こちら編集室「山形へ」(11月16日)

 山形県天童市は、大曲市からほぼ150キロの距離にあった。天童市と言えば将棋のまち、温泉のまちとして知られる。天童市を訪ねるのはもう何年ぶりだろう。指折り数えようとしたが、記憶はよみがえらなかった。多分、天童市近くの山寺へ向かう途中に寄った程度かもしれない。それにしても秋田県も含め、県境の院内トンネルを抜け、山形に入ると左右の山々は紅葉の季節が終わり、一面の赤茶けた「わび」の世界だった。カラマツの茶色と杉の黒々とした緑のコントラストが見事だった。両日とも青空に恵まれ、快適なドライブだった。ただ、150キロ近くの距離を一人で走るには長過ぎる時間だった。10日、自宅を出たのが午後1時近く。天童市に着いたのは夕方の4時を過ぎていた。

 天童温泉街の中の日本庭園の宿「紅葉苑」。そこがSPER2001inYamagata「教育と地域の情報化を考えるシンポジウム」の会場となっていた。この催しは東北学術研究インターネットコミュニティ(TOPIC)の主催で、1999年3月13日に福島市で第1回目が開かれたのが始まりで、その後、同じ年の11月に岩手県花巻市、そして昨年6月には田沢湖町の「たざわこ芸術村」で3回目、11月には宮城県で4回目が開かれ、今回で5回目だった。

 TOPICは東北地区の学術研究、教育活動を支援するコンピューターネットワーク環境の発展に貢献することを目的に10年前に発足したものという。激動のIT革命時代を迎え、東北の新しい未来を見据えるには地域から優秀な人材を輩出し、地域のために活躍できる環境を整備する必要があり、そのためには学校間の壁を越え、行政、市民が意見交換し、議論することが大事だとして始まった。今回は主催団体に「総務省 東北総合通信局」と「山形県情報化推進協議会」も加わっての開催だった。そして共催団体に山形大学や山形大学総合情報処理センター、山形大学共同研究組織、財団法人コンピュータ教育開発センター、東北芸術工科大学も名を連ね、東北各地から120人ほどの教育関係者が集まっていた。

 写真は山形と秋田の県境付近で撮影シンポジウムの開催は午後1時からだったが、自分の発表時間は午後9時からとのことで、それに合わせての天童行きだった。第一部では「開かれた学び環境を育む地域コミュニティの創造」と題してのパネルディスカッションで、着いた時点でもそのディスカッションが広い宴会場を会場に続けられていた。ボランティアの方々なのだろう。人の出入りで混雑する場に受け付けがあって、4〜5人の男女がいた。「大曲から来ました。秋田県南日々新聞の伊藤です」と申し出ると「ああ。発表者の方ですね」と名札や資料が手渡され、宿泊室の部屋番号を教えられた。

 受け付け会場では教育用に開発したソフトを見てもらいたいと協賛メーカーのデモンストレーションも行われていた。その一角を借りて手にしていたパソコンの電源を入れ、読者から送られてきた「時流彩々」の編集に取りかかった。終えてから発表方法に付いて相談したいと受け付けの女の人に話をしたら、「担当の方を呼んできます」と岩手県立総合教育センター情報教育室の石橋和彦さんが紹介された。

 相談したいと思ったのは、事例発表が始まったら会場の2カ所のスクリーンにビデオプロジュクターを使って、発表内容の映像が映し出されていたからだ。可能であれば自分も原稿をただ読み上げるだけでなく、「秋田県南日々新聞」の画面を公開し、みんなに紹介したかった。与えられた時間は20分だった。石橋さんは第二部の東北各地からの実践報告の司会を担当しているとかで「インターネットへも接続されており、県南日々新聞の画面を映すのは簡単です」と言い、「実践報告して下さる7人の方の内容を事前に目を通させてもらいましたが、伊藤さんの内容にはとてもドラマがあり、感動させられました。皆さん、きっと喜んでくれるでしょう」と励ましてくれた。話し慣れてない自分にはそのひと言がありがたかった。

