秋は生れたばかりの朝の光景を楽しませる。冷え込みは日を追って厳しくなるばかりだが、早起きが苦手で夏には見たくても見られなかった朝焼けが、このごろではいつでも目にすることができ、その美しさに感動する。薄紫色のシルエットに翳(かげ)った東山の稜線を布団のように包んだ雲の群れを茜色に染め、金色の光りを剣のように突き刺して昇ってくる太陽の見事さはどうだろう。表現する言葉が浮かばず、ただ息を飲むだけだ。天空にはまだ月が浮かび、朝と夜の交代を告げる。生れたばかりの朝を拝み、新しい朝の空気を吸う楽しみが秋にはある。
何を語ろう−。言葉に詰まり、思考にも詰まって「院内銀山に行ってみよう」と16日朝、枯れ葉のような気分のまま車を走らせた。山形県の県境に近い南の果てへ60キロ。雄勝郡雄勝町にはかつて、銀の生産で日本一を誇った「院内銀山」跡がある。1954年(昭和29年)に約350年の山の歴史に幕を閉じたが、銀の産出で日本一を記録し、空前のシルバーラッシュを迎えた藩政時代の天保4年(1839年)には3000人以上もの人びとが銀山で働き、暮らしていたと言う。
しかし、今はその面影は微塵もなく、一人で訪れた銀山跡は鬱蒼とした杉を中心とした渓谷で、当時の繁栄をしのばせるのは無数の墓地と高台にひっそりと建つ金山神社、そして明治天皇が足を踏み入れた「御幸坑」が見られるだけだった。音と言えば雄物川の源流と言われる銀山奥地の「大仙山(920メートル)」から流れる沢水の音だけで、一人で歩くには寂しだけが募る静けさだった。
国道13号線から5キロほどの山奥だった。銀山で働き、名もないまま無縁仏として葬られた墓地は3000基を超えるとかで、その無数の墓地を見ているうちに背筋がサワサワし、里の香りと人恋しさに、手を合わせただけで逃げるように銀山跡から立ち去った。 「院内銀山」跡を訪ねて見ようと思いついたのは、田沢湖町のわらび座民族芸術研究所長の茶谷十六さんの著「院内銀山の日々『門屋養安日記の世界』」を手にしたのが切っ掛けだった。まだちょっとだけ目を通しただけだが、今から166年前の天保6年(1835年)から明治2年(1869年)、養安が78歳の老境に至るまで35年間にわたって日記を書き続けたと言う、その息づかいに触れてみたいと思ったからだ。
銀山跡に入る前に院内駅に再現した「異人館」に立ち寄った。平日のせいか訪問客は自分だけで、受付の女の人が「アラッ。お客さんだわ」とばかりにあわてて別室から駆けつけ、「ごめんなさい」と受付を留守にしていたのを詫びながら観覧料を受け取り、資料を差し出した。そして「展示室は2階ですから」と手のひらを向けた。見学は初めてではなかった。平成元年(1989年)のオープンとあるから、そのころにも一度、中に入ったことがある。
資料室には銀山近くの国指定文化財「岩井堂洞くつ」から発掘された縄文時代から弥生時代の土器や土師器をはじめ、銀山の繁栄を今に伝える明治中期の銀山町の様子を写した写真、銀を含んだ鉱石、坑内の様子を描いた絵などがあって興味深いものだった。明治28年ごろに撮影した銀山町中心部の写真はビッシリと家屋が立ち並んでおり、当時の活況を伝えてくれた。
一通り見て下に降りると先ほどの受付の女の人が「どうぞ。お休み下さい」とお茶を用意し、「今、雄勝町のビデオをお見せしますから」とテレビのスイッチを入れた。本音を言えば、テレビの音でじゃまされたくはなかった。頂いた資料に目を通し、それから銀山跡に行きたかった。しかし、せっかくの親切を無意味にもしたくなく、映像に目をやり、資料をひもといた。気がついたら午後1時近かった。
「近くに食堂はありますか」と訪ねたら、すぐに「院内銀山異人館周辺の観光案内マップ」を取り出し、そこに鉛筆で4カ所の食堂やレストランの名前を記した。「めん類を食べたいのですが」と希望したら「ならここはどうでしょう。おいしいと言うので評判ですよ」と目を細めた。「ほんとう?」。「ええ」。その自信タップリの笑顔が良かった。
