<Vol.55>「W杯と拉致事件」(02・9・29)



 
 日本有史以来、ユーラシア大陸から有形無形のさまざまな物が、朝鮮半島を通ってやってきた。この極東の出っ張った半島が、長く大陸との窓口となってきた。しかし近代以降は、いち早く富国強兵を成し遂げた日本が、逆に朝鮮半島に影響を及ぼすことになり、1910年の日韓併合以後日本の敗戦まで、両者は支配と従属の関係に“変質”した。このように歴史的に影響を及ぼしつづけてきた極東のこの地域は、
2002年に新たな関係構築を予感させる2つの出来事を迎えた。

 6月に日韓共催で開かれたFIFAワールドカップと、9月に劇的な展開があった日朝首脳交渉は、2002年重大ニュースの上位5番以内に間違いなくランクインするであろう。朝鮮半島がいかに日本に重大な影響を及ぼしているか、あらためて認識させられた1年となるに違いない。

 日韓W杯成功の原因は、いくつか考えられる。まず日韓両チームがともに決勝トーナメントに進む活躍を見せたことがあげられる。特に“レッドデビル”こと韓国が、ベスト4に食い込んだのは歴史的快挙である。日本チームも、予選リーグで2勝をあげて列島を興奮のるつぼにたたき込んだ。両国ともプロリーグ発足以来、着実に実力を向上させてきた結果である。大会を支えたサポーターとボランティア、各国選手を
迎えた自治体も、すばらしいホスピタリティを見せた。

 もちろんこれ以外にも、大会を成功させる土壌が出来上がっていたことを見逃すわけにはいかない。日韓が歴史認識の食い違いを非難しあう「年中行事」に終止符を打ち、未来志向型の関係に変わったことを真っ先にあげなければならない。経済や観光交流は以前から活発だったが、ここ数年来の文化・マスコミの交流も目覚ましく進展し、日韓のタレントが頻繁に双方のマスメディアに出演している。韓国の日本文化開放の影響が大きいだろう。こういった動きが事前にあったからこそ、大会が成功したのである。

 しかし未来への明るい可能性を感じさせたW杯に比べ、先日の小泉訪朝は、過去の暗い歴史を掘り深めなければならない重苦しさを感じさせるものだった。北朝鮮(「朝鮮『民主主義』人民共和国」などという実態と正反対の国名を使うことを、私は断固拒否する)による拉致被害者13名のうち8名死亡(あくまでも「北」当局が発表した数字による)と言うあまりにも衝撃的で残酷な事実は、われわれの思考を止めてし
まった。はからずも「ならず者国家」であることが白日の下に暴かれ、「悪の枢軸」の汚名そのままの忌わしき所業といわざるを得ない。

 ところが不思議なことに、この国を論評するときに、従来の姿勢を「180度転換したこと」を「評価」しなければならないのだという。何の罪もない外国人を多数拉致し、理由は何であれ死なせ、しかも「拉致などない」と長年堂々とうそを言い続けてきた彼らの、どこを評価せよというのか。うそをつかないことがすべての交渉の前提であり、マイナス「評価」の対象にこそなっても、プラスになど決してならない。拉致を認めた張本人は、その当時国防部の責任ある地位にいたにもかかわらず「特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走ってやったこと」などと、ミエミエの言い逃れに終始している。

 朝鮮半島に位置し、同じ朝鮮民族で成り立つ2つの国の評価は、38度線を境にはっきりと白と黒に分かれている。しかしこれからずっと長く、これらの国と付き合っていかなければならない。南側の人たちとは、サッカーをきっかけに、少しは気を許せる隣人になってきたようだ。しかし、北側の指導部と今後も交渉ごとを続けていかなければならないかと思うと、その重苦しさ、嫌悪感にずしりと気が重くなる。(A)

「時流彩々」は今回をもって終了いたします。長い間のご愛読ありがとうございました。
 



<Vol.54>「●    死刑廃止問題を考える<その3>」(02・9・22)



 
 死刑廃止条約が、キリスト教的倫理観に基づいて策定されたという話がある。実際死刑を廃止している国々を見ると、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、スペイン、北欧各国といったヨーロッパのキリスト教に影響を受けた国々が並び、次にスペインの植民地として布教活動が行われた南米の国が目立つ。一方死刑存続国としては、日本、韓国、中国、台湾といった儒教国、イスラム教を信奉する中近東、南アジアの国々が目立つ。イスラム法の原則は「目には目、歯には歯」であるから、当然命の償いは命をもってするしかない。儒教の教えは因果応報が原則なので、場合によってはわが身をもって報いなければならないこともある。アメリカ合衆国は、州によって廃止しているところとしてないところが混在している。一般的に保守的な色彩が強い南部に存続しているところが多く、リベラル派が優勢な北部は廃止している州が多い。

 キリスト教的倫理観は、「右の頬をたたかれたら左を差し出しなさい」というイエスの言葉に代表されるように、博愛主義に貫かれている。どんな悪人といえどもその生命を奪うことは許されざる仕儀に違いないが、それでは、イスラム教を殲滅(せんめつ)するために送り込んだ十字軍の蛮行をどのように説明するのだろう。無実のユダヤ人やジプシーを大量虐殺したナチスドイツを、どう解釈したらいいのだろう。ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機を突入させたオサマ・ビンラディンに宣戦布告して、事実上の“死刑宣告”を行ったアメリカに、死刑に反対している国は異議を唱えたであろうか。彼らは反対していないはずである。なぜなら、仮に彼を生きて捕まえて終身刑を下したとしても、必ず奪還のためのテロが起こって、さらに多数の市民の命を危うくすることを知っているからである。このように彼らの「死刑反対」は、ご都合主義的な部分が垣間見える。