 ただ、書いた文章量からして果たして、20分間で読み上げられるかどうかが不安だった。それに事前に渡しておいた原稿の他に外国のソフト開発メーカーから送られてきた小切手の件も石橋さんに話をしたら、「それはすごい。ぜひ、それも発表してもらいたい」となった。結局、話す内容は参加者全員に手渡していた資料に目を通せば分かることであると言うことで、子どもたちの漢字能力の低下については割愛し、ケンニチの「こちら編集室」が日本語ソフト開発のための研究素材として使われることになったことを報告することにした。

 第一部は午後6時半に終わり、45分から8時まで夕食を兼ねた宴会とのことだった。事前にメールで送られてきたシンポジウムの日程を見た時は、主催者側には本当に申し訳ないが、正直言ってうんざりだった。午後1時から始まって、自分の発表が午後9時。最後の発表者が登場するのが深夜の10時だというからだ。シンポジウムなら、お酒も飲まずに夕食だけを軽く済まして、すべての日程が終わってから宴会の飲み会開催かと思っていた。

 こうした時の普段からの酒飲みの人間は情けないが、意地汚い。「酒も飲まずに出番が来る夜中までただジッと待てと言うのか」と腹の中でグチったり、恨み言を独白したりした。だが、45分から宴会と言うから「少しぐらいは飲めるだろう」との期待はあった。もしもお酒も出ない夕食会ならどっかへ雲隠れして、自分一人だけでも一杯やろう。そんな心づもりだった。
 与えられた部屋は石橋さんと同席だった。「自分はもう酒飲みなんで、この時間になると家では一人で宴会をやってるんです」。グチるように言ってしまった。石橋さんも「私も同じですよ。間もなく宴会ですから、行きましょう」。「あのー。お酒も出るんですか?」。「ええ。出ます」。その声にこちらはたちまち元気を取り戻し「そうなんですか。じゃあ、早く行きましょう」。石橋さんを追い立てるように会場へと足を運んだ。「お酒も出ます」のひと言にいやしい自分はあの時、どんな顔をしたことだろう。思い出すと赤面だ。ともかく宴会場に行くと100人前後の人たちがお膳を前にそれぞれ陣取り、運ばれるビールをくみ交わし始めた。ホッとした天童市の夜となった。

 宴は予定通り午後8時には終わり、第二部が始まった。発表前だけに本格的に酔っぱらうわけにはいくまいとお膳の料理を口にし、遠慮がちに飲んだビール、酒だった。封筒の中に入れておいた原稿を取り出し、朗読の練習を始めた。20分以内に終えるかどうか。時計を横目に、早口でもだめ、ユックリ過ぎてもだめと自分に言い聞かせ、廊下の片隅で朗読をしてみた。外国から送られてきた小切手の話しもある。その分の内容は、急いで別の紙に手書きをした。それも合わせて読み上げた結果、どうにか20分以内に収まることを確認した。

 やっと自信が沸いてきた。しかし、話す内容に合わせてケンニチの画面を変えるにはどうするか。話しながらパソコンをにらめ、画面を変える余裕はあるだろうか。あれこれ思いを巡らした。ボランティアで受け付けにいた女の人に相談したら「私がパソコンを操作しましょうか。ケンニチには目を通しておきましたから、伊藤さんの話す内容に沿って画面を変えることは出来そうです」とおっしゃってくれた。これで二人三脚で話すことが出来ると喜んだ。その女性は福島県からの参加だと言う。何よりも嬉しかったのは見知らぬその女の人までもが、印刷されたプログラムの発表内容を見て、ケンニチに関心を寄せ、ケンニチに目を通しておいたと言う点だった。

 午後9時。自分の出番が来た。椅子に座って原稿を手にした。少々、浮ついた自分の声が響いた。もう逃げられない。ただ読み進めるだけだ。正面を見据え、話し始めた。黙ってこちらの報告に耳を傾けて下さる多くの目があった。20分はあっと言う間に過ぎた。「ケンニチは今日でアクセス数が59万を超えました」。その報告に聞いていた石橋さんは「59万ですか。すごいなー」と目を見張った。外国のソフトウエア開発メーカーと契約書を交わし、その報酬として小切手が送られてきた最後のエピソードの報告にはみんな驚きの表情で、スクリーンに映し出されたその英文の契約書と小切手を見つめていた。嬉しかった。とにかく自分は役目を無事果たせたと思った。

