すべてが赤茶色の世界だった。晴れた日、六郷町の黒森山への登山道を走った。燃える秋は終焉し、赤茶色に染まった木の葉が風に追い立てられるようにヒラヒラと舞っては散っていた。音もなく散る木の葉の舞いを見ながら、山の中腹に整備された公園の道を歩いた。落ち葉を踏みしめ、人の気配さえ感じられない山中の公園を一人で歩くのは寂しいものだ。だが、思い出だけは紡ぎ出せると歩いた。ひんやりとした空気、寂寞とした光景は心をすくませた。
枯れ野を眺めた。ススキが風になびいていた。ため池の水は吐き出され、空っぽになっていた。低い木立はすべて雪囲いに覆われ、すっかり冬の準備を整えていた。赤茶色にさびた山の光景は宴の後の寂しさだった。しかし、言葉では言い表せないが日本画を観るような“わび”と“詩情”があった。落ち葉を数枚、かき集め、手のひらでその感触を楽しんだ。落ち葉からも温もりが感じられた。乾いたカサカサした弱い音は、秋の終わりを告げるパーカッションの響きのようだった。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角(かど)が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
こう書いたのは夏目漱石だった。自分もその日、山路を歩きながら考えたいと思った。だが、凡人の悲しさ。赤茶けたススキの葉を見ても、コナラやブナ、カエデの木々を見ても、落ち葉散る姿を見ても、歌の一つも浮かんで来なかった。
ただ、腹立たしくなることが一つあった。公明党が言い出した衆院の選挙制度改革である。「今の小選挙区制では我が党にとって著しく不利であり、中選挙区制に戻せ」と駄々をこね始めた出来事である。自民党の幹部も連立相手の公明党に配慮して、一部に中選挙区制を導入しようとしたが、さすがに党内からも「邪道だ」と反発の声が高まって1年間の先送りになった。当然のことだ。
みんなで賛成して中選挙区制を改正し、小選挙区制で衆院選をやった結果、公明党が大幅に議席を減らした。だからもう小選挙区での選挙はやりたくない。もう一度、前の制度に戻してもらいたいではあまりに身勝手ではないか。まるで野球をやっていて9回裏ツーアウトで負けを目前にしたチームが突如、「ルールを変えろ!」と言い出したようなものだ。昔のがき大将の発想そのものだ。
米軍のアフガンへの軍事行動が始まり、その後方支援のためのテロ対策特別措置法を巡って、国会が侃々諤々(かんかんがくがく)している最中に言い出した選挙制度改革。世界中の耳目がアメリカで発生したテロと炭疽菌問題、そしてアフガン情勢に注がれ、さらには自衛隊を外国に派遣しようとしているこの時期にである。
しかも国内は未曾有の不況で倒産、リストラ、解雇が相次ぎ、多くの国民は生活に不安を抱いていると言うのに党利党略しか考えない政党があっていいものだろうか。それこそ「情に棹をささず、智に働き、意地を通す」やり方だ。危険を侵して海外に派遣される自衛隊員、その家族の気持ちを考えたことはあるのだろうか。会社を解雇され、路頭に迷っている多くの国民の生活を考えたことはあるのだろうか。
今は自分たちの選挙制度云々よりもアフガン問題、海外に派遣される自衛隊員の安全、そしてこの不況をどう建て直すのか、さらに狂牛病の発生で経営がひっ迫し、死活問題となっている畜産農家や精肉関連業者への救済策などを第一番に考えるのが政治の道ではないだろうか。自分たちの選挙のことしか頭にない政治家なんていらない。
山路を歩きながらその寒々とした光景の中にいつものようなロマンに浸ろうとしたが、毎日のように報道される選挙制度改正の身勝手さが思い出され、ただ腹立たしくなった。白樺の木が秋の日を受けて輝いた。落ち葉が風に吹かれて渦を巻いた。カサカサとささやく落ち葉の声を聞いていたら、なぜか絵画を見たくなった。大曲市に戻って、図書館に入った。「世界美術大全集」を手にした。レンブラント、ドガ、モネ、ルノワール、セザンヌ。印象派の画家たちの絵に触れ、心と目の洗濯をした。絵を観ながら、亡くなった画家の小野則夫さんを思い出した。写真のように稠密(ちゅうみつ)な絵を描く人だった。一枚の絵を完成させるごとに自分の生命を削っていく、そんな描き方をする人だった。
「伊藤さん。オレ、オレ、きっと自分の絵がもっともっと高く値段が付くように頑張るよ。オレが伊藤さんに恩返しできるのはそれしかないから」。まだ絵があまり評価されてない時に小野さんから一枚の静物画を買い求めた。カラスウリを描いた絵だった。良く我が家に遊びに来てはお酒を飲み、泊まった仲だった。その小野さんが憧れ、最も愛したアメリカの画家がいた。アンドリュー・ワイエスである。全集からその画家の絵を探した。小野さんが愛したのはワイエスの描いた「クリスティーナの世界」と題した絵だった。その絵が画集にあった。
アンドリュー・ワイエスが身体に重い障害を持った少女「アンナ・クリスティーナ」をモデルに描いた絵だ。草原に腰を下ろし、細い腕で上半身を支え、足を引きずり、這うようにして地平線の向こうに建つ農家を目指す少女の絵である。後ろに束ねた髪が風になびく、少女の後ろ姿が痛々しい。絵を見つめた。網膜に焼き付けとばかりに眺めた。歩けない少女の後ろ姿は何を語っているのだろう。腰の丸みがあやしいほどつやっぽかった。少女の目から見える農家は地平線の遥か向こうだ。アンドリュー・ワイエスは両腕で上半身を支え、這うように足を引きずる少女の後ろ姿を見つめ、絵筆を執った。
絵を見つめていたら、ワイエスの悲しみが伝わってきた。悲しいが、とても美しいドラマが伝わってきた。ワイエスはこの絵を涙で濡らしながら描いたのではないだろうか。そう想像した。
「伊藤さん、オレ、オレ、アンドリュー・ワイエスが好きなんだ。あの絵描きがオレの憧れの的なんだ。あんな絵を描きたいよ」。画集を観ていたら40代で絵を描きながら、絵と共に亡くなった小野さんの早口でしゃべる独特のリズムと声が聞こえてきた。小野さんにはその後、専属の画商が付き、東京、仙台、秋田市などで個展を開き、絵には破格の値段が付くようになった。その時も小野さんの絵を一枚買い求めた。小野さんは背を丸めながらも「伊藤さん。ありがとう」と細い目をより細め、少し寂しげな笑顔を浮かべたものだった。
小野さんの絵は著名な美術評論家からも高く評価され、その画才と技法で一歩一歩、確実に芸術家としての道を歩み出していた。しかし、運命の糸は小野さんの最高傑作とも言える「ドクダミ」の絵を完成させてプッツンと切れた。もっと長生きしていたら小野さんの絵は自分には手の届かない作品となっていただろう。晩秋の山を歩き、選挙制度改正論に腹を立てたが、絵によって心は洗い流された。絵画は観るものに安らぎを与える。