 日本の死刑廃止論の理論的支柱になっている元最高裁判事の団藤重光氏は、「死刑の存廃は一国の文化水準を占う目安である」「…こうしたことの全ての背景に、われわれは、強いヒューマニズム精神こそが死刑廃止への情熱を支えていることを、自覚していなければなりません」 (著書「死刑廃止論」)と訴えている。もし文化水準の高い低いが死刑制度の有無で測られるのであれば、キリスト教圏は高くて、儒教圏、イスラム教圏は低いということになってしまう。倫理基準に差異があっても、文化水準とは直接関係しないというのが国際的常識である。もちろん死刑制度がある日本の文化水準は、たとえば死刑のないフランスと比べて劣っているとはいえない。オサマ・ビンラディンに対する事実上の“死刑宣告”に反対し、つまり団藤氏の唱える「ヒューマニズム精神」を大いに発揮した結果、新たなテロに巻き込まれ命を落としたら誰が評価してくれるのだろうか。

 「ヒューマニズム精神」が、愛するものの命を奪った者に「“命だけは許す”という気持ちを示すこと」と言い切るには、ためらいがある。百歩譲って死刑を回避する仕組みを考えた場合、「加害者の一生をかけて償わせてほしい」と思った遺族が、その旨を検察もしくは裁判所に伝えることができるという制度があれば十分ではないだろうか。極刑を願う遺族に対してまで「ヒューマニズム精神」を押し付けることには違和感を覚えるし、国家がその道を閉ざすことにも反対である。(A)
 



<Vol.53>「●    死刑廃止問題を考える<その2>」(02・9・15)



 

  廃止論の主な主張は次のようになる。▽人間の命を奪うことは誰にも認められない。個人が奪うことはもちろん国家においてもそれは許されない▽死刑が犯罪抑止に効果的というデータはないし証明もされていない▽人間が裁判をする以上誤判は避けられない。そのために死に追いやられた者の権利は誰が保障するのか▽犯人を死刑にしたところで犠牲者の命はかえってこない。新たな遺恨が残るだけである▽仮に最初から死を覚悟して殺人に及んだものを死刑にしても、真の反省を迫るものとならない▽公務員に死刑執行という殺人を命令することは倫理上許されない ということになるだろう。
 

 一方存続論は、▽死刑は凶悪犯罪の抑止に効果的である。したがって社会を安全にする上で必要である▽命を奪ったものが命を保証される刑罰では被害者および遺族の無念が果たせない▽殺人という最悪の人権侵害をしたものに生命を保証する人権の必要性を認めることはできない▽殺人をしても反省しない者をこの世に生かしておくことは有害である▽仮に反省があったとしても、その命をもって償わなければならない場合がある▽極悪犯罪人を長らく監獄に留め置く費用は税金から出ている。なぜこのような者に国民の税金を使う必要があるのか─という6点に集約される。
 

 1999年に山口県光市で起きた18歳の少年(当時)による母子殺人事件は、読者の記憶に新しいところであろう。被害者の夫である本村洋氏は全国各地を講演で回り、またマスコミにも頻繁に顔を出して死刑判決を求める主張を展開している。事件の概要はあまりに残虐極まりないもので、犬畜生にも劣る下劣な輩(やから)に愛する者を奪われた本村氏の心情は理解するに余りあるほどである。現実に愛する者を失い涙も枯れ果て、あるいは生きる気力さえ失いかけそうになっている遺族の元に、死刑廃止論者が「死刑の要求を取り下げてくれ」という説得に出かけていったという話は、寡聞にして聞いたことがない。すなわち「死刑廃止」を唱えるものは、わが身に起きたこととしての痛みが伴わない観念的な議論しかできないのである。
 

 このように双方の主張にはかみ合う点が少なく、どちらの主張も平行線をたどらざるを得ない。唯一交わる論点は「死刑は凶悪犯罪の抑止に有効か否か」という一点になる。これについてはアメリカで実証的な研究がなされて、「必ずしも有効とはいえない」という結論が出ているという。しかしこの一点が証明されたからといって、死刑廃止論が優勢だというのも早計であろう。
 

 アメリカのある大学で死刑制度についてゼミナールを行い、死刑廃止論を唱える学生には実際に身内を殺された遺族に死刑の無意味さを理解させる手紙を書かせ、死刑存続論者には死刑を実施する際の費用と終身刑にする場合の費用の比較をさせるという宿題を課したという。このように観念的でない議論と実践的な活動が必要と思われるが、現状を見た場合、死刑廃止論者側が、実際に死刑を求めている被害者遺族にアプローチしたという話を聴いたことがなく、観念的なままの運動を展開している観が否めない。それがいまだに世論を変えられない大きな原因になっているのではないだろうか。次回は死刑廃止論に潜む問題点を探っていく。(A)

 



<Vol.52>「●    死刑廃止問題を考える<その1>」(02・9・7)



 
  1989年12月15日、国連総会において「死刑の廃止を目的とする『市民的及び政治的権利に関する国際規約』の第二選択議定書」、いわゆる「死刑廃止条約」が採択された。この瞬間から加盟国は自国の法制度を改正し、死刑の廃止を打ち出さなければならなくなったのである。日本においては1994年にこの条約の批准を目指す超党派の「死刑廃止を推進する議員連盟」が発足、現在100名ほどの国会議員が加盟し、会長には警察官僚出身で自民党の実力者・亀井静香氏が就任している。しかし採択から13年たった今にいたるも、日本はこの条約を締結していない。「廃止に理解を得られるまで国民世論が達していない」というのが、大きな理由になっていると思われる。

民間においては、国際人権保護団体の「アムネスティ・インターナショナル」が活発な死刑廃止運動を展開している。そのアムネスティの調査によれば、2000年現在死刑を廃止している国は89、廃止の準備をしている国が22、存続している国が84となっている。つい最近ではEU(ヨーロッパ連合)への加盟を目指すトルコが、その基準を満たすために死刑廃止を決議している。こうしてみた場合、死刑廃止は大きな国際的潮流になっているかに思われる。しかし日本国内においては必ずしも廃止論は主流ではない。毎日新聞の調査によれば、死刑存続を「やむをえない」と認める国民は80%にも及んでいるのである。逆に「絶対廃止」は減少傾向にある。(グラフ参照)

