こちら編集室「カラス可愛いか可愛くないか」(7月20日)

 毎朝夕、歩いている「川港親水公園」にはいつも4羽のカラスが群れている。家族なのか兄弟なのか、それとも友だちなのか。それこそカラスに聞いてみなければ分からない。いずれいつもこの4羽が仲良く戯れている。先日の夕方には公園の緑の芝生にたむろして4羽が何やら話し合っていた。柴犬のアキを連れての散歩途中だったが、こちらには目もくれずの話し合いだった(そう見えた)。そのうち、1羽がおもむろに小川に飛び込み、水浴びとなった。そして次のカラスも後を追って水に飛び込んだ。

 どうやら4羽の話し合いは「暑いねー」「ウン。暑いどころかやけどしそうだよ」「おい。この川の水、かなり濁ってるけど、泳いでも大丈夫なんだろうか」「そこなんだよ」「誰か、入ってみてくれないか」「じゃあ、まずお前から入ってみろよ」。

 そんなやりとりをして1羽が先導を切ったように思えた。そして気持ち良さそうに水を浴びる姿に次のカラスが飛び込み、その次も仲間入りをしようとしたら橋を渡って近づくこちらに気づき、一気に「カァーカァー」と悔し紛れの声を挙げて飛び立った。4羽とも大きさはほぼ同じ。人間で言えば大人と言うか、青年の類だろう。いつも堤防下の河川敷にたむろし、エサとなる虫を探し求め、くちばしで地面をつついているか、球場のネットや杉の木に止まっては仲良く肩を並べている。見た目は決して可愛いものではない。黒光りするその姿はむしろ不気味だ。おまけに真っ黒な顔の中でギラリと光る黒い目は凄味さえある。世をすね、世間に背を向け、背中には怖い入れ墨をした“筋の者”といった雰囲気だ。

 それだけにどうしても本物のカラスは好きになれないが、見方によってはその動作がとても愛嬌のあることに気づいた。その愛嬌が買われてなのか、カラスをキャラクターとした人形や漫画はとても可愛い。童謡に登場するカラスも実に可愛いし、ドラマとしての効果を高める存在だ。我が家の洋式のトイレの飾り台にも野口雨情作詞の「七つの子」のカラスの人形が飾られている。

 夕日を浴びた橋「烏 なぜ啼(な)くの 烏は山に かわいい七つの 子があるからよ」

のあれである。親カラスの背丈は7〜8センチ程度であり、七つの子カラスの背丈は3〜4センチ程度である。いずれも陶器で作られた単体だ。2羽の親カラスを中心に7つの子を並び替えては、その雰囲気を楽しんでいる。9羽とも大きな口を空に向けて開け、親も子も「カァー、カァー」と鳴いているような姿だ。姿形は真っ黒だが、目の縁だけは白い線で丸く囲み、そこに大きな目があって、それが実に可愛い。

 もう20年も前に買い求めたものだが、家を新築してからは物置に置いた本棚のガラスケースの中の飾り物となっていた。それを持ち出してトイレの飾り物とした。トイレの話をしたら昔だったら目をそむけられたことだろうが、最近はトイレが見直され、新築する家ほど豪華な設備、豪華なムードとなっている。先だって改築したばかりの大曲市の料亭のトイレも立派だった。一つの部屋とも言えるほどの広いスペースを取り、そこに様式の便器が置かれ、黒光りする石畳が敷かれ、生け花が飾られ、ミニチュアの庭があり、おまけに蹲(つくばい)まで設けられている。トイレと言うより茶室のような雰囲気だった。

 そこのご主人は「改築の際に最も頭を悩ましたのがトイレなんです。前は汲み取り式でそれこそ便所そのものでした。これからの時代は客室の雰囲気よりも、トイレこそ大事にすべきではないかと考えたんです」とニコニコしながら案内したものだった。「オープンしてお客さまを迎えて、一番、喜んで下さったのは女の人たちでした」。ご主人は女性客が喜んでくれたトイレを満足そうな顔で自慢した。

 カラスからトイレに話が飛んだ。とにかく4羽のカラス。これは家族なのか、兄弟なのか、それとも友達同士なのか。仲むつまじくいつも4羽が朝夕、一緒にたむろしている。おかしなもので好きにはなれない本物のカラスだが、いつもいるはずの4羽が見えないとこのごろ無性に気にかかる。どこへ行ったのかとアキと歩きながらカラスの姿を追い求めるほどだ。4羽のうち1羽が居なくても同じだ。川港親水公園に住み着いた4羽のカラスがいつの間にか気になる存在となってしまったのだ。

