死の悲しみとは日を追って深まるようだ。秋田民報社と言う地方紙の記者として入社以来、お世話になった先輩記者の熊谷十郎さんの葬儀は29日に終えた。遺族の方から「弔辞をお願いできますか」と言われ、その大役を無事、果たしたものの終わった今は心の中にポッカリとさらに大きな空間が生れたようで寂しさが募るばかりだ。その隙間を何で埋めようか。どうしたら埋められるものか。今朝、柴犬のアキを連れて空を仰いだら、雲量は100%だった。空一面に重い鉛色の雲が広がっていた。熊谷さんはその空の向こう、ずーっとはるかな向こうへと旅立った。暗い雲を見上げたら、熊谷さんがこの世から消えた寂しさと悲しさがいっそう、深まった。
熊谷さんは26日夕方、心筋梗塞で自宅で倒れ、救急車で病院に運ばれたものの今度だけは手当てのかいもなく急逝した。まだ68歳の若さだった。それまでも3度、軽い脳梗塞で倒れ、その都度、病院に運ばれ、病を克服してきただけに遺族の方も「今度もきっと元気になって帰ってくる」と信じていたという。それだけに遺族の悲しみも深いことだろう。
火葬となった28日、柩を送り出す時の奥さまの「お父さん。さようなら」と言って泣いた声が悲しかった。柩に縋り付くようにして「お父さん。お父さん」と泣き崩れた二人の娘さんの姿が痛々しかった。部屋中に響いた二人の慟哭する声が悲しかった。
26日夜、熊谷さんの死の知らせを電話で受けた時は自分の耳を疑った。何かの間違いだろうと思った。知らせてくれた会社の同僚に「なぜ、なぜ!。熊谷さんが」と強い口調で怒鳴った。「冗談じゃない!」と腹立たしかった。同僚は「なぜと言われたって、死んだというんだから」と戸惑いの声を上げ、「とにかく熊谷さんの家に顔を出してくる」と電話を切った。
こちらも急いで熊谷さんの自宅に駆けつけた。既に熊谷さんは客間に敷かれた布団の中で、白い布を被った悲しい姿となっていた。「お顔を見てやって下さい」と奥さま、二人の娘さんが言った。
3人ともまだ、熊谷さんの「死」と言うものを実感としてを受け入れていないようだった。いや受け入れられないのが当然だ。顔はショックで青ざめてはいるものの、悲しみの顔ではなく、何とかその場を耐えて、次々と訪れる弔問客に涙は見せまいとしているいじらしさがあった。こちらも信じられない思いで、まだ温かみの残っている熊谷さんの顔を見つめた。話しかけたら起きてくれるのではないかとも思った。「熊谷さん。起きてよ。眠ったふりをしないで起きてよ」と心の中で叫んでいた。いや祈っていた。
しかし、見つめれば見つめるほど、熊谷さんの顔は死に顔だった。それを心の中で受け止めるのがいやで部屋から後ずさりした。仏さまになった熊谷さんに手を合わせるのも線香を手向けるのも出来れば拒否したかった。しかし、仏さまとなった熊谷さんの遺体を前に非常識な行為は取られまい。ましてや遺族の悲しみを前に失礼な態度は取られない。その死を受け入れたくはなかったものの、そっと線香を手向け、両手を合わせた。
本当にお世話になった熊谷さんだった。工業高校を卒業して、秋田市の会社に就職したものの人間関係のもつれから、神経と胃腸を患い、加えて初めての不規則な自炊生活で体は栄養失調となっていた。その弱った体を風邪が襲い、秋田市の病院に担ぎ込まれた時は意識も朦朧としていた。
病院のベッドで看護婦が布団を何枚重ねても全身が痙攣する状態に「助からないかもしれない」との医師の言葉を夢うつつに聞いた。その声を耳にし「死ねるのか。死ぬのもいいな」と思ったものだった。急を聞いて大曲市の自宅から駆けつけた父と母が絶叫しながら、自分を呼ぶ声を意識朦朧とした中で聞いた。
幸い深い眠りから覚め、歩けるようになってから横手市の病院に転院し、半年ほどの入院生活を送った。秋田市での職場で受けた人間関係のもつれによる精神的な後遺症もあって、当時はこの世で生きて行ける自信を失っていた。このため退院しても家でブラブラしていた。そうした自分に「大曲市の新聞社で人を採用したいと言っている。面接を受けてみないか」と声を掛けて下さったのは高校時代から散髪のお世話になっているお店のご主人だった。そこは理容店を営みながら、秋田民報社やほかの新聞の販売店も兼ねていた。 「新聞社でどんな仕事を自分に与えてくれるだろう」。半信半疑な気分で会社を訪ね、出会ったのが熊谷さんだった。その時の印象は「この世にはこんなにも光り輝く人もいるものか」との驚きだった。それまでの職場の人たちとはまるで違う明るさと知的センスが感じられた。「新聞記者という社会正義感を持って仕事をしているから、こんなにも輝いて見えるものだろうか」と前の職場の人とは違う、一種の別な生き物を見ている感じがした。憧れと尊敬の念が自然にわいたものだった。
