こちら編集室「秋田市で過ごした夜」(6月22日)

 shizukoさんのいたずらっぽい笑顔があった。Hitomiさんの少女のようなはにかみを含んだ笑顔もあった。モナミさんの上品で、涼しそうな笑顔もあった。ケンニチの秋田市の女性読者の方々である。ケンニチを応援する3人娘としておこう。そしてカトさんこと加藤隆悦さん、県庁の成田秀さん、木村雅彦さん。カトさんと木村さんはそれぞれ「blah blah AKITA」「Kimura’s Room」という素晴らしいホームページをお持ちである。shizukoさんもホームページで「あきたNEWS」を運営している。

 18日夜、shizukoさん、カトさんの呼びかけで秋田市でケンニチのヒット数50万を祝う会があった。3人娘とは「秋田キャッスルホテル」で落ち合い、久しぶりの顔合わせを喜び合った。そしてお祝い会場の居酒屋へとタクシーで走った。間もなく木村さんと秀さんが駆けつけ、そして県庁からさらに石澤直隆さんと同僚の野田新悦さんという方が駆けつけた。最後にカトさんが顔を出して、自分も含め総勢9人の宴となった。石澤さんと野田さんとは初めての出会いだった。ただshizukoさんのお話しから、石澤さんは昨年2月10日の秋田県南日々新聞のヒット数25万を記念して企画された「空飛ぶケンニチ」のためにご寄付をして下さったことを知った。

 生ビールで乾杯してからの自己紹介が楽しかった。モナミさんは「自分の生まれ故郷にインターネット新聞があるのを見つけ、驚くと同時に感動してしまった。そしてこち編を読んでいるうちに、なんてロマンチックで素敵な文章を書く人なんだろうと、もう止められなくなっちゃった」とケンニチとの出会いを語って下さった。モナミさんの知的な目、涼しげな笑顔が素敵だった。Hitomiさんも「インターネットって怖いものだと言う先入観があった。それがふとした切っ掛けで県南日々新聞の『こちら編集室』を読んでいたら、なんて優しくて温かい世界なんだろうと安心しました」と言って下さった。Hitomiさんはその名の通り、大きな瞳がこぼれ落ちはしないかと心配になるような可愛い笑顔だった。

 写真は千畑町のラベンダー園で石澤さんは多分、県外から秋田県内に結婚などで移り住んだ女の人たちのグループ「井戸端ゼミナール」のメンバーとして幅広く活動しているshizukoさんとの交流でケンニチとの縁が生れたものと思う。あいさつで「検索エンジンGoogleに自分のフルネームを打ってみたらですね、ケンニチの『カルチャー』というのが検索され、そこに自分の名前があった。それを呼び出してみたらディスプレーいっぱいに文字が書かれていて驚いてしまった。本当によくぞここまで文章を書けるものだと感心するばかりだった」とケンニチの「こちら編集室」との出会いを面白い言葉で表現した。

 そうだった。ケンニチは昨年1月21日の「こちら編集室『空飛ぶケンニチへアリガトウ』」と題して、西木村で2月10日に上げることになっていた「秋田県南日々新聞」の名前の入ったオリジナルの紙風船を作るために、shizukoさんらの呼びかけでご寄付をして下さった海外を含め全国61人もの方々の名前を一人ひとり書いては、お礼の言葉を添えたものだった。その名前の中に石澤さんの名があったので「Google」で検索されたのだろう。

 そして野田さん。野田さんは自己紹介の中でどのような事をおっしゃったのか?。ワイワイがやがやとした雰囲気の中で、つい、聞き漏らしてしまった。ごめんなさい、野田さん。こちらがジョッキーを空にする度に「伊藤さん。どうぞ差し出して下さい」とジョッキーをテーブル越しに受け取ってはビールを注いで下さった。面倒みが良く、若くて親切な好男子だった。

 筋向かいのカトさんは「伊藤さんのあの書くエネルギーは大したもんだよナ。ホント、感心してます」。カトさんも物書きの一人だ。とてもセンスのいい、天才的な文才を持っている。いつも感心してカトさんの書き込み文を見ている。メガネをかけた飄々とした顔がいい。

 いつもニコニコした笑顔を絶やさない木村さんは真向かいに座り、自己紹介では「当時の上司からオイ!、木村君。今日は秋田県南日々新聞のヒット数10万を祝う会があるんだ。それを祝うために県庁職員一人ひとりから1000円ずつのカンパを集めることにした。『君も協力してくれ』と言われ、ポケットから何が何だか分からないうちに1000円を出してしまった。で、ケンニチってなんだと調べたらインターネット新聞だった。こち編を読んでいたらほのぼのしたムードがあった。それ以来、読むのを楽しみにしてるんです」とケンニチとの出会いを語って下さった。

