ケンニチが技術面で支援を受けている田沢湖町のわらび座「Digital Art Factory」の海賀孝明さんの結婚式が宇都宮市であって、6月30日に宇都宮市一泊、明けて1日は東京一泊の旅に出た。海賀さんと新婦の路子さんとの結婚披露宴は海賀さん自身が司会を努めると言うちょっと変わった、それでいてとても温かいムードの披露宴だった。二荒山神社での挙式の後、紋付き羽織り姿の海賀さんと花嫁衣装を着飾った路子さんが、3人の神官による雅楽の演奏を先導に披露宴会場へと入った。そして海賀さんが「ただいま無事、結婚の儀が終えました。これから海賀家、高橋家の披露宴を開かせてもらいます」とマイクを握って話し出すと、かつての大学の仲間だろうか。会場からはどっと笑い声が弾けた。
結婚披露宴と言えば仲人が延々と新郎・新婦の生い立ちからなり染めまでを語り、さらには恩師、会社の上司の祝辞といったセレモニーが付き物だが、海賀さん、路子さんの披露宴はそうしたものは一切省き、現在の上司と元上司が簡単に、それでいてとても要領よくまとめた言葉でお二人を紹介して宴の幕開けとなった。新郎・新婦のプロフィールの紹介も海賀さん、路子さんがそれぞれ自分でマイクを握って語るという方式だった。キャンドルサービスもなく、プロの司会者によるお涙頂戴式の演出っぽい語りもなく、それが返って温かく、とても楽しい披露宴となった。お二人の門出を心から祝いたくなるよう気持ちが和むいい結婚披露宴だった。
ホテルに戻って二次会となったが、そこにも海賀さん、路子さんが顔を出し、秋田から駆けつけた同僚や路子さんの高校時代の同級生と交じっての賑やかな会となった。海賀さんの幸せで満足そうな顔。路子さんの喜びに満たされた顔が良かった。結婚式のおいしい酒が良かった。海賀さんの職場である「Digital Art Factory」はそれこそコンピューターというハイテクを駆使してのアートの世界だ。その最先端を行く海賀さんらしい発想の結婚式だと感心しながら、宇都宮市でのお酒の宴を楽しませてもらった。
翌朝は東京へ行くことにしていた。東京駅で静岡から駆けつけて下さるhaseさんと出会う約束となっていた。東京はまったく不案内な自分である。電車への乗り方さえろくに分からない。そんな不安から結婚式に参加した知人に「東京まで連れてってよ」と道先案内を頼んだが、「伊藤さん。小学生だって一人で東京へ行けますよ。今日は伊藤さんも一人立ちの日だと思って、一人で行ってみたらどうです」と冷やかされ、宇都宮駅から東京へと一人で向かうことになった。
東京駅では1日午前9時半前後にお互いが着くように約束していた。その時間までに着くためには何時の新幹線に乗ったらいいのか。これも出発前に良く旅慣れている人から調べてもらいメモしていた。そして宇都宮駅のホームに出た。わずか30分の間に3本もの東京行きの新幹線が出る。大都会の交通網の整備、便利さには驚くばかりだった。秋田なら、一本でも列車に乗り遅れると1時間以上は待たなければならない。東京へ行っていつも驚いたり、感動するのは地下鉄でも新幹線でもモノレールでもとにかく駅のホームへ出るとすぐに列車が勢い良く飛び込んで時間を気にせずに移動できるという点だ。
とにかく宇都宮駅からは午前8時37分発の「やまびこ30号」に乗り込み、東京駅には9時28分に着いた。haseさんは少し遅れて33分到着の予定だった。列車は予定通り東京駅に着き、ホームから出ると同時にいつもの人ひとの群れとの出会いとなった。この人の群れに紛れると秋田の片田舎で育った自分はいつも戸惑う。どうしたらいいのかと自分の居場所を失い、オロオロするばかりだ。
