こちら編集室「ひぐらしの声」(7月27日)

 「栗の木の花が終わらないと梅雨は明けないものよ」。昔から良くこう言い聞かされたものだった。その梅雨がやっと明け、栗の木の花も季節に合わせるように散った。そして油蝉が鳴き、蜩(ひぐらし)が鳴く季節となった。日中、木陰から聞こえてくる「ミーンミーン」と奏でる油蝉の鳴き声は時にはうっとうしいが、夕暮れ時の蜩の「カナカナ」と連続音で鳴く、澄んだ声は哀れで、どこか寂しい。

 蜩はその名の通り夏の夕暮れ時に鳴くのだが、数年もかけて真っ暗な地中で植物の根の養分を吸収しながら成長しても、光の当たる地上に出てからの生命はわずかに1週間程度と聞く。セミが鳴くのはオスだけとかでその鳴き声でメスを呼び、交尾し、卵を木に生み終えるとどちらともなく命は果てると言う。わずか1週間の間に恋をし、光と水の恵みを受け、そして自由に樹間を飛べる羽根を与えられながらも地上での生命は余りにも短い。その短い命を惜しみ、精一杯のエネルギーを燃やし、散って行こうとするのだろうか。花の命のようなはかなさを嘆くようにさえ聞こえる「カナカナカナ」の声がもの悲しい。夕暮れ時、堤防上でその短い生命を終えた一羽の蜩の亡骸を見つけた。透き通るような羽根が美しかった。せめて踏みつけられることがないよう堤防脇の雑草を蜩の墓標にしてやりたいと掬い上げた。少しも手に重さを感じさせない、はかなくて悲しいほど小さな命だった。

 夏の日の夕暮れ時が好きだ。太陽が真っ赤に燃えて西山に沈んでいく光景を眺めているのが好きだ。近くの野球場では仕事を追えて三々五々集まってきた若い人たちが、野球の練習に汗を流し、こちらはその元気な姿を眺めながら柴犬のアキと歩き、アキの散歩が終わるとパピヨンこと、パピーを連れて歩く。蜩の合唱が杉林のここかしこから聞こえてくる。その澄みきった鳴き声は鳴くことによって生命を削る、蜩たちの悲しい絶叫のようでもあり、誦経(ずきょう)のようでもある。また鈴の音のようでもあり、笛の音のようでもある。「もう間もなく日が落ちるよ。明日も生きようね」。蜩たちは恋をし、結ばれたた相手にそう呼びかけているのだろうか。蜩にとっての一日は10年であり、一週間は70年でもあるかもしれない。その声に耳を傾け、祈る。森の中の蜘蛛に捉えられないように、そして鳥たちの餌食にもならないようにと。蜘蛛も小鳥たちも、生きるためには何かの虫を犠牲にしなければならないだろうが、せめてもセミたちぐらいはその与えられた短い、歌える時間を精一杯歌い、森の中を自由に飛び、短い命を楽しんでもらいたい。

 子供のころセミを取って虫かごに入れて楽しんだことがある。虫取り網を手に我が家の栗の木に止まったセミを「えいっ」とばかりに捉えたのだが、ミーミーミーッと悲鳴のような鳴き声を耳にした母から「セミは地上ではたった1週間しか生きられないよ。かわいそうに。放してやったら」としわがれた声で注意されたことがある。かぶと虫を取ってきた時は何も言わず、むしろ喜んでキュウリやスイカの実を切り取って、餌として与えてくれた母なのにセミにだけは強い哀れみを示したものだった。その原体験があるせいか、セミの鳴き声への哀れみが強くなってしまったのかもしれない。

 蝉時雨という言葉がある。杉林の奥から聞こえてくる油蝉、蜩たちの鳴き声はまさに時雨のようでさえある。そのセミの鳴き声を聞きながら種田山頭火の「どうしようもないわたしが歩いている」、ふとそんな俳句が頭に浮かんだ。犬を連れ、朝夕、一人で歩いているのだが、夕日を受けて堤防下に長い影を落とす自分の姿を見て、それこそ「ああ。どうしようもない自分が歩いている」、そんな滅入った気分に陥ることがある。山頭火の俳句と出会ってもう久しい。どうしてこうも寂しい歌だけをこの人は本当に素直に、飾りっ気もなく次から次へと生み出せたものか。山口県の資産家の長男として生まれながらも、43歳で出家し、熊本市の空き寺の堂守となったものの、解く術もない惑いを背負って流転の旅へ出たと言う。

 「分け入っても分け入っても青い山」

 「ひっそりと咲いて散ります」

 「わたしひとりの音させている」

 「鴉啼いたとて誰も来てはくれない」

 「あるけば草の実すわれば草の実」

 「あるけばかっこういそげばかっこう」

 「山あれば山を観る。雨の日は雨を聴く。春夏秋冬あしたもよろし。ゆうべもよろし」 すべてを諦め、すべてを投げ出し、旅から旅への放浪を続けた山頭火。山を友とし、空を友とし、雨が降れば雨の音を友とし、歩けば道端の草を友とし、カラスが鳴けばそれを友とし、カッコウが鳴けばカッコウを友とした山頭火。そして酒におぼれ「自分のような者は存在すべきでない」と死を見つめ、死に憧れもした。真似をしてみたいとは思ったこともないが、この人の歌にだけはいつも惹かれる。その悲しさに惹かれる。

 雨と言えば、昨日の夕方、突如として激しい雨となった。健康診断のため近くの公民館にいたのだが、自分の出番が来るまで窓を明けて雨の様子を眺めていた。空から落ちてくる雨は銀色の糸のようだった。その雨に向かって雲のかけらから西日が射し込み、キラキラと輝き出すと小さな虹の橋が生れた。「ああ。虹だ。虹の橋の根元が目の前にある」と夢中で見つめた。子供のころ、虹の橋の根元には金色に輝く宝物がいっぱい埋まっていると聞かされ、お金持ちになりたくて虹が立ちのぼると自転車で夢中になって追いかけたものだった。追いかけても、追いかけても虹はいつも同じような距離で離れて行き、やがては消えた。後に残ったのは言いようのない虚しさと疲れだけだった。

 今その虹の橋の根元が目の前にある。目の前の田んぼの中から虹は立ちのぼっている。そこを掘ったら宝物が出てくるだろうか。お金持ちになりたくて、そして幸せを求めて追いかけた虹だった。子供のころ、胸踊らせて追い求めた虹が目の前から立ちのぼっていると言うのに今では体が動こうともしない。ただ、子供のころの懐かしさだけが浮かんできた。そして今日はアキを連れて歩いてもこの雨では蜩たちの合唱も聞けないかと思うと無性に寂しくなった。

 山頭火は「窓あけていっぱいの春」とも歌った。こちらは「窓あけて蜩遠のく雨」と詠んだ。夏の夕方は蜩の鳴き声がいい。カナカナカナ。哀れみのこもった澄んだ声に耳を傾けて歩く夏の夕べがいい。