こちら編集室「ガン検診」(9月21日)

 深い眠りの底にいて気づかなかったのだが、日曜日の朝には明け方に強い雨が降ったようだ。柴犬のアキに朝ご飯をやって外へ出たら、道路のくぼみにのあちこちに水たまりができていて、電線や黒い雨雲を鏡のように映し出していた。アキは雨の日だと散歩を嫌がる。それでもせめておしっこや便だけでも出させておかないと後で辛い思いをするだろうと外へ連れ出す。渋々と歩くアキの姿を水たまりは映し、自分の姿も映していた。道端には露草が雨に打たれて咲いていた。鮮やかな藍(あい)色だった。枝豆を半分にちょん切ったような小さな殻を破って、藍色のとても可憐な花を咲かせていた。一輪だけ手折って家に持ち帰った。

 雨上がりを待って再び露草の咲いている道端に足を運んだら、花はもうしぼんでいた。朝に咲いて、夕べには終わる短い花の命だった。そして次々と次の新しい花が咲いてくるようだった。短い花の命と言えば、今度のアメリカでの同時多発テロでも多くの方が短い命をまったく突発的に奪われてしまった。

 ひどい事件だと思った。テレビを見ていて「あの飛行機に乗っていた乗客は・・・。その家族は・・・。ビルの中の人たちは、残された家族は・・・」と何度も心の中でつぶやいた。ビルの窓から救いを求めて、手を振る人たちの姿があった。あの人たちは・・・。救いようのない映像にどうしようもなく胸が痛んだ。あまりにもひど過ぎる事件だと思った。

 「敵の最も愛する者を奪え」。憎しみ合うものの戦いの鉄則がこれだという。しかし、今度のテロで犠牲になった人たちにどんな罪があったと言うのか。誰にも愛する子や妻がいて、親がいて、結婚を約束していた恋人もいたはずだ。平和で豊かな生活を享受していたはずのこの人たちの生命を奪う権利は誰にもない。

 今度のテロの指導者とされるウサマ・ビンラディン氏は「いつ、いかなる時も、どこででも、ユダヤ人と米国人を殺害する」と宣言していたと言う。何がこの人物をこうもすさまじいほどの憎しみにかき立てたのか。宗教と民族主義の対立が生んだ憎悪とも言われている。人を幸せに導くはずの宗教が憎しみを生み、生命を奪い合うことを教えたとすればそれはもはや宗教ではない。まやかしだ。戦争は「感情」で始まるとされている。たった一人の憎しみの感情で6000人以上もの人の命が奪われた。それが宗教といえるだろうか。

 血も涙も肉親の情もない、あまりにもひど過ぎる感情の暴発だ。報復に向けて今度はアメリカが軍隊を差し向けることになりそうだ。ブッシュ大統領は言う。「これはテロではない。新しい戦争だ」。本当に戦争としか言えない無差別な殺害だった。アメリカの人びとの怒りと悲しみを癒すのは平和とは逆な手段を選ぶしか今は見いだせないことだろう。ただ犠牲になった人びとの悲しみと無念さが癒されることを祈る。

 田沢湖畔・御座の石で写す大腸ガン検診で、精密検査を要するとの知らせが届いたのは今月の5日だった。「まさか自分が・・・」と思いながらも翌6日朝には仙北組合総合病院に行って検査を受けるための手続きを取った。随分、多くの人が自分と同じような症状で病院を訪れているらしく検査の予約でいっぱいとかで、2週間待たされて昨日20日の検査となった。

 内視鏡の診断とレントゲン撮影の結果、「異常無し」と言うことでホッとしたが、検査の日が来るまでの2週間は、正直言って気の重い、まんじりとしない日々だった。「検査の結果、手術が必要で即入院となったら・・・」。体重がめっきり落ちたとか、食欲がなくなったとか、病気の徴候らしいものはないものの気になって仕方なかった。

 性格かもしれないが、悪い方へ悪い方へと思考は走ってしまい、気が滅入った日々だった。体調は悪くないのに下痢だけはずーっと続いており、やはりガンを疑うべきかもしれないと自分を追い詰めた。こうなると毎日飲むビールさえ苦みがあって、おいしさも半減した。そして詰まらないことにも気が回り、例えば玄関のモミジの枝が伸び放題になったのが気になっ
て、それを庭師に依頼して枝払いしてもらったのも、風呂場のボイラー室にアリがもぐり込んで敷居の下から木屑がこぼれ落ちているのもシロアリではないかと苦になって、大工を呼んでアリ退治を依頼したのも、自分が健康なうちにやってしまわないと一人残される妻が後で困るだろうとの配慮だった。この春から屋根のペンキの塗り替えを依頼していたのにまだ来ないことに焦って「いつになったらやってくれるんですか」と催促したのも、そのためだった。