ともかくhaseさんと落ち合わなければならない。中央口通路に出たらすぐに東海道新幹線出口が目に入った。「ああ。haseさんはここから出てくるんだ」と喜んだ。到着予定の9時33分は数分、過ぎている。駅員に「東海道新幹線の出口はここだけですよね」と聞いたら「いいえ。他にもあります」とのことだった。「これだから困る。なんで東京は出口をあっちこっちに設けるんだ」と一人でぼやいていたら携帯電話が鳴った。haseさんからだった。「伊藤さん。今、どこにいるの」「東海道線出口って所だよ」と言ったが、「どこの出口?」とhaseさん。答えようがなく、駅員をつかまえて「ここはなんと言う出口なんでしょう」と聞いたら「西口です」。haseさんの携帯電話を鳴らして「西口と言う出口なんだって」と人任せのように連絡した。間もなくhaseさんの顔が見え、「伊藤さん。そこを動かないで」と言って姿を消した。haseさんはまったく逆の方から駆けつけた。
東京駅はいつも田舎者を困らせる。3年前もそうだった。妻と長崎へ出かけ、最後の日は東京でブラブラすることになったが、妻の勧めで自分は静岡のhaseさんを訪ねた。東海道新幹線に乗って静岡で降り、haseさんとの散歩を楽しんだが、その帰りには東京駅で待っていた妻と落ち合うのに大変な苦労をした。静岡に行く時のホームと戻った時のホームが違っていたため、駅に降りてから自分の居場所がまったく分からず、どこをどう歩いたらいいのか迷ってしまったのである。妻も同様に自分を懸命に探したようだ。携帯電話でお互い連絡を取ろうとしたが、地下道だと電話も利かず、どこでどうしているものかと秋田へ帰る列車の時間も迫って青くなったものだった。幸い今回はどこに居ても携帯電話での連絡は付き、haseさんとは迷うことなく出会えた。
そのhaseさんに東京で行ってみたい所としてお願いしていたのは赤穂浪士の眠る高輪の「泉岳寺」と両国の「江戸東京博物館」だった。haseさんと落ち合ってすぐに泉岳寺へと向かった。なぜ今ごろになって赤穂浪士なのか。自分でも不思議だったが、歴史上で実際に在った義士たちのドラマを自分の目で確認したかったのかもしれない。泉岳寺駅で降りると寺までは歩いて直ぐだった。かんかん照りだったが、haseさんと話しながらの散歩は暑さを忘れさせた。泉岳寺周辺は高級住宅街なのだろう。洒落てはいるがどこか取っつきにくい街で、人の香りがしなかった。
お寺の入口に私立高輪中学校があって、入学試験の説明会の看板が立っていた。大都会では小中学校、いや幼稚園からでさえも私立校、私立園を目指して子供たちは受験戦争に追いやられているのだろう。入学試験説明会の看板を仰ぎ見ながら、幼児のころからこのような競争心を煽られる大都会の子供たちの大変さを思いやった。都会でまともに生きるためにはそうした幼いころからの競争も必要かもしれないが、やはり秋田の子供たちののんびりした通学風景こそ自然だと思った。
泉岳寺に入った。目指す赤穂浪士47士の墓地はすぐに見つかった。墓地の入口には吉良上野介首洗いの井戸があり、その奥が赤穂浪士の墓地だった。途中で線香の束を買い求め、haseさんと気の向くまま墓地に線香を手向けた。墓碑に刻まれた名前に目をやると堀部弥兵衛76歳、矢頭右衛門七17歳、大高源五31歳、神崎与五郎37歳、小野寺十内60歳、大石主税15歳、不破数右衛門33歳、磯貝十郎左衛門24歳、堀部安兵衛33歳など映画やテレビの「忠臣蔵」で名を馳せた「赤穂浪士」たちの墓地が次々と見つかる。「ああ。haseさん。堀部安兵衛のお墓だよ。高田馬場の仇討ちで有名な堀部は33歳で亡くなったんだね。主税さんのお墓もある。15歳だよ。へえー。堀部安兵衛のお父さんで、堀部弥兵衛は76歳だったんだ。あの当時の76歳だったら長生きした人なんだろうね」。
そんなことを話しながら線香を手向けた。大石蔵之助のお墓だけは別格だった。他の46士のお墓よりも大きく、立派なものだった。蔵之助も44歳の若さで亡くなったものだった。ともかく47士のお墓を見て歩いたら、歴史の重みがひしひしと伝わってきた。お墓を訪ねてくるのは自分たちばかりではなかった。次々とお墓参りをする人が来ていた。元禄15年(1702年)12月14日の討ち入りから299年の歳月が流れても、赤穂浪士への日本人の思いやりは川の流れのように途絶えることなく続いているのだ。
