風が秋風に変わった。朝。空は抜けるように青くても、風には冷たさを含み、爽やかさを通り越して肌寒いものとなった。明日25日は「大曲の花火」。いつもならこの花火が終えると「秋」の訪れを実感するのだが、今月初旬に、雨や曇り空が多かったせいか秋の訪れは例年より幾分、早まったようだ。ススキも目に入るようになり、銀色の穂を風になびかせている。
このススキ。子供のころは家から少し歩いた横手川堤防に行くと一面のススキの群生地だったし、学校に続いていた田んぼのあぜ道のあちこちでも見られたものだった。「豆名月」や「栗名月」となれば「ススキを取ってこいよ」と台所から母の声がし、兄と一緒に出かけたものだった。自分の背丈よりも伸びたススキを、はさみでパチパチと断ち切って手にしたあの茎の冷たい感触とほのかな青草の匂いは今も鮮明に覚えている。そのススキの原はこのごろさっぱり見られなくなった。探さないとお目にかかれないほどだ。堤防に行っても雑草は伸びると同時に刈り取られ、坊主頭にされる。一面、ススキの原っぱだった原野も牧草地にと生まれ変わった。秋の情緒が次第に少なくなったのは寂しい。ススキが身近に見られなくなったのは寂しい。
満月とススキ。東山からまんまるい大きな月が昇り、青白い光がさんさんと照りつけるのを見ながら南側の窓を開け、月見をした子供のころが懐かしい。あの当時の我が家は月の光が良く射し込んだ部屋の構造だった。花瓶に入れたススキを窓際に飾り、電気を消した部屋の中でロウソクを灯し、さらにはお盆に徳利(とっくり)とお猪口を載せ、それに枝豆と菓子を飾ってお月さまに献上したものだった。
月が東山から昇って、我が家の屋根の真上に来ると父と母は居間からススキを飾った座敷へと移動し、畏(かしこ)まるように正座して、ポンポンと柏手をうって拝礼したものだった。あの当時は月さえも神さまとなった。
父と母は満月に何を祈ったものか。商売繁盛か、それとも家庭の平和と安泰だったろうか。後継者として育てた長男夫婦に家を出られた時の精神的なショック。家庭の崩壊を心配して集まった親類の人たちや既に嫁いでいた二人の姉を前に「羽根を取られたトンボのようなものだ」とグチった父と母だった。小学校に入るか入る前の我が家の出来事だったが、長男とは父親ほどの年齢の違いがあり、その面影はぼんやりとしか記憶がない。ただ家を出る時、兄が自分の頭に手を置いて「マサオ。いい子でいろよ」と低い声で言い残したことだけは覚えている。家を出る兄には兄の苦しみもあったのだろう。そして何年かすると里帰りするようになったからやはり親子のきずなは切れたものではなかった。その兄も父が病気で入院中に亡くなった。葬儀に顔を出して、父に報告すると死を前にした父は「そうか」とたった一言、力なく頷いただけだった。
長男夫婦に家を出られた心の傷。その痛みからやっと立ち上がり、生計のめどを立てられるようになった父と母がまだ小学生だった自分たち兄弟を前に満月に祈ったのは、きっと家庭の平和と安泰だったかもしれない。
その月を眺めながら、3歳上の兄に「あのお月さん、天上からああやって下を眺めながら、どうやってこの酒を飲むんだろう。それにあっちの家だって、隣の家だって同じように酒をお月さんにご馳走するんだから酔ってしまわないか」と素朴な疑問をぶっつけた思い出がある。「バカ。お月さまは直接、酒を口にしなくても『おお。おれのためにあの家でもお酒を出してくれたか』と天上から見下ろして喜んでるんだ。そして願い事を叶えてくれるんだ」。そんなふうに言った兄の知ったかぶりの声が聞こえてくるようだ。