なぜ今、死刑廃止論を考えるのか。近年世間を震撼させるような凶悪犯罪が続発している。一連のオウム事件をはじめ、“酒鬼薔薇聖斗”を名乗る少年による神戸児童連続殺傷事件、世田谷一家4人殺害事件、宇都宮の宝石店放火6人殺害事件、弘前「武富士」放火5人殺害事件、宅間守による大阪・池田小学校大量殺人事件、頻発する動機なき殺人・・・外国人による犯罪も増加傾向にあり、日本の治安状況が悪化しているという国民の危機感が背景にあるだろう。その抑止力として死刑制度が有効と考えている国民が多いと思われる。

そして、死刑制度に代わる刑罰が存在しないという刑事政策への不信感も存在するのではないだろうか。死刑の次に重い刑罰は「無期懲役」刑であるが、これは少なくないケースにおいて、刑期が10年(最短で8年)を超えると仮釈放されるという“尻抜け”があるのである。十分な反省をしないまま重大犯罪者が仮釈放され、さらに犯罪を重ねるのではないかという市民の恐怖心が存在しよう。

では廃止論と存続論はどのような主張を展開しているのか、次回論じていくことにする。(A)
 



<Vol.51>「クジラを食う民 <後編>」(02・9・1)



 
クジラを食う民 <後編>

 反捕鯨論の急先鋒となり英米などの反捕鯨国を後押ししているのが、ボートを繰り出して体当たりしたり、時には会場を占拠するなど過激な抗議行動で有名な環境保護団体「グリーンピース」である。彼らは、そもそも捕鯨自体が環境破壊であると主張している。商業捕鯨を再開すれば際限なき乱獲競争がおき、たちまちのうちに種は枯渇するという。IWC(国際捕鯨委員会)が提起しているRMS(改訂版管理体制)にも当然、反対の立場だ。調査捕鯨も含めいかなる捕鯨もダメという絶対反対主義では議論の余地もない。科学的調査に裏付けられた資源維持の方策を決めるIWCの目的を無視し、乱獲に明け暮れた人類の歴史を反省して設立されたIWCの理念をも否定するものである。その彼らは今年5月に下関で開かれたIWC年次総会で、またも大がかりな反捕鯨キャンペーンを行っていた。 

  そしてアメリカ、イギリスをはじめとする反捕鯨国も、IWC科学委員会が出している調査結果を無視する形で「捕鯨反対」を訴えるだけで、まったく議論にすらならない状況になっている。しかし、その反捕鯨国の最右翼であるアメリカは、「アラスカ原住民のための生存捕鯨」を提案するという、どうにも説明のつかないムジュンした行動をとっている。しかもその対象は明らかに減少が確認されているホッキョクセミクジラだというのだから、なんとも納まりが悪い。

 IWCでも公認されている原住民生存捕鯨論に似た議論として、地域的な伝統捕鯨を保護する地域小型捕鯨論がある。たとえば宮城県牡鹿町は古くから捕鯨が盛んで、「おしかホエールランド」という博物館もあり、クジラに感謝する伝統と文化が根付いている。しかし1986年の商業捕鯨全面禁止以後町の人口は減りつづけ、もはや以前の面影はどこにも見られない。そんな自治体の窮状を救うことは、先住民の捕鯨権を確保することと同義であると思われるが、なぜかアメリカは前者には賛成で後者に反対なのである。

  IWCが捕鯨国と反捕鯨国の対立で何も打ち出せないのを横目に、IWC非加盟国が独自に捕鯨を行う動きも出ている。たとえばフィリピンによるニタリクジラの捕鯨(年間20頭程度)、インドネシアによるマッコウクジラの捕鯨(年間20-50頭)が継続している。また、1996、97年にカナダは、北極海沿岸域の原住民に対し、ボーヘッドクジラの捕獲許可を発給している(水産庁調査による)。このように、IWCで不毛な議論が続くと独自の考えで捕鯨に乗り出すところが増えて、逆に資源枯渇の危機を招く恐れなしとしないであろう。

 今のところ個体数は、たとえば南氷洋のミンククジラは76万頭以上、北大西洋においても14万9千頭の生息が確認され、この数値はIWCの科学委員会で1991年に暫定合意されている。以上を踏まえて、「年間2000頭を上限とした商業捕鯨再開は可能」というのが科学委員会の結論である。その当然といえる主張を掲げ、一人毅然として“根拠なき反対論”に立ち向かうお役人がいた。水産庁捕鯨班に籍を置き、下関で開かれたIWC総会で、日本政府代表団のリーダーを務めた小松正之氏である。グリーンピースの攻撃対象となって、似顔絵のお面をかぶったメンバーから罵声を浴びせられながら、「クジラは捕るべきである」と主張しつづけた姿を覚えている人も多いことだろう。

 再度言おう、欧米の価値・倫理基準が絶対ではない。科学的根拠を裏づけとし、個体数の維持と地域的、民族的な事情を両立させたところに問題の解決がある。(Q)

 



<Vol.50>「クジラを食う民 <前編>」(02・8・25)



 
 以前本欄で、W杯を前にして犬を食べる習慣がある韓国を批判している欧米の価値基準の欺まん性を取り上げたことがある。今回は日本に向けられている捕鯨批判を取り上げてみたい。

  現在反捕鯨国の先頭に立っているのがアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどアングロサクソン系の国々である。ところで18世紀後半から19世紀にかけて、史上初めて産業革命を成し遂げたイギリス、19世紀に入って急激に産業力を高めたアメリカでは油、特に品質の高い鯨油の需要が高まっていた。黒船を操って日本に開国を迫ったペリー提督の目的は、実は捕鯨船の食料と燃料の補給基地の確保にあったことは有名な話である。このように19世紀まで、イギリス、アメリカが世界に冠たる捕鯨大国であったことはあまり知られていないのである。英米人はクジラ肉にはあまり興味がなく、鯨油採取が主な目的であった。しかし乱獲が行われて資源の枯渇が進み、石油にその座を譲ると捕鯨産業は急速に衰退していく。実は個体数減少の原因をつくったのは英米なのである。

