こちら編集室「クリスチャン集落」(12月28日)

 無知と言うか不勉強さをさらすようだが、田沢湖町神代の柏林(かしわばやし)集落はどの家もみなクリスチャンだというのを知ったのは、横笛奏者のプロを目指す安藤陽介君の取材がきっかけだった。安藤君の取材は大曲市栄町の日本キリスト教団大曲教会で、23日に開いた「クリスマスの集い」であった。横井伸夫牧師から「横笛のプロを目指す19歳の若者が、うちの教会の『クリスマスの集い』に来て演奏してくれるんです。ニュースになりませんか」との電話でのお知らせから、取材におじゃますることにした。

 その安藤君の話を聞いていたら礼拝の儀式を終えた横井牧師が寄ってきて「安藤君が住んでいる、その柏林地区の人たちは皆さんがクリスチャンなんです。安藤君もそうなんだよね」と優しい目を向けられた時には正直言って驚いた。戸数18戸(当初は16戸)、約70人が暮らすその集落の人全員がキリスト教の信者。日本のキリスト教の歴史は“隠れキリスタン”を代表するように江戸時代、迫害に迫害を受けた暗い話が多いだけに、どんな歴史からそのようなキリスト教の集落になったものかと興味が沸いた。柏原地区は角館町から「わらび座」に向けて真っ直ぐに延びた道路沿いにある。

 横井牧師は「どうぞこれを進呈いたします」とその日、柏林戦後五十周年記念誌として4年前に発行された「とこしえの徴(しるし)」を手渡して下さった。それに目を通せばいいのだが、もっと簡単に柏林集落とキリスト教との関係を知りたくて再び、大曲教会を訪れ、横井牧師からお話しを伺った。併せて「とこしえの微」から柏林集落の歴史を語ってみたい。横井牧師はまだ30代の青年牧師である。

 戦前のことである。まだ大曲市が大曲町時代だったころ、開谷地集落に安藤仁一郎(にいちろう)という小作農家の長男がいた。小作では働いても働いても収穫したコメはほとんど地主に収めなければならず、貧乏農家は一生、報われることがない時代だった。その矛盾に目覚めた安藤は農地解放を目指して農民運動に入る。

 雪の晴れ間にしかし、安藤の運動は官憲の迫害を受け、さらには味方と思っていた自分の集落の人たちからも見捨てられ、地主の怨みも買う。孤立し、絶望の淵に立たされた安藤が選べる道は死しかなかった。死を決意した安藤は部落を出て、死ぬ先を求めた。そして今の教会の前を通った時、「悩めるもの我に来たれ」の看板を目にする。死ぬ前に「ヤソ」の話でも聞いてみるかと当時の荒井源三郎牧師(故人)と会い、キリスト教の話を聞く。その話しからキリスト教に目覚めた安藤は熱心な求道活動者となり、ついには洗礼も受ける。昭和5年(1930年)10月である。

 以下は記念誌の中の「安藤仁一郎の思い出」と題して書かれた荒井牧師の長男で、恵泉女学園大学長で先日、日本学士院会員に選ばれた荒井献氏の筆から抜粋する。

 冥土の土産にヤソの話でも聞いてやれ、と思った彼は、何の気なしに教会の敷居を跨いで驚いた。教会とは名ばかりの6畳1間きりの下宿屋にすぎなかった。ともかくここで安藤は、ちょうどその頃赴任したばかりの青年牧師と相対した。昭和元年11月の夜半。彼は初めのうち、この青くさいヤソ坊主に何が分かるかと昂然と構えていたのだが、知らず知らずのうちに牧師の言葉と人格にひきつけられ、結局、彼のこれまで歩んできた道と、自分のこれから遂行しようとする目的まで打ち明けてしまった。その直後に、牧師が語った言葉が安藤の一生を支配したのである。

 「人間は愛することも生きることもできない。にもかかわらず、愛も生も人間には許されている。否、人間にはすべてを許されている。しかし、本当にすべてを許されていることを知った人間は、自らの死を選ぶことをしないであろう」。