小さな庭からはスイッチョ(ウマオイムシ)やコオロギなど秋の虫、そしてカエルの鳴き声が響き、「じゃあ。おれもお月さまに祈ると願い事を叶えてもらえるのか」と兄に尋ねると「お前はまだ小さいから、お月さまも相手にしない」と顔をそらしたものだった。それでも時間を忘れて月を眺めたものだった。皓々(こうこう)と光り輝く月の光は黙って見ているだけで淡い幸福感を心の中に運んできた。
まだテレビもない時代で、楽しみと言えば貸本屋から借りてきた漫画に目を通し、それにあきると兄と将棋を差して、勝ったの負けたのと騒いだ月夜の晩だった。テレビがなくても楽しみはいろいろあった。トランプや花札遊びもあれば、将棋だって本将棋からカエル飛び、さらには4個の将棋の駒を将棋盤に放って、その結果次第で隅から隅へと「歩」を走らせ、位を「歩兵」から「香車」、「桂馬」へと順々に上げていくというゲームもあった。将棋箱を逆さにして箱だけをそっと持ち上げ、盤の上に重なるように残った駒を一個ずつ音を立てずに指で運んで、取れた数を競う遊びもあった。そんな遊びに耽っているうちに夜は更け、月も次第に遠ざかり、中天から青白く輝いた。
月夜の晩、兄とその仲間たちと影追いをしたこともあった。月の光りを受けて路上に落ちた影を踏み、踏まれた方が鬼となって相手を追うのである。まだ車のない時代で、道路はそのまま運動広場に代わった。走ると土埃を上げて、カランカランと鳴る下駄の音の響きが小気味良かった。逃げる相手の白いシャッツが月の光りを受けて青白くぼんやりと輝くのが幻想的でもあった。なぜか影追いへの参加者はみんな逃げながら、近くの神社へと走った。神社の境内には木立があり、その木の影へ隠れようと算段したものだった。静かなはずの夜の境内は自分たちのはしゃぐ声で鼎(かなえ)の沸くが如しの騒ぎとなった。
神社の境内はいつも子供たちの遊び場だった。カン蹴り、野球、かくれんぼ、釘打ち。いろんな遊びを考えついては木立から木立へと走り回ったものだった。時には女の子も参加した。女の子が参加すると男たちは盛り上がった。女の子たちが参加するのはいつも紙芝居のおじさんが来た日だった。紙芝居を見学し、その余韻を残したままかくれんぼ、カン蹴り遊びと続いたものだった。8月の夏休みの終わった寂しさはあっても、9月には9月の楽しさを見つけたものだった。
そのころ小学校で習った唱歌は「赤とんぼ」だったろうか「夕焼小焼」だったろうか。「赤とんぼ」も「夕焼小焼」もどちらも好きな唱歌だった。子ども心にも歌の悲しい調べと詩情性豊かさが琴線に響いたのだろう。音楽の時間にこの歌を全員で合唱するとなると張り切って声を出したものだった。ただ「赤とんぼ」の1番の歌詞「夕焼小焼のあかとんぼ 負われて見たのはいつの日か」の負われてはしばらくの間はだれかに「追われて」と勘違いし、なぜ追われてなんだろうと不思議に思ったことがある。3番の歌詞「十五で姐(ねえ)やは嫁にゆき お里のたよりもたえはてた」では歌いながらも目頭が熱くなったものだった。
あのころ、女の人がお嫁に行くと言うことはめでたいというよりも誰かに貰われて行ったもの、悲しいことなのだと想っていたのに違いない。だから「便りも絶え果てた」と悲しんでるのだ。そんな情感をこめて歌ったものだった。一方の「夕焼小焼で 日が暮れて 山のお寺の 鐘がなる お手々つないで 皆かえろ 烏と一緒に帰りましょう」はその情景が絵のように目に浮かんできて、歌っていても楽しかった。あのころの歌には情緒があった。豊かな抒情性があった。台風11号が秋田の空を通り過ぎて行った。そして明日の大曲の花火。秋の気配が一層、深まりそうだ。