今この時間にも、世界のどこかでラジオから彼らの曲が流れている・・・永遠のアイドルでスーパースター、ビートルズ。
 皆さんもきっと1度は聴いたことがあるあの曲、この曲、そしてグループや4人それぞれのエピソードと裏話をお伝えいたしましょう。このコラムを読めばあなたも今日からちょっとした‘ビートