こちら編集室「雨の朝」(10月5日)

  「もう10月か−」とカレンダーをめくってため息をついた。10月1日。外は雨だった。「初日から雨か・・・」と窓を見つめ、再び大きくため息をついた。しかし「雨も悪くはないな」としっとりと濡れた庭の草木を眺めた。細く鋭くとがった緑の葉っぱの上で銀色に輝く雨粒があった。雨粒は真珠のネックレスのように一列に並んでキラキラと輝いていた。雨の日には雨の日らしい風情がある。雨の音を聞きながら歩こうと柴犬のアキを連れて外へ出た。

 朝夕の冷え込みがめっきりと深まったせいかこのごろは布団が恋しくて、目覚めても中々、布団の中から起き出せない。いつまでもグズグズしていると「起きなさい!」と叫ぶ妻の声に次第に怒気が含んでくる。とうに目覚めてケージから出され、妻の後を追ってじゃれついている小犬のパピヨンも「早く起きて遊んでよ」と甲高い声で叫んでいる。「今日も平和な朝を迎えたか」とやっと布団から飛び起きる。

 居間の方から温風ヒーターの温かい風がほんのりと寝室にも流れてくる。もう暖房を入れないと朝夕は耐えられない。そんな季節となった。「暑い暑い」と悲鳴を挙げ、半袖のシャツで過ごしたあの夏の日が信じられないような気分だ。背広も夏物から秋冬物へと変えた。

 布団が恋しいと言えば、子どものころも秋の冷え込みが厳しくなり、さらに冬を迎え、次の春が来るまでは朝、「学校へ行く時間だよ」と大声で起こされても布団から抜け出せず、「いつまで寝てるの!」と母からよく叱られたものだった。

 学のなかった母は学校と言う場を神聖視し、学校に遅れることは罪悪のように嫌った。風邪や腹痛で休むことになった時は仕方ないにしても、普段は絶対に学校には遅れてならないと厳しかった。こちらも特段、勉強好きではなかったが、学校に遅れることだけは嫌だった。一度だけ授業に遅れて教室に入った時の先生の冷たい視線、学級仲間の好奇な目線にさらされ、とても居づらい思いをしたからだ。

 学校と言えば思い出されるのは運動会や学芸会で食べたゆで卵のおいしさであり、料理のカンテンの甘さだ。ゆで卵とカンテンと海苔巻きの寿司ご飯がいつもセットだった。走るのが苦手で運動会は嫌いだったが、お昼に運動場で家族が車座になって食べた料理、学芸会の日に体育館で食べたお昼。重箱の中にびっしりと詰まった料理は、どれも忘れられない味だ。特にゆで卵のおいしさは格別だった。堅い殻を破り、真っ白な卵を手にした時のあの幸福感。白身だけを先に食べて残った黄身をソッと口にした時のとろけるような甘さ。一つ食べるだけでお腹がいっぱいになるのにいつも2個は口にした。

 ススキに止まったトンボ学校での成績はいつもごく普通だったような気がする。秀才肌の同級生が男子に2人、女子に2人いたと思うが、こちらは彼らと競争する意識はまるでなく、ただぼんやりと教えられたことをノートに書き、頭に詰め込むだけだった。競争心を自分であおるような意地があったらもっと違った人生を歩んでいたかもしれないが、今思うとこの平和でのんびりした日々も悪いわけではないと子どものころを懐かしむ。

 小学校で撮った集合写真をいつだったか亡くなった母のタンスの隅から取り出して見たことがある。みんなしかめっ面して真っ正面をにらんでいる。誰一人として笑顔を見せてない。男の子は坊主頭、女の子はおかっぱだった。どうしてこうもみんな顔をしかめ、暗い影を背負っていたものかと一葉の写真を手にとって、しみじみと眺めた。女の先生だけが少し、優しく微笑んでいる。思い出すとあのころはみんな貧しい生活だった。生活が貧しいから、その貧乏くささが顔にまで出ていたのだろう。そう思った。