 果ては本当に悪い病気だったら注文しても着ることも出来ないスーツなのに、せめても元気なうちにお世話になったお礼はすべきだとケンニチのスポンサーとなっている「大同衣料」へ秋から冬向けのスーツをお願いしようと注文に行ったのに、その日がたまたま休日に当たっていたのも「注文してもしょうがない」と言う運命の御告げだったのかと悲しくさえ思ったものだった。

 田沢湖町と西木村の町議選、村議選が告示された18日には田沢湖畔を走った。「検査の結果によってはこの湖を見れるのもこれが最後かもしれない」。そんな気分もあった。湖畔に車を止めて砂浜を歩き、海とは違った静かな波の音に耳を傾け、54年の人生が長かったのか短かったのかと静かにふり返ったものだった。

 そして19日、いよいよ大腸検診のための特別食の摂取となった。病院で買い求めた検査用の特別食は朝はおかゆで、昼はビスケット、そして夜もおかゆだった。いずれも消化を良くし、翌朝までに大腸の中を空にするためのものだった。もちろんお酒もだめだろうと諦め、一口も口にせず、ただ本を読んで過ごした。いつもお酒の勢いで眠っていたせいか、その夜はとうとう眠れず午前1時ごろまで小説を読み続けた。「検査は苦しいだろうか」。不安が湧いてはそれをかき消すかのように小説の中の活字を夢中で追った。

 翌朝は午前6時に起こされた。おかしなもので当日になると変に落ち着いてしまい、病院と言う普段とは違った環境の所に身を置くことが、幼いころ遠足に行くんだとウキウキしたあの心境に似ていた。そして約束の午前9時半までに病院の受付へ顔を出した。そこでしばらく待たされ、再び本に目を通した。何も考えない無我の境地だった。小説の中の主人公と一体となってストーリーを追っていた。10時に看護婦に呼ばれ、検査用の衣類に着替えた。そして内視鏡室へと案内された。

 ここでも大勢の患者さんが待たされていた。看護婦が寄ってきて「11時にレントゲン検査となってますので、こちらの検査が終わったらそちらへ案内します」と笑顔で話しかけた。天使の笑顔だった。恐れていた内視鏡での大腸検査は正直言って、胃カメラを飲むよりは楽だった。目の前にモニターテレビがあって、自分の大腸の内部がきれいに映し出された。赤いきれいな襞が鮮やかだった。その映像を見ていて「ああ。これはなんでもない」。自分でもそう思った。ものの数分だったろうか。診察を終えると医師が「心配ないですね。どこにも悪いところはありません」と宣告した。そして「念のためですから、次のレントゲンも頑張って下さい」と医師。

 レントゲン室に入ると「おう。伊藤さんじゃないですか」と声を掛けたのは消化器科を専門とする五十嵐潔診療部長だった。五十嵐先生とは以前に「大腸ガン」の講演取材で面識があった。講演を通じて大腸ガンに関してなら「この人」と万福の信頼を置いていた。その五十嵐先生が「伊藤さん。インターネット新聞、読ませてもらってますよ」とレントゲン室いっぱいに響くような声で言ってくれたのに恐縮すると同時に「ああ。これで自分のガンの疑いは完全に消えた」と思った。

 五十嵐先生は「どうした。ガン検診で引っかかりましたか」と言いながら、何ら苦痛のないまま大腸にバリウムを入れた。レントゲンを操作しながら「ハイ。横になって」「ハイ。仰向けになって」と次々に指示してはシャッターを切った。そして着替えた後、診察室で待たされ、再び五十嵐先生。写真を見せながら「下痢をするのは神経的なものと思います。大腸に関しては医学的な措置をしなければならないという問題は特別ありません」と嬉しい宣告を受けた。

 午後1時過ぎ、妻から携帯に電話が入った。「どうだった?」「ああ。何でもないんだって」「ああ。良かった。何でもないのね」。妻の声が喜びにあふれていた。急に空腹を感じ、病院の食堂に駆けつけた。ラーメンを注文した。格別な味がした。この味を味わえるまで随分、長い時間がかかったと思った。その夜に飲んだビールも格別の味だった。そしてお酒も、料理もすべて格別なうまさだった。2週間振りに味わった不安のない幸せだった。誰にも言えない不安が消えた夜だった。そして今年は胃カメラを経験し、さらには大腸でもカメラの診察を受けたおかげで、検査と言う医学への何となくあった不安が抹消した。