 「クジラの知能が高い」というのが反捕鯨の根拠のひとつになっている。反捕鯨急先鋒国のひとつオーストラリアのフレーザー元首相が自国民の捕鯨を禁止する際に、「特別な存在であり知能の高い鯨を銛で殺す事が多くの人に不快感を与えている」と述べている。さらに、1991年にジュネーブで開催された国連環境会議(UNCED)準備会合で、ニュージーランドが鯨類の全面的保護を提案した理由として、「鯨類にはこれまで地球上に存在した中で最大の動物種が含まれている。彼らの脳は人間と較べより大きく、そして同じくらいに複雑であり、そのため海洋環境における鯨類は陸上における人間と同じ存在なのである」と述べているところからもうかがえよう。

 しかし、クジラの一部の種類が音声を利用して意思疎通しているらしいことは確認されているが、どうして「クジラの知能が高い」という結論に達するのか。いかなる動物でも群れで行動する限りは何らかの手段でコミュニケーションをとっているのであって、クジラの知能の高さを証明する根拠とするには難があろう。「クジラの脳が重い」という理由も、あまり説得力がない。たとえば地球最大の哺乳動物シロナガスクジラの脳はおよそ7000gと人間のおよそ5倍だが、体重は90tもあるため相対比重は0.008にしかならない。クジラに近いとされるシャチですら相対比重は0.09程度であり、牛とほとんど変わらない。ちなみに人間の脳は1500gで相対比重は2.1である。さらにクジラに近いイルカの脳の相対比重が0.7〜0.9なのでこれを根拠にする人もいるが、イルカの知能の高い低いは捕鯨の是非を判断する根拠とはまったく関係ない。たとえばカラスは、ゴミが出される日にちと時間を見事なまでに覚えて、決まった時間に出没する。さらに硬いクルミを車に轢かせてから食べるということまでやってのける。その行動から相当「知能が高い」動物といってもいいが、反捕鯨を唱える人が「カラスを救え」といった主張をしたという話を聞いたことがない。

 このように反捕鯨国が信じ込んでいる「クジラ高知能論」は、まったく根拠がないことがわかるであろう。時おり海岸に大量のクジラが打ち上げられるニュースが伝わるが、逆に危機を回避する知能を持たないとの解釈も成り立つのである。

 さらに「クジラの個体数が減っている」という主張が、根強くされている。しかしこの問題こそIWC(国際捕鯨委員会)で科学的調査に基づいて議論されるべきなのだが、反捕鯨国は科学委員会の出した数値に根拠なき難クセをつけるだけで、一向に議論が進まない状況に陥っている。詳しくは次回に述べていこう。(Q)
 



<Vol.49>「“闘将”のビジネス感覚」(02・8・10)



 
“闘将”のビジネス感覚

 経営陣に内紛が起きやすく工場長もすぐ変わって一貫した生産体制が取れない。現場労働者にも「東京の‘G印’にはかなわない」という‘負け犬根性’が染み込んでしまっている。商品力は弱いが、地元では圧倒的な人気があってなかなかつぶれない。みんなその人気に甘えてしまって構造改革が進まない・・・しかしそこに「絶対売れる商品をつくるんヤ」という闘争心丸出しの工場長が赴任してきた。それに応えた労働者もすばらしい働き振りを見せ、少なくとも6月までは‘G印’に匹敵する商品を送り出してきた・・・すっかりダメ虎に成り下がっていた阪神タイガースは、今シーズン、星野仙一監督でよみがえったかに見える。しかし「打倒巨人」に燃える“闘将”としての顔の裏には、実はもうひとつ、ビジネスマンとしてのクールな一面が垣間見えるのである。 

 星野氏はW杯後の日本スポーツ界の動向を分析して、「サッカー人気が野球人気を上回ることはない」という楽観論を戒めて次のような警告を発する。「現在プロ野球中継の視聴者の約6割が50歳以上である。一方で20歳未満は10%に満たない。女性と子供に支持されないスポーツに未来はない」。そして若年層ファンの開拓と国際化を早急に進めるべきと説く。その国際化の切り札として、巨人・阪神戦をニューヨークのヤンキースタジアムで開くべしと大胆な提案をする。目の肥えたアメリカのベースボールファンは、緻密さと巧みな心理的駆け引きがある日本の野球に、きっと興味をもってくれると期待を寄せる。 

 星野氏の辛口提言はまだまだ続く。「日本の野球は閉鎖的で、外国人の人数に枠をはめ、日本国内で売ることしか考えていない。新たな市場開拓を放棄した企業に未来はない」とまで言い切っている。だがその指摘に応えるかのように、ダイエーホークスは、今年初めて台湾で公式戦を開いた。広島カープはプエルトリコに野球アカデミーを開き有望選手を育てている。野茂や伊良部らメジャーで活躍する日本のトッププレーヤーは、共同出資でアメリカ独立リーグの球団を買収し、実力のある日本の若手を迎え入れようとしている。一番保守的で閉鎖的と見られていた読売巨人ですら、この7月から「国際部」を新設した。みんな星野監督の指摘につながる気持ちを抱いていたのだろう。買い手であるファンに売るだけの魅力ある商品作りをいつも考えている星野氏のマーケット理論は、傾聴に値する。(J)

参考文献;「日経ビジネス」7月1日号

※次回更新は8月24日になります 



<Vol.48>「SONYの存在感」(02・8・3)