 その点、今の子どもたちの顔を見ていると、とても明るい。みんなきれいな顔をしている。着ている洋服もおしゃれだし、自分の子どものころのようなよれよれのズボンをはいている子どもなんて一人もいない。学校に取材に行く機会があって、同年配の先生たちと自分たちの子どものころの話をすることがある。「あのころの記念写真を見るとみんな暗い顔をしてますよね」とこちら。「そうそう。小学校時代のアルバムは今も持ってるんですが、みんなキカネー(わんぱくなと言う意味か?)顔してました。その上苦虫をつぶしたような目つきでカメラをにらんでるんですよね」と相手も応じた。そしてお互い「もう遠い昔ですね」と過ぎ去った時間を懐かしんだ。

 ランドセルを背負って通った小学校は鉄筋コンクリートの建物に変わり、田んぼの真ん中を通っていた細い砂利道の通学路は拡幅され、立派な舗装道に変わった。田んぼしかなかった所に統合された中学校が建ち、その向いは住宅地と変わった。自宅から学校までは1キロほどの道のりだった。今も犬を連れて時々歩くが、変わってないのは遠くの山並みの風景と立木の杉だけであり、学校近くの家々はみんな新しくなっている。

 小学校時代も中学、高校時代も女の子と話すのは苦手だった。人よりませていた面もあったのかもしれない。二人の姉はいたが、どちらも親子ほどの年齢差があり、自分がもの心ついたころはとうに嫁いでいた。男兄弟の中で育ったせいもあって、女性の扱いが知らなかった面もあるのかもしれない。とにかく登下校時に後ろに同級の女の子がいれば足を早めたし、目の前に女の子たちの列があれば歩行をゆるめ距離を置こうとした。

 それでいて性に無関心だったわけではない。思い出すのは尾崎士郎の小説を映画化した「人生劇場」の一こまである。主人公でまだ少年だった瓢吉が幼なじみの少女が貰い湯に来て風呂に入ろうとする姿を簾(すだれ)越しに見つめるのだが、その美しい濡れた輝く裸体に驚きの目を見開き、脳裏に焼き付けるシーンがある。映画を見たのは中学校に入ってからだったと思うが、スクリーンの中とは言え、女の人の裸体の美しさにこちらも呆然としたものだった。初めて見た女性のヌードだった。それは清楚な恥じらいの姿でもあった。ストーリーはほとんど忘れてしまったのに未だにそのシーンだけは鮮明に記憶に残っているから、中学生の自分にとっても初めて見た女の人の裸体の美しさはよほどのショックだったのだろう。

 今では週刊誌を開くと若い女の子たちのヌードの洪水だが、自分にとっての女性の美しさの原点は今もあの映画の入浴シーンである。それだけに週刊誌の中にあふれる女性のヌード写真を見るとどうしても別な生き物でも見るような感じで見たいとも思わない。ともかく女性を苦手とした自分が今では困ったほど苦手としない。お酒を飲むとほどほどの駄洒落で楽しませる才能も身につけた。相手が心底喜んでいるのか、迷惑がっているのかは分からないが。

 新聞記者を体験したいと、3日間の研修を受けた西木村の西明寺中学校の女子生徒2人からお礼の手紙が届いた。「普段ではできない取材や原稿書きができて本当によかったです。角間川小学校のパレードの取材では記者の大変さなど改めて知りました。全部、よい経験になりました」とあった。彼女たちは今、職場体験をまとめているところだとか。

 彼女たちは3日間、記者として随分、いろんな所を歩いた。いろんな人にも会った。そして原稿書きにも苦労した。特別なことをしてやれたわけではなかったが、2人にとって貴重な思い出になってもらえれば嬉しい。漢字に気をつけたのだろう。一つの誤字も見つからず、可愛らしい文字が躍っているようだった。原稿書きで注意したのは漢字を使うところは使うべきだという指導だった。会社に彼女たちからのお礼の手紙が届いた晩は雨も上がって満月だった。東山から昇った大きな月が、皓々と当たりを照らした。明日は晴れてくれるかと念じながら秋の月を眺めた。長い雨の一日だった。