 全員の報告が終わって午後11時となった。今度は抽選で景品が当たるジャンク大会とか。その会場に移動中、自分の発表を聞いていた方から「伊藤さん。正しい日本語を守るために、これからも頑張って下さい。実践報告は励みになりました」と言われた。素直に「ありがとうございます」と言えた。賑やかな会場にいるより一人になりたかった。部屋に戻って静かに祝杯を挙げたいと会場を後にした。冷蔵庫からワンカップを取り出し、一人でお酒を味わった。冷たい酒がのどを潤した。いい酒だった。どっと疲れが出た。温泉に浸かって、早めに床に入った。すぐに眠りが来た。

 シンポジウムに参加した聴衆翌朝は天童市内を少し歩いてみようと思った。ホテル近くに「天童オルゴール館」があり、ホテルの従業員も「ぜひ、寄って見て下さい」と観光を勧めた。国道13号バイパス沿いを地図を手にぶらりぶらりと歩いた。5分ほどで観光施設「わくわくランド」が目に入った。オルゴール館はその一角にあった。

 入館料を払って中に入ったら、ちょうどオルゴールの演奏が始まっていた。世界の珍しいオルゴールを集結したと言う。昔のヨーロッパで大道芸人が使ったと言うストリートオルガンの演奏があった。扇と花を手にした日本人をかたどった、からくり人形オルゴールの演奏もあった。人形は日本人に似ているが、エキゾチックな目と鼻は、どこか異国人を思わせた。ピエロがランプの下で母当てに手紙を書く、そうした仕種をする人形のオルゴールもあった。案内嬢がランプに火を灯した。ランプは明るくなったり、暗くなったりする。その明かりに合わせてピエロが手紙を書きながら、居眠りすると言う芸の細かさを演じて見せた。

 別室に移るとパイプオルガンの自動演奏も聞けた。ペールギュント組曲の「朝」が演奏された。聞いていて左目から涙がこぼれ落ちた。夕べの実践報告の成功、そしてそうした場へ呼ばれたおかげでこうした見学もできる。左目からこぼれ落ちた涙は、幸せな涙だった。エジソンが発明したと言う蓄音機の展示もあった。アンティークな美しさはたまらなかった。お土産売場では様々なオルゴールが販売されていた。目移りする中、お土産になりそうな品を手にした。

 オルゴール館から将棋の館へと足を運んだ。天童市は将棋の駒の生産地で有名だ。どんな将棋の駒があるものか、興味津々だった。しかし、販売されているその駒の値段に目をやって驚いた。15万円、25万円、中には100万円と言った代物もある。確かにそうした高級品に目をやると単なる将棋の駒と言うよりも職人が腕によりをかけて製作した意気込みが感じられた。一種の芸術作品と言ってもいい。5000円前後の品もあって、欲しいと思ったが、自宅に帰っても将棋の相手をしてくれる人はいないし、宝の持ち腐れにしてもしょうがないとただ観るだけで後にした。

 お昼前には天童市を発って、秋田へ向かった。いろんな人の顔が浮かんだ。直接、話をしたのは石橋さんと自分の発表を手伝ってくれた福島県から来たと言う女の人だけだったが、目に浮かぶ顔はみなどこか懐かしかった。会場であいさつされた方の言葉がよみがえった。「インターネットのおかげで、地域の壁を越えた人と人との交流ができるようになった。これが一番の財産です」。自分もインターネット新聞のおかげで今、その喜びを味わっている。さきほどケンニチの「読者の広場」を拝見したらその福島県の女の人が顔を出されていた。渡辺景子さんというお名前の方だった。渡辺さん、ありがとう。本当にあの節はお世話になりました。ケンニチは10日の夜を思い出しながら、この稿を書き上げました。