お墓参りの後は義士たちの遺品を展示した義士館も見学した。浪士たちが実際の討ち入りの際に着込んだ鎖帷子(くさりかたびら)や股引(ももひ)き、甲頭巾などが展示されていた。藩主であった浅野内匠頭の無念を晴らしたいと吉良上野介宅に討ち入り、大勢の武士たちと汗みどろとなって戦った姿がその鎖帷子からは偲ばれた。義を重んじた彼らの行動が美しいかどうかよりも、亡き殿さまの無念を晴らそうと武士道に散ったその思いにはやはり感動させられる。
泉岳寺駅から再び電車に乗って両国駅で降り、江戸東京博物館への移動となった。両国はどこか人の香りがして、親しみやすさを感じさせた。そんな感想を述べたらhaseさんは「そう。やっぱりここは下町っていう感じでしょう」と受け答えた。空はやはりかんかん照りである。秋田は出る時も曇り空だった。その前も雨がずーと続いていた。東京の青空がうらやましく空を見上げ「いいなー。この青空は」と言ったらhaseさんは「これが青空と言えるかしら。やっぱり青空は秋田の空よ」と嬉しいことを言ってくれた。
目指す江戸東京博物館に入った。巨大な建物だった。江戸ゾーン、東京ゾーンの早回りコースを選んでも1時間はかかると言う。江戸屏風を眺め、江戸城本丸広間の松の廊下や白書院の模型を見学した。松の廊下と言えば浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷で有名だ。見ているのは模型だったが、とてつもない長い廊下だったようだ。そこを見学してから、錦絵のできるまでのコースを歩いた。途中に「千両箱」が展示され、その重さを「体験してみて下さい」とあった。持ち上げてみたらとてつもない重さだった。説明員が「映画では良く、盗人が千両箱を担いで屋根の上を走るシーンがありますね。さあ、担いで走れるものか体験してください」と呼びかけていた。haseさんもその重さに挑戦していた。15キロもあるという。火事場のばか力と言うが、いくら千両箱とは言え、肩に担いで走れるような代物ではないことを体験した。
とにかく広大な博物館の見学は足を疲れさせるばかりだった。もう悲鳴を挙げた。その疲れを知ってかhaseさんは両国を歩きながら生ビールの飲めるレストランを見つけ、そこで遅い昼食となった。生ビールで乾杯し、haseさんとの会話を楽しんだ。秋田大ファンだというhaseさんはケンニチの表紙を飾った十和田湖プリンスホテルの庭を話題に「今度は十和田湖へ行ってみたい。秋がいいでしょうね」と夢見るような笑顔で秋田への想いを馳せた。「そう。十和田湖と奥入瀬渓流を歩くのは最高だよ。今日はhaseさんが自分のために貸し切りになってくれたから、今度、秋田に来たら自分がhaseさんのために貸し切りとなって案内するよ」。この日はhaseさんのために思い切り優しくなりたかった。
ビールのせいか顔を赤く染めたhaseさんは「さあ。次のコースよ」と浅草から船に乗って隅田川を下る旅へと出た。隅田川から眺める大都会の美しいビル群、個性的な橋の群れ。いろんな思い出をhaseさんは自分に残してくれた。そのまま夜も一緒に夕食を二人で過ごしたかったがhaseさんは夕方、急ぐように静岡に帰った。haseさんにはhaseさんの事情があるのだろう。とにかくありがとう。haseさん。大都会で過ごした1日はこうして終え、翌朝は国会議事堂周辺を歩き、東京駅近くの八重洲ブックセンターで時間を潰し、午後1時過ぎの新幹線で秋田への帰途に就いた。新幹線では眠りっぱなしだった。
こうして無事、東京散策も終え、再び秋田での生活に戻った。相変わらず秋田の空は梅雨空が続いている。出かける一カ月も前から東京に想いを馳せ、憧れたものだった。あんな大都会で暮らせたら幸せかもしれないと幾分、うらやましさも募ったが、今、再び秋田の生活に戻ってみるとこののんびりした毎日もまんざらではないかと思ったりしている。今朝も雨だったが、自宅裏の窓から眺めた雨に濡れた緑の鮮やかさもいい。思い出の東京を目に浮かべながら、明日からの天候回復に期待している。