 いずれカラスはそれこそ有史以来、人間と長い付き合いをしてきた。幼いころ、近所のお姉さんから「今日は烏鳴きが悪いから、どっかで人が死んだのかもしれない」と脅されて、ドキッとした記憶がある。夏休みの朝だった。カラスの鳴き声と人の死の話が怖くなって、その日は一歩も外へ出ることもなく、カラスが我が家の屋根の上で鳴かないよう祈ったものだった。母も近所の人が亡くなったのを聞くと「そう言えば今朝から烏鳴きが悪かったものなー」と父と目を合わせながら頷いていたものだった。このように幼いころから、カラスは人の死を予言すると聞かされて育ったせいか、単なる迷信と分かっていても今でも頭上でカラスが「ギャーギャー」などと騒がれると何か不気味な事が自分に起きそうで、不安になる。

 神さまはなぜ姿形だけでなく鳴き声さえも不気味なカラスという動物を生れさせたものか。勝手な想像だが、昔の人はカラスの鳴き声によって事をなすべきか、見送るべきかの占いもしたかもしれない。「烏鳴きが悪いと人が死ぬ」はことわざ辞典にさえも載っているくらいだから、カラスの鳴き声は昔の人にとって行動様式の判断材料の一つだったかもしれない。ことわざと言えば「烏の行水」は良く知られているが、「烏に反哺(はんぽ)の孝あり」「烏の白糞(しろふん)」「烏百度洗っても鷺にはならぬ」「烏を鷺」などのことわざもある。

 烏に反哺の孝ありは生育した烏は親鳥に餌を運んで孝行するということからで、ましてや人たるもの、親に孝行しなければならないと言う教えとか。烏の白糞は親に似ない優秀な子を生むことであり、鳶(とんび)が鷹を生むと同じ意味だ。烏百度洗ってもは、色の黒いものはいくら洗っても色白にはならないもので、本質は変えられないから、むだな骨折りはやめて自分の特色を生かす工夫をすべきだという訓である。烏を鷺は白を黒と言い張るようなもので、強心臓の政治家に良くあった話だ。

 カラス反哺の孝ありではないが、子供のころ近所の家でカラスを飼った人がいた。巣から落ちた幼鳥を見つけたおじいさんが、そのままでは死ぬだけだと気の毒に思い、餌付けしたものだった。カラスを飼っているとの話を聞いて見学に行ったものだった。まだ毛さえ生えきれない小さな姿だった。おじいさんは餌をねって箸ですくい、幼鳥のくちばしを開けては餌を放り込み、それを繰り返していた。

 小屋の中の金網で囲んだ箱の中で飼われたカラスを毎日のように見学に行ったものだった。やがてそのカラスは無事に成長し、羽ばたきも立派にするようになった。おじいさんは「もう大丈夫だべ。そろそろ放してやるか」と自分たちが見つめる中で網戸を開け、カラスを両手でつかんで「ホラッ」と空をめがけて放り上げた。バタバタとカラスは羽ばたきして飛び上がった。そして嬉しそうにそのおじいさんの家の屋根の上を何度も何度もグルグルとトンビのように回っては「カァーカァー」と鳴いたものだった。大空を見上げながら「元気でなー」と叫んだおじいさんの目から涙がこぼれ落ちていた。いま思うと、あのカラスはああやっておじいさんの家の屋根の周りを飛び回って、恩返しをしていたのだろう。

 夕焼け小焼けで 日が暮れて

 山のお寺の 鐘がなる

 お手々つないで 皆かえろ

 烏と一緒に 帰りましょう

 中村雨紅作詞の「夕焼け小焼け」だ。小学生のころ音楽の時間で何度も歌ったものだった。夕焼けと山のお寺の鐘、そして手をつないで帰る子供たちの姿。夕焼けに向かって飛んで行くカラスの群れ。そうした情景を想像するとやはりカラスもいいもんだ。お芝居でも「ぼうや。泣くんじゃねぇ。おっかあが居なくても、チャンが付いてるじゃないか。さあチャンの背中に乗りな」と泣かせる名セリフを吐くと、ボーンとお寺の鐘が鳴り、カラスの「カァーカァー」の疑似音で聴衆の涙を誘ったものだった。カラスは可愛いか、可愛くないか。4羽のカラスを見つめているこのごろだ。