 
SONYの存在感

 戦後の焼け跡がまだ残る1946年の東京・品川で、ソニーの前身「東京通信工業株式会社」が産声を上げた。いまや‘カリスマ経営者’と崇め奉られる創業者井深大、盛田昭夫(いずれも故人)が、その後ジャパニーズドリームを実現していくきっかけになったのは、1950年に発売した国産初のテープレコーダーであった。その後トランジスタ技術を駆使した小型ラジオ、TVを輸出し、SONYブランドは一挙に海外に広がった。小柄なのに豊満な女性が‘トランジスタグラマー’と呼ばれたのも、SONYのなせる技だったのかも。

  その後も画期的な美しさを実現したトリニトロンブラウン管、‘ウオークマン’という代名詞にまでなったヘッドホンステレオ、一時はVHSと覇を争ったベータ方式VTRなどヒットを連発する。最近では、犬型ロボットAIBO、VAIOシリーズパソコン、プレイステーションという大ヒット作を放ってきた。現在では、保険、証券、銀行業務からハリウッド映画の版権所有、音楽出版会社、人材派遣業にいたるまで、そのイメージと似つかわしくない事業にまで乗り出している。ビジネスの幅広さ、機を見る敏さは相変わらずである。

 ところが、大手・中小問わず日本のメーカーが中国はじめ海外に生産拠点を移転する中で、SONYがヒット作を生み出すのに苦しんでいるという話がある。コストが厳しくコントロールされている中で、技術者から奇想天外な発想が出にくくなっているというのである。SONYらしさが失われたのだろうか?

  東京通信工業の「設立趣意書」【会社設立ノ目的】の第1項に次のような一文がある。「真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達(かったつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」。SONYが技術大国日本の旗手たる所以は、型にはまらない斬新な商品提案である。1979年に発売されたウオークマンは、あっという間に広まり、世界中の街でヘッドホンをつけた若者が闊歩し、世界のライフスタイルを変えた。AI(人工知能)機能を持つAIBOは、癒しを求める幅広い年齢層に受け入れられ、「ロボットのおもちゃは子供のもの」という常識・概念をすっかり変えたのである。世の常識に絶えず異議を唱え、別な角度からの提案=すなわち「自由豁達ニシテ愉快ナル理想」がある限り、これからもSONYは、世間をあっと驚かすヒット作を生み出すはずである。(Q)
 



<Vol.47>「善悪が日々入れ替わるTV型政治」(02・7・27)



 
善悪が日々入れ替わるTV型政治

 ヤッシーこと田中康夫・前長野県知事のマスコミ利用術は、他をよせつけぬ天才的なものがあります。そこには“悪代官”長野県議会のいじめに耐え、悪行を訴えつづける善良な村人という構図が出来上がってしまいました。自宅を出るや新聞記者やTVカメラに取り囲まれながら登庁し、県庁にあっては素通しになっている知事室での仕事ぶりが、またカメラに収められます。そして不信任決議案成立後はひたすらマスコミに露出しつづけ、「脱ダム宣言」の正当性をブラウン管を通して訴えてきました。一方県議会の反田中派はマスコミ対策が不十分で、悪役イメージを増長させるばかりでなく、対立候補を見出せない手詰まり状態も明らかになっていっそう不利な状況になっているようです。この勝負、前半戦はヤッシーの圧勝といったところでしょうか。

 TVを自らの政治プロパガンダに使い見事な成果を納めた政治家といえば、なんと言ってもJFKを置いて右に出るものはいないでしょう。1960年の大統領選挙で、ケネディーは対立候補リチャード・ニクソンに水をあけられていました。そこで陣営が考えたのがTV討論での勝利です。ケネディーは巧みな弁論でニクソンを圧倒、結局大逆転で大統領の座を射止めたのです。この場合、若さとハンサムさで勝るケネディーは正義の味方であり、あまりハンサムでもなく雄弁でもなかったニクソンはその引き立て役になってしまったのでした。この選挙以降イメージの鮮烈さを茶の間に浸透させた政治家が、勝利を収めるようになったのです。

  しかしTVに出たがゆえに、逆に自らを窮地に追い込んでしまった例もあります。後年念願の大統領になったニクソンはウォーターゲート事件の弁明でTVに出演、いっそう疑惑を深める印象を与えてしまい、結局辞任を余儀なくされました。一方栄えあるノーベル平和賞受賞政治家・佐藤栄作元首相は、自らの辞任会見で新聞記者を排除し、TVカメラだけを入れてやるという逆の意味で目立つことをやりました。結果はマスコミから集中砲火を浴びた会見となり、退陣の花道が枯花だけになってしまったのは皮肉なことです。

 しかしこの世界には、どうやら「マスコミに頼るものは必ずマスコミにたたかれる」という鉄則があるようです。ツジモト清美さん、田中マキコさん共にマスコミの前で大見得を切って、いまや被疑者になってしまった‘悪役’鈴木ムネオさんをバッサリ切って捨て拍手喝采を浴びた後、自らがマスコミの餌食になって沈んでしまいました。昨日の正義の味方が今日の悪役、手のひらを返すような事態が毎日起きているのが政治とTVの世界。どなた様も、足元をすくわれないようお気をつけなされませ。(H)
 



<Vol.46>「意識変革なき‘害無省’」(02・7・20)



 
 「機密費流用事件や鈴木宗男衆院議員との『異常な関係』など、相次ぐ不祥事を機に改革論議を進めている外務省が今月初め、在外公館を含む約5300人の全職員に職場でのあいさつを奨励するメールを送った。『外務省のイメージ向上につながります。今から実行を』と同省総務課は自信満々だが、職員の間からは(中略)批判の声が続出、OBからも疑問の声が上がっている。」 (7月15日付け朝日新聞)この記事を読むと害無省、もとへ外務省のおかれている状況と、職員特にエリート官僚の変わらない意識が浮き出てきて興味深い。

