこれで何度目だろう。いつ来ても大きな感動を与えてくれる観光地だ。泊まったホテルからの眺めはもう語る必要はあるまい。表紙を飾ったあのロケーションの見事さ。紅葉する秋になったらもう一度、そこを訪ねてみたい。そう思いながら翌朝、齋藤さんと石木田さんと別れ、青森市の特別史跡「山内丸山遺跡」へのドライブとなった。
それにしてもインターネットは人と人との出会いの場と言うか、石木田さんが言うようにケンニチの読者の人脈は自分でもすごいと思う。50万ヒットを記録したと同時にいろんな方からのお祝いの書き込みがあり、それに目を通してはウルウルの日々である。秋田市の読者と言うか仲間からは50万を祝って一献を差し上げたいとのお誘いもあった。喜んで出かけたいとホテルをネットで予約した。12日夕には自宅に宅配便が届いた。どなたからだろうと手にしたら小説「ヒッサリックの丘」を著した平塚市在住の作家・保坂米蔵さんからの贈り物だった。
段ボール箱を開けたら歌の「100万本のバラの花」ではないが、たくさんのバラの花の贈り物だった。「オーイ。大変だよー」。台所にいた妻を呼んだ。「なーに」と駆けつけた妻もバラの花の束に「えーっ。こんなに!」と驚き、夕食の準備も取り止め、あちこちから花瓶を出してきては玄関から居間のいろんな所にバラの花を飾った。「あなた。保坂さんにお礼の電話をしないと」。保坂さんとはケンニチで小説「ヒッサリックの丘」を紹介して以来、何度かメールのやりとりをしている。「こちら編集室」にも目を通して下さっているようで、時にはその感想も書いてはメールを下さる。プロの作家からこち編を読まれているのかと思うと、拙い文章で恥ずかしくなるが、同時に誇らしいとも思っていた。
その保坂さんからのまさに“100万本のバラの花”のような大量の花、花だった。その保坂さんに電話してお礼を述べた。「あー。伊藤さん。どうもどうも」。親しみのこもった声だった。本の売れ行きが心配だったが、やっと重刷されることになったと保坂さんは嬉しそうにおっしゃった。「秋田に遊びに来てください」。「ええ。秋田に行ってお会いしたいと思ってますが、行こうかと思うと最後の踏ん張りがきかないんです。ぜひ、訪ねてみたいと思います」。まだお会いしたことのない方だが、電話でのやりとりでももう昔からの知り合いのような心情が沸いた。
大阪ではとんでもない余りにも悲惨な事件が起きたが、亡くなった8人の子どもたちの冥福を祈って小学校の校門に山のように置かれる花束。ひどい男もいるが、人間って本来は優しいのだと思う。その優しさに浸っているこのごろだ。