面接では熊谷さんからいろんなことを質問されたと思うが、何を聞かれたものか、今は思い出せない。覚えているのは「入院したと言うが、もう健康の方は大丈夫かな?」との気遣いだった。そして「君、文章を書くのは好きか」だった。「うまく書けるかどうかは分かりませんが、高校時代は新聞部に席を置いてました」。「そう。新聞部ねー。なら多少は文章も書けるだろう。どうだ。自分と一緒に秋田民報の記者として働いてみないか」と誘う笑顔があった。
「ハイ。よろしくお願いします」。新聞記者と言う肩書を与えられる仕事に夢見心地だった。経営者を紹介され、「熊谷君がいいと言うのなら採用しよう。明日からでも会社に来てくれ」。こうして入社する事になったのはまだ19歳の冬だった。年の瀬が押し詰まり、街中がどこかあわただしい雰囲気があった。
秋田市の職場ではいずれ鉄骨関係の設計の方に回る予定だったが、入社して与えられた仕事は大きなハンマーを手に光りの入らない暗い工場で鋳物を割るだけの単純な仕事だった。手にはマメができ、その痛みと先輩工員たちのいじめに似た言葉の放列に心は毎日、鬱々(うつうつ)としていた。病院を退院した時は「もう絶対に屋根の下で働くのはいやだ。仕事をするのなら、明るい太陽の光りを受けて仕事をしたい」と思っていた。それがどんな仕事なのかは分からなかったが、熊谷さんは「新聞記者はいろんな所を訪ね、人の話を聞くのが仕事だから君の太陽の光りの下で働きたいという希望も叶えられるだろう」と言った。
家に帰って父と母に「おれ。大曲の新聞社に入ることになった。新聞記者として採用してくれるんだって」と報告した。父と母は手を取り合って喜んだ。「マサオ。新聞社か。良かったな。今度は頑張れよ。負けるなよ」。何かあると神棚に向かって柏手を打って祈る父と母は、自分の就職が決まった喜びで一杯だったのだろう。すぐに立ち上がって神棚に手を合わせ、ポンポンと柏手を打った。貧しい生活の中から半年もの間、入院費を稼ぎ出した老いた父と母だった。それだけに喜びもひとしおだったのだろう。
以来、熊谷さんとは1994年4月に定年退職されるまでの35年間もの長い付き合いとなった。熊谷さんの奥さまからはそれこそ家族同然の愛情を受けてお世話になった。まだ幼かった二人の娘さんは遊びに行くとピンクレディーや山口百恵の歌を歌って聞かせてくれたものだった。その二人の歌を聞きながら、父親としての喜びにあふれ、幸せな笑顔を浮かべた熊谷さんの顔が今も浮かんでくる。上の娘さんは嫁がれたが、熊谷さん宅を改造して造った喫茶店に毎日、通って妹さんと一緒にお客さんの接待をしている。手作りのケーキとコーヒーの美味しい店としてとても人気がある。
新聞記者であり、絵描きでもあった父・十郎さんと大好きな画家のシャガールから名前を取って「ジュガール」と言うのが熊谷さんの娘さんたちが経営する店の名前だ。そのお店も熊谷さんの葬儀もあって今は店を閉ざしている。火葬の日。大きな声を上げて泣いた二人の娘さんの声が悲しかった。「お父さん。さようなら」と柩を送り出す時に泣いた奥さまの声が悲しかった。葬儀を終えて一夜明け、朝を迎えたら、こちらもむしょうに寂しくなった。暗い空を眺めながら、もう一度、熊谷さんの遺影を見たい。そう思って今朝も熊谷さん宅に顔を出した。
「おれにもしものことがあったら、この写真を使ってくれ」と生前、熊谷さんは娘さんたちに最も気に入っていた笑顔のカラー写真を遺影に使うよう冗談まじりで言っていたという。まさかそれが現実になるとは夢にも思ったことがないと娘さんたちは言った。「あっけないお父さんの死が悲しい」。二人の娘さんはやっと笑顔を取り戻していたが、どこかに寂しさが隠れていた。
葬儀の会場には熊谷さんの最後の作品となった絵が展示されていた。「北の太陽」という題名の絵だった。男鹿半島の冬の姿を描いたもので、灯台とウミネコ、そして舞い散る小雪と四角な太陽を描いた絵だった。熊谷さんの絵は雪を題材にした作品が多かった。間もなく日が落ちる時間帯を観ながら描いた冬の絵だった。死を予告させるような寂しさと美しさと威厳があった。
熊谷さんへの弔辞を掲載してお別れしたい。
弔辞
熊谷さん。余りにも突然の旅立ちで、言葉さえも失いました。会社の同僚からの電話で熊谷さんの死を知らされた時はただ「なぜ。なぜ熊谷さんが」と絶句するばかりでした。余りにも強いショックと悲しみで胸が詰まる思いでした。
工業高校を卒業して秋田市の会社に就職したものの、人間関係のもつれから胃を患い、長らく入院生活をして、この世に自信を失っていた時に秋田民報社を紹介され、そこの新聞記者として働いてみないかと面接を受けた時に初めてお会いしたのが熊谷さんでした。その時の印象は今でも忘れません。この世にはこんなにも光り輝く人がいるのかと思ったものでした。それこそ社会正義のため、ペンを執る新聞記者という正義感に燃えた姿だったと思います。
その時の熊谷さんの「民報の記者として自分と一緒に働いてみないか」との言葉は、生きることに自信を失っていた自分に大きな希望と光りを与えてくれたものでした。
まだ右も左も分からない自分を引き連れて警察や市役所、県の出先機関などを案内し、新聞記者の仕事はこうしたものだよと紹介し、自分がこれから歩もうとする道筋をさりげなく教えてくれました。
そして原稿が書けず、もがき苦しむ自分に「君が今、取材してここで話したことをそのまま書いたら記事になるんだ」との指導を受け、書いては書き捨て、書いては書き捨ての繰り返しをやったのがつい昨日のように思い浮かんできます。やっと完成した原稿を熊谷さん、あなたに見てもらって添削してもらい「うん。良く書いた」とお褒めの言葉を頂いた時はどんなに嬉しかったことか。それこそ天にも昇る気持ちで心が満たされたものでした。
「新聞記者は社会正義のためにペンを執るのはいいが、個人の怨みを晴らすためにペンを執ったら記者じゃなくなる」と新聞記者の公人としての役目を教えてくださったのも熊谷さんあなたでした。とにかく自分の書いた原稿がどんなふうに熊谷さんの手で赤ペンを入れられ、直されるものか、それを熊谷さんの背中に立ってジッと見つめるのがある意味では楽しみだったものです。
熊谷さん覚えてますか。自分が初めて写真と記事との組み合わせのエッセーを企画した時、ロマン・ロランの小説「ジャン・クリストフ」から空を流れる雲と戯れるクリストフの物語を引用した記事に目を通された時、「うん。伊藤君。いい記事だ。これはいい」と心底、喜んでくれたのを。自分はどちらかと言うと新聞記者と言う社会派的な書き方をするよりも文学的な文章に走りがちでした。新年号の企画ではカラー印刷する写真に寄せた記事が余りにも感傷的だと注意され、もっとこの世を俯瞰的に見る目を養う勉強もさせられました。
大きな事件や事故が合った時には自分の運転する車に乗り込み、深夜の国道を走りながら「伊藤君。難儀掛けるな。済まないな」と常にいたわる言葉がありました。仕事には厳しかった熊谷さんでしたが、いたわりの言葉を忘れない温かさがありました。定年を迎えて、自宅でのんびりと暮らしている姿を見た時は「ああ。自分も退職したら熊谷さんのような生活を楽しみたい」と思っていたものでした。時々、会社に顔を出され「伊藤君。先日のあの記事は良かった。頑張ってるな」との言葉を頂いた時はどんなに嬉しかったことか。
思えばその褒め言葉を聞きたくて取材し、記事を書いてきた自分だったような気がします。それだけに熊谷さんの突然の訃報は余りにもショックでした。まだまだ未熟な自分のため書いた記事に目を通され、叱咤激励を受けたかったものです。亡くなられた26日夜に熊谷さん宅をお訪ねし、目を閉じたままのお顔を拝見した時は、心の中にポッカリと大きな空白が生れたような気がしました。熊谷さん、本当にお世話になりました。熊谷さんの指導があったからこそ、今の自分があり、記事を書けるのだと思ってます。ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。
平成13年11月29日 秋田民報社記者 伊藤正雄