 具体的には「エレベーターや廊下、職場の各部屋などで『お早うございます』『お先に失礼します』『お疲れさまでした』の“3点セット”を奨励、さらに、警備の警察官や出入り業者らへの声掛けなども呼びかけ、来訪者を見つけたらまずあいさつし、課名を伝えて『ご案内いたします』と一言」といった活動を展開するとのこと。さすが「外務」省、自ら対外的イメージアップにこれ努めているといいたいところだが、しかし民間なら、この程度のキャンペーンはどこでもやっていることであるし、逆にそれを徹底していない役所にこそ問題があることを浮き彫りにしている。ただ、やらないよりはましだろう。 

 省内の批判の声とはすなわち、「あいさつしましょうなんていうのはガキに言うことで、東大出のエリート官僚にいまさら何をさせるのか」という風に聞こえてしょうがない。そう思っていらっしゃる外交官の皆様に、こんな話を紹介させていただこう。

  最近風評芳しからざる警察は、昨年来全国730ヶ所の交番で「おはよう立ち番」という活動に取り組んでいる。朝2時間ほど、大のおまわりさんが道行く市民に「おはよう」と声をかけるまさに子供か学校がやる活動だが、これが結構な効果をあげ、63件の事件が摘発されたという。(「職場の教養」6月号・(社)倫理研究所)湯水のごとく使えるとばかりに機密費という国民の税金を平気で横領し、業者には水増し請求を付け回して残金を自分のポケットに入れ、癒着業者に平気で落札予定価格を教えるなど犯罪行為が横行している役所には、犯罪防止に必要な活動であることはこのエピソードで明らかではないだろうか。

  同じ記事中で「元在フィンランド大使館書記官」という人物が、「あいさつの励行など、毒にも薬にもならない。逆に、それを全職員に言わなければならないほど職場の雰囲気が悪いのかと勘ぐってしまう。それよりも、人事評価や配置の透明性確保など、改革のためにもっと本質的な問題があるのではないか」と語っていた。後半はまさにその通りである。しかし前半のコメントこそ、まさにエリートが抱く思い上がりの発想である。「伏魔殿」とも呼ばれ実際に犯罪が発生し、出直し的改革を迫られている外務省であるから、あいさつ励行は犯罪防止にもつながるという事実を知らなければならないのである。残念ながらこの「元在フィンランド大使館書記官」殿はあいさつの効用を軽視して、意識改革の芽をつぶそうとしている。そしてその意識が省内に蔓延している限り、外務省改革も進まないだろう。(Q)
 



<Vol.45>「二人のフランス人」(02・7・6)


 
2人のフランス人

 2人のフランス人が日本を変えた。一人はご存知、サッカー日本代表前監督フィリップ・トルシエ。そしてもう一人は、倒産の危機から日産を救った日産社長カルロス・ゴーンである。この二人の思想と行動を読むと、興味深い共通点が見えてくる。

 まず2人とも、あまり他人の意見に耳を傾けない。トルシエはサッカー協会のたび重なるアドバイスや注意に耳を貸さず、自らの指導方針のみに忠実に従った。それゆえ協会幹部と相当の摩擦を生じ、何度か‘解任要求’をつきつけられている。ゴーンは「ミスターコストカッター」と揶揄されるほどコスト削減に執念を燃やした。その結果数百にも及ぶ関連の下請け、孫請け業者の数を一気に3分の1にまで削減、目標だった20%コスト削減を実現した。また日産城下町と呼ばれた座間の工場を、自治体、住民の反対を押し切って閉鎖している。もしここでトルシエがよく協会の声を聴き、ゴーンが下請けや自治体の声を聴いて改革の手を緩めていたら、今の成果は生まれなかった可能性が強い。

 次に2人とも結果を出すことに、自らの命運をかけた。トルシエはW杯予選突破を自らの使命と述べ、それをやり遂げた。そのために若手有望選手を早くから登用し、海外移籍を積極的に勧めた。その結果、次期日本代表のリーダーと目される小野、今大会でラッキーボーイになった稲本などの才能を開花させた。また‘解任要求’を突きつけられるたびに結果を出し、自らの首をつないでいる。一方ゴーンは日産リバイバルプラン(NRP)を発表し、「この計画を3年で達成できなかったら社長を辞める」とその実行に首をかけた。その結果、それまで日本的経営にどっぷり漬かって疲弊しきっていた日産は急激に業績を回復し、2001年度に黒字を達成、ゴーンは勝負に勝った。

 3番目に2人とも部下に意識改革を求め、それを達成させた。トルシエには「身体的、個人的能力に劣る日本人プレーヤーも、組織的に動くことによって強豪相手でも互角に戦える」という信念があった。実際守りの基本戦術‘フラット3’は、DFの3人が組織的にスピーディーに動くことが前提となって組み立てられている。各自が自らのアイディアでその場面にふさわしい動きを見せることを求め、そしてレギュラーを決めない環境でお互いにポジションを競わせた。日産に大量の外国人スタッフを招き入れ、社内の公用語を日英2ヶ国語とし、さらに個人責任を強く社員に求めて、革命的な意識改革を促したのはゴーンである。日本的温室経営を一掃し、生き馬の目を抜く国際ビジネスの第一線に立つことを求めた。しかしムチばかりでは会社は動かない。今年春には組合の要求を受け入れて、満額の賃金改定を実施した。これも成果主義の反映である。

そもそもフランス人は個人主義志向が強く、ふたりとも強烈な個性の持ち主である。一人走りすぎて孤立することもいとわない。出る杭になることも好んで引き受ける。特に今のような低迷の時代には個人の責任において結果を求められるため、このような性格の者がリーダー像としてもてはやされるのであろう。ここ一番で成果が出せないでいるどこかの首相も、フランス人になってもらいましょうか。(Q)
 



<Vol.44>「中田英寿のキャプテンシー」(02・6・28)



 
中田英寿のキャプテンシー

 サッカーW杯日本代表のすばらしい活躍は、日本国民の心にしっかりと刻まれた。そしてTVを見ていた誰もが、‘あの男’の見えないところでの活躍を知ったはずだ。あの男・中田英寿がなぜ日本チームの大黒柱足りえたのか。もちろんイタリア・セリエAで鍛えられたプレーと精神力、試合の流れを読む天才的な大局観だけではない。今回の日本代表を、トルシエイズムと中田イズムの融合と説明する解説者がいた。彼が‘第二のトルシエ’になって、それをピッチで実行していたからという見方は、かなりの部分、当たっている。 