そして訪ねた銀山跡だった。史跡案内の看板を見つけ、国道13号線から左に逸れて走った。山沿いの道を走っても走っても銀山跡らしい面影はなく不安を感じたが、5キロ近く走ってようやく「院内銀山跡地」の看板を見つけた。いよいよ本格的な山入りだと緊張したが、道路は細く曲がりくねっていながらも舗装されており、不安は消えた。しかし杉の林はいっそう深く、寂寥(せきりょう)とした孤独感を募らせるばかりだった。多分、雨の日ならその薄暗い光景に途中で引き返したことだろう。それほどの静寂と鬱蒼とした杉の山々だった。途中に墓地が見えた。それを横目に車を走らせ、行き止まりの広場で止まった。ちょうどそこが明治天皇が足を踏み入れた「御幸坑」跡だった。天皇行幸を伝える巨大な石碑が建ち、坑道そのものは木の柵でふさがれていた。
近くには銀山繁栄を祈って当時の秋田藩が建立した「金山神社」があるだけで、ここがかつて大鉱山町として繁栄を誇ったとは信じ難い光景だった。人の気配はまったく感じられず、山の静けさ、水の流れに耳を傾けるしかなかった。無人の小さなお寺のような建物があり、そこにも小さな墓地があちこちにあった。携帯電話を手にしたら「圏外」のメッセージだった。誰にも連絡しないまま入った山の中で「もしものことがあれば連絡の取りようもない」。ゾッとし、急いで車に乗った。そして再び先ほどの墓地園に戻った。それこそ無数の墓地が苔むし、風化し、立ち並んでいた。
かつては荒れるに任せていたが、その壮絶な荒れ様に地元の老人クラブがしのびないと雑草を取り払い、手入れするようになったと墓地の看板には書かれてあった。観音像が名もないまま無縁仏として葬られた人たちの霊を慰めていた。
茶谷さんの「院内銀山の日々」によれば養安が日記をしたため始めた天保のころは銀の産出量が絶頂期を迎え「天保の盛(さか)り山」とたたえられていたと言う。銀山お抱えの医者であり、そして宿屋も経営していた養安。養安の宿以外にももう一軒の宿があり、山の中の入り組んだ谷間のわずかな土地に220軒の家々が立ち並び、そこに3000人以上もの人たちが暮らしていたと言う。そしてその人たちに米や野菜、魚、塩、酒など生活物資を供給する商人の出入りもあり、銀山町は一大都市として殷賑(いんしん)を極めたと茶谷さんは語る。明治に入って14年(1881年)9月21日、天皇が東北巡行の際、銀山に立ち寄り、坑内に足を踏み入れたのもそうした銀の産出が国内経済に大きな影響力を与えていたからだろう。
せっかく足を踏み入れた銀山跡だったが、結局は多くの死者たちの墓地を眺めるだけだった。当時の銀山で働いていた人たちはその過酷な労働と鉱山内の湿気と鉱石粉塵で身体が侵され、よろけと呼ばれた珪肺病で死ぬ人が多かったと言う。30歳を過ぎると長生きしたと祝ったほどだったとか。
まだ少しだけ目を通しただけだが、過酷な労働を強いられたとは言え、茶谷さんの「養安日記の世界」からはその暗さはあまり感じさせない。銀山での日々を淡々と記録しているのだ。これはだいぶ前に聞いた話だが、銀山で働く人たちは例えどんなに短命と言え、他の仕事に就く人たちに比べればとてつもないほどの収入を得、食べ物も娯楽も豪華であり、彼らは太く短く生きるのを楽しんだとか。そうかもしれない。養安の日記には時々、豪華な宴の様子も登場する。
ともかくブラッと訪れた銀山跡地だったが、そこに秋田藩を経済的に支えた歴史があったことだけを胸に刻んで帰途についた。雄勝町は平安の歌人で、世界三大美女と称される平安の歌人「小野小町」のゆかりの地でもある。帰りには小町を祀った「小町堂」に寄って、可能であればそのような美女との出合いを願った。いや、平安な日々であることを祈った。