 安藤はこの言葉に憑かれたという。これ以後、彼はすべてを許す自由の根拠を探り出すことになる(以上、荒井氏の文献から)。

 しかし、小作人の安藤の貧乏生活は変わらない。意を決した安藤は当時の政府の政策に乗って、昭和14年に今の中国東北部である「満州移民」へと踏み切る。満州では秋田開拓団矢留部落の長として、開拓にあたる。そこでも神の教えを集落の人たちに説き、伝道活動を続けた。そして迎えた終戦。死と隣り合わせの危険にさらされ、苦難の旅を続けての引き揚げとなる。しかし、やっと故郷の地を踏んでも引揚者には住む所さえない。安藤は一緒に苦難を乗り越えてきた仲間たちと暮らせる新たな開拓地を求めて県当局と交渉する。そして開拓地として与えられたのが、柏林の原生林である。

 途方もない荒れ地だったが、引揚者たちは自分たちの農地が手に入ったのだと開拓への夢を燃やし、安藤をリーダーに新天地の開拓への道へ入る。

 しかし、安藤は引き揚げ時からの疲労がたたり、病の床に。ついには柏林開拓組合の鍬入れ式にも出席できず、昭和22年10月に荒井牧師に見守られたまま神に召される。
 鍬入れは荒井牧師の「司式」で行われ、戸数16戸、約80人の「柏林」集落の開拓事業は22年4月1日にスタートした。そしてそこに住み着いた人たちは安藤が残したキリストの教えこそ、人を生かす力であり、支えであるとして24年7月に荒井牧師の下で入植者全員がキリスト教の洗礼を受ける。

 以上が横井牧師、そして開拓50周年記念誌から学んだ「柏林」集落の歴史である。戦後生まれの自分には「開拓」と言う苦難がどのようなものか、想像さえつかない。「柏林の歩みとその歴史」の「開墾生活の第一歩」では「家屋も電気も、そして水もなく、軍の払い下げのテントに4人家族が同居する生活であった」と書いてある。「原生林を切り倒し、根を掘り起こし、土地を耕す作業は『開墾鍬(くわ)一本』で、一人一日一アールを開墾する血の滲む作業であった」とも書いている。

 そうした辛い労働の日々を支えたのは神を信じ、苦しみも喜びも共有し「たとえこの世の生涯を閉じ、肉体は塵(ちり)となり、灰となっても、その魂を神さまは守られ、神さまの定められるこの世の終わりの日に新しい決して朽ちる事のない肉体が与えられて復活するという希望があったからではないか。死という事さえ恐れない希望、生きる力が信仰の中に宿っていたのだ」と横井牧師も記念誌に一文を寄せられている。

 23日の教会での取材の日。礼拝が間もなく終わろうとしていた。「最後に賛美歌541番を皆さんと共に歌いましょう」。横井牧師の声が礼拝所に響いた。歌集を手に歌が始まった。最後列に立ったままジッとしていたら、ご婦人が静かに寄ってきて歌詞を見せて下さった。教会での礼拝の経験のない自分だが、その歌に耳を傾けていたら、なぜか心が洗われていくような気がした。不思議な祈りの時間だった。教会の持つ不思議な力にひたった時間だった。

 「こちら編集室」の2001年の締めくくりが、こうしたキリスト教会での取材経験を下に書くことになるとは思ってもいなかった。自分は熱心な仏教信者でもなく、かといってクリスチャンにもなれそうにはない。毎週日曜日に教会を訪れて、牧師さんの話を聞く根気は自分にないことが分かっているからだ。旧約聖書も新約聖書も随分前に目を通した経験はあるが、読み物として読んだだけである。ましてやモーゼの「十戒」を守れるような人間でもない。人を救えるような人間でもない。毎日をフラフラとやり過ごしているだけだ。

 秋田県南日々新聞もそうした繰り返しでいよいよ6年目へと突入する。96年12月1日に誕生したインターネット新聞だった。この5年間はいろいろなドラマがあった。辛いこともあったが、むしろ喜びの方が多かった。読者からのアクセス数も日増しに増えるばかりだ。6年目の2002年もマイペースを守りながら、ケンニチは歩み続けたい。読者のみなさま良き「お正月」をお迎え下さい。