 たとえば、フィジカル面や個人技量で劣る日本選手は、組織的プレーとスピード、その局面毎にすばやく対応できるスマートさを備えなければならない。その前段階の仕込みを、トルシエは4年かけてやってきて、世界と戦えるレベルまで持ってきた。しかし実際の試合で、それが発揮できるかどうかは定かでない。しかも若いだけに、精神面の弱さがどこかに潜んでいるかもしれない。 

 予選リーグ第一戦のベルギー戦で、日本は先取点を許した。そのとき「下を向くな」と叱咤激励して回ったのが、中田である。その声に鼓舞された日本は、鈴木、稲本の連続ゴールで一時リードを奪うまでに立ち直った。あそこで中田がキャプテンシーを発揮していなかったら、あるいはズルズルと負けていたかも知れなかったところである。この仕事はピッチ外のトルシエにはできないことであり、若い日本代表の中にあっては、唯一世界のサッカーを知る中田のみがなしえるところであった。 

 中田自身、独自のサッカー観を持って、前回フランス大会以後、自己のプレースタイルを追求してきた。いや、それのみに集中してきた。それがときに「孤高」との定冠詞が冠せられ、あるいは「個人主義的」とも批判されて、一時トルシエと不仲を囲ったとも言われる。その彼がなぜ「日の丸」を背負う気持ちになったのか、おそらく時間がたてば自身の口から語られるだろう。だが、今回の日本代表の活躍は、彼の技術面、精神面に渡るキャプテンシーに負うところが大きい。そして何よりもチームプレーこそが勝利のカギと悟り、その役割に徹した中田の成長がまぶしい。(J)



<Vol.43>「サッカー不毛の理由」(02・6・22)



 
サッカー不毛の理由

 今W杯参加32カ国で唯一盛り上がっていない国がある。それは世界一のスポーツ大国アメリカ。野球、アメフト、バスケット、アイスホッケーのいわゆる4大スポーツ以外にはごくわずかしか時間を割かない全米のスポーツニュースは、やっぱり今回のW杯では付け足し程度にしか扱っていないようだ。94年には自国で開催し、国内にはプロリーグもあるし、女子サッカーは世界トップレベルの実力を誇り、子供の人気スポーツでもサッカーは上位に来るのに、である。 

 これにはいくつかの仮説が出されている。まずアメリカ人気質からくる「少得点敬遠説」である。90分もプレーをしながら、1点とか2点しか入らないスポーツなど見るに値しないという。確かにアメフトにしてもバスケットにしても数10点、場合によっては100点以上の試合もあり、派手さを好むアメリカ人の溜飲を下げている。野球でも、ホームランが飛び交う派手な打撃戦が拍手喝采を浴びる。ピンボールというよく酒場に置いてあるゲームなどは、数万点数十万点というとんでもない得点が出て大騒ぎになる。こういうアメリカ人に、1点2点を競うスポーツの緊張感を理解しろと説教するほうが無理なのかもしれない。しかし、投手戦になって1点2点のゲーム展開になる試合もあることを考えると、この説は有力ではあるが、弱点もあろう。 

 次に、アメリカが多民族国家であるところから来る「W杯日常開催説」である。アメリカはあらゆる分野で民族同士がせめぎあい、日常的に多国籍のプレーヤーがいるので、いまさらW 杯で騒ぐ必要もないということである。たとえば野球では白人、黒人、プエルトリカン、ヒスパニック、そして日本や韓国のアジア人選手が毎日どこかで試合をしている。ホッケーはカナダや北欧、ロシアの選手が活躍する。これこそW杯の縮図で、日常的な光景になっている今、サッカーに熱を上げるほどのことでもないのだろう。ただこれは、サッカー自体がなぜ人気がないのかをうまく説明できてない。 

 さらに「アメリカ無敵説」がある。サッカーは、時に戦争が起きるくらい国家の威信をかけたスポーツに転化する。つまり軍事的、経済的に弱い国でもサッカーなら勝つということがよく起こるのである。それゆえ国内は沸騰し、サポーターは熱狂的に応援する。一方アメリカはもはや唯一の超大国であり、いまさら国家同士の争いに参戦したところで何の意味もなく、そんなことは他に任せておけばよいというのだろう。また国の威信をかけてたたかう代表チームがヒーローになるのと同じに、この国ではイラクやアフガニスタンで戦った兵士がヒーローになるのであるから、あえて2人のヒーローは要らないという説明も加えられる。しかしこれも、冷戦時代にソ連とのサッカー対戦で国内が盛り上がったという話も聞かないので、少々強引な説という印象を受ける。 

 最後に、「サポーター不在説」というのがある。確かにアメリカ代表チームはあるが、誰がサポーターになるのか。アメリカ人は昨年の同時多発テロに見られるように、危機状態になったときには、大変な団結力を見せ国民一人一人が強力なサポーターになる。しかし今のような平和時には、それぞれが個人主義的な生活を送っており、国を代表するチームを支えるサポーターとして力を果たせないというものである。また民族的バックグラウンドがそれぞれ違うため、たとえばイタリア系ならイタリア代表チーム‘アズーリ’を、アイリッシュ系ならアイルランドをそれぞれ応援することになるともいう。したがってアメリカ人サポーターがどういった人たちで構成されるのか、イメージしにくいのかも知れない。でもアメリカの試合をTVで見ると、星条旗を振っているサポーターもいたので、やはりどこかにはいるのだろう。

 さてあなたは、どの説が一番説得力があると思います?(J)



 

<Vol.42>「刑法39条とは一体・・・」(02・6・15)



 
 
 
 