 真向かいのshizukoさんもパソコンとインターネットとの出会いを語りながら、「私が『あきたNEWS』と言うホームページを立ち上げたのは97年4月だった。自分のホームページを更新しながら、ふと秋田県南日々新聞を見たらすごいアクセス数。それに毎日、ニュースを更新しているでしょう。そのエネルギーにも驚いたし、こちら編集室を読んでいたらとてもロマンチックでたまらなくなり、ラブレターを出してしまった」とおどけながら語った。そうだった。こちら編集室っ子はそのメールを読んで嬉しくなって「『朝一番に小鳥が迷い込んできたような嬉しさで返事を書かせてもらってます』とすぐに返信したんだよね」と相づちを打った。shizukoさんはこちらが出したメールを思い出したのか、黒い瞳が美しく輝く笑顔をこぼした。

 クリクリした大きな瞳が特長の成田さんはケンニチの生みの親の一人である。96年10月に大曲市に生れたプロバイダー「おばこネット」。それに加入し、インターネットを始めたが、エッチな画面を見たりしても、宇宙の世界に浸ってもいずれは飽きて、「インターネットって詰まらん。このようなものに無駄なお金を遣っても意味がない。もう止めよう」とさえ思っていた。アサヒ・コムや河北新報社のホームページなどを時々、見ては「これからはこんな時代になるのか」と紙の新聞を見るよりもパソコンを通じてニュースを読む時代への恐れと不安、期待が沸いたものだった。そうこうするうちに「自分でもホームページを持ったら一人でだって新聞をやれる」と気づいた。

 ホームページを持ちたい。「おばこネット」の事務局に相談し、返事を待っていた。だが、いつまで経っても具体化しなかった。当時はホームページを作れる技術者が少なかったと言う事情があったからだろう。夢遊病者のようにあちこちを歩いては“思案投首”の日々を重ねた。当時、インターネットの普及に力を注いでいたのが県仙北総合庁舎地方部に勤務していた成田さんだった。成田さんに相談した。「伊藤さん。すぐわらび座に行こう。『きたうら花ねっと』でインターネットを使って新聞をやるような人が出て来ないかって待ってるんですよ」。ケンニチにとってはもう何度も繰り返された伝説的な話だが、こうしてインターネット新聞「秋田県南日々新聞」は96年12月1日に「きたうら花ねっと」の技術的支援を受けて誕生した。成田さんはその日まで小まめに足を運んでケンニチの誕生を見守って下さった。

 「あの当時の伊藤さんはすごい思い詰めた顔をしてました。何とかしてインターネットを使って新聞をやってみたい。とにかく真剣さが伝わってきたものです」。成田さんの自己紹介はケンニチが生れるまでの経緯が中心だった。そう。あの当時は、インターネットで新聞をやりたい。そればっかりで根をつめていた。どんな障害が立ちはだかっても自由にやれる新聞を立ち上げたいと無我夢中だった。収入につながるかどうか。それさえかいもく見通しがつかなかったが、とにかく未知なる世界への旅立ちに不安と期待とがごちゃ混ぜとなりながらも何とかしてスタートを切りたいと、不慣れなパソコンを車に積んでは10月から週1回、花ねっとに通いつめたものだった。

 成田さんの励まし、きたうら花ねっとの長瀬一男さん、海賀孝明さんの技術指導がなければ、ケンニチの誕生はなかった。成田さんの思い出話を聞いていてしみじみと5年前のあの頃が目に浮かんできたものだった。

 その成田さん。「ところで伊藤さん、先月、吐血したようですがもう大丈夫ですか。心配したんですよ」と切り出した。「ああ。あれ。ごめんごめん。本当に皆さんには心配かけてしまって。もう大丈夫です」。「意外と早く治ったんですね」と成田さん。その吐血を話題にこんどはそばにいた人から「テレビや映画なんかで明治の文豪なんかを主人公に登場させ、ウッと口から血を吐くシーンがありますよね。あれって格好いいもんだよね。おれもやってみてーなー」。「エーッ。ケンニチもそれじゃ文豪入りですか」。座は吐血でさえも笑い話のタネになった。

 集まった男性6人に女性3人の宴は時間も忘れさせた。カトさん、shizukoさんのホームページも間もなく10万ヒットを記録する。カトさんが言い出した。「10万ヒットじゃ寂しいから、shizukoさんの分も合わせ20万ヒットを祝う会を今度は開こう」と。「ウン。賛成、賛成」。意気投合した。ネットで知り合い、ネットで出会った気のいい人たちの和であり輪でもあった。そしてケンニチの100万ヒットはより盛大にやろうと誓い合った。

 ケンニチがアクセス数10万を記録したのは98年6月26日だった。そして99年12月1日には25万を達成した。その25万ヒットを祝おうと2000年2月10日には西木村で読者から寄せられた募金約19万円を基に「空飛ぶケンニチ」と題した紙風船が5個も夜空に舞い上がった。静岡県や東京、そしたshizukoさんやカトさん、木村さんらと共に空飛ぶケンニチの紙風船を眺めながら喜び合ったものだった。ゼロからスタートして10万達成までに1年半。25万達成までに3年。その25万が50万になるまでに今度は1年半だった。インターネット人口も増加しているのだろう。ケンニチへのアクセス数は着実に増えてきている。100万と言う夢のような数字も案外、間近かもしれない。そんなことを想いながら二次会、三次会と重ねたらいつの間にか午前0時だった。秋田市の楽しい思い出の夜だった。ケンニチは、いつも温かい人たちの声援と支援を受けている。ありがとう。