刑法39条とは一体・・・ 

   刑法39条 1.心神喪失者の行為はこれを罰せず 2.心神耗弱者の行為はその刑を減軽す 

 一般的に殺人を犯す者の精神状態は、尋常ではない。しかしその尋常でない者を裁く法律が、これまた尋常でないとしたら、どうだろう。埼玉幼女連続殺傷事件の宮崎勤、神戸児童連続殺傷事件の‘酒鬼薔薇少年’、飛行機操縦のシミュレーションゲームにのめりこみ自分で操縦したいばかりにハイジャックを企て機長を殺害したパソコンオタク、池田小学校児童大量殺傷事件の宅間守・・・いずれも尋常でない精神状態の者が、殺人を起こしてきた。そして公判では、いずれの事件でも被告人の精神鑑定が行われている。なぜなら、まさにこの刑法第39条の規定に触れるか否かが争点になっているからだ。(*注1) 

 ではなぜ法律は、心神喪失者の刑の免除、もしくは心神耗弱者の刑の減免を定めているのか。心神喪失とは、精神の障害により、行為の違法性を認識する能力、またはそれにしたがって行動する能力がまったくない状態のことであり、心神耗弱とは、精神の障害が心神喪失の程度には達しないものの、その能力を著しく欠いた状態をいう。ところで現行刑法は、自己の行った行為が法に触れるか否かを認識し、責任を取れるかどうかという「責任主義」の考え方に基づいている。そのような者に対して「のみ」国家が刑事責任を追及し、刑罰を課すのである。したがって心神喪失者は責任を追及されず、心神耗弱者は一部しか責任を認められない。 

 しかし近年続発するこの種の事件を受け、この規定をめぐって議論が巻き起こっている。そもそも何人といえども、犯罪を行ったら例外なく責任を追求すべきという主張、あるいは仮に減免を認めるとしても例外的、厳密に適用すべきという「限定適用論」がある。たとえば覚せい剤を使用し心神耗弱状態に陥ったものが殺人を起こしたら、刑法39条が適用されるのか。実際に公判で、被告人がそういう主張をしている事件がある。酒を飲んで酩酊(めいてい)状態に陥り人を傷つけた者にも同じような主張を許すのか。しかし、人為的に心神喪失もしくは耗弱に陥った場合は、39条の適用外にすべきという主張が有力となっている。 

 一方、真に精神的な病によって「心神喪失」が認められ、無罪になったものは、その後、一定期間後に再び社会に放たれるという問題がある。(*注2)その場合再犯の恐れはないのか。その対策として提起されている予防拘禁(犯罪を引き起こす可能性の高い精神障害者を事前に拘束しておく制度)は憲法違反、人権侵害なのか。無罪や減刑処置が出された場合、遺族、被害者の感情はどのようにすれば救済されるのか。そもそも精神医療刑務所なるものは日本には存在しないのに、どうやって被疑者・被告人・受刑者を司法の下に置くのか・・・などさまざまな問題が未解決のまま、現在もなお議論が続いている。しかも、精神病をタブー視する社会意識に阻まれて、なかなか議論が進まないという指摘もある。裁判における精神鑑定のあり方に疑問を投げかけているジャーナリスト日垣隆氏のルポ「封印された殺人の記録」(「新潮45」連載中)は、そういった問題に真正面から切り込んでいる力作で、一読をお勧めしたい。(A) 

*注1)神戸事件のA少年は少年法に基づき、医療少年院送致が決まった 
*注2)裁判所の命令により精神病院に強制入院させる場合が多いが、一定期間後に再び退院し社会に出てくる 
 



 

<Vol.41>「マンガは‘萬画’」(02・6・8)



 
 
 
 
マンガは‘萬画’ 

 仮面ライダーやサイボーグ009、ロボコンなど大ヒット作を世に送りつづけてきたマンガ家・石ノ森章太郎氏が亡くなって4年、その偉業をたたえマンガによる情報発信を目指す「石ノ森萬画館」が、宮城県石巻市にある。昨年秋にオープンしたばかりで、北上川の中洲にたたずむ銀色のUFO型の建物が目を引く。館長が「あぶさん」「ドカベン」で有名な水島新司氏である。これとは別に、石ノ森氏の生まれ故郷である宮城県中田町には「石ノ森章太郎ふるさと記念館」があり、こちらはいち早く一昨年7月にオープンしている。石巻の「萬画館」はエンターテイメント性が強いが、中田の「記念館」は氏の生涯を顕彰するという性格を持つ。 

 生まれ故郷とはいえ、なぜ同じような記念館が宮城県に二つもあるのか。もちろん町の活性化という大きな目的があるのは疑いないが、「石ノ森ワールド」が持つ不思議な感覚が、読むものを捉えて離さない魅力があるからだろう。たとえば仮面ライダー。それまでバイクに乗ったヒーローものは、月光仮面が代表であったが、それを凌駕するライダーのアクション性と悪役ショッカーとの対決という物語全体のコンセプトが、1970年代の少年の心をどれだけ躍らせたか。子供の人気の的であったロボコンのとぼけたキャラクターは、今のドラえもんへと受け継がれた。佐武と市といった大人が読んでもゾクッとくるドラマ性の高い物語、さるとびエッちゃんのような奇想天外の少女マンガ、マンガの題材としてはかなり異色な日本経済入門という硬派作品など、ありとあらゆる階層に支持される物語を生み出してきたのが、石ノ森ワールドの真骨頂である。 

 世界的にみて日本のマンガは、ストーリー性、作画レベル、作者の質、市場性、エンターテイメント性ともきわめて高く、もはやひとつの文化を形成しているといっても過言ではない。宮崎駿の「千と千尋の神かくし」が、全米公開が決まったとのニュースは、ハリウッドも日本マンガのレベルの高さを認めざるを得なくなった証拠であろう。手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫、ちばてつや、さいとうたかお、秋田県増田町出身の矢口高雄・・・きらめく星のごとく光り輝く作家の作品は、この世のよろずを写し出すまさに「萬画」である。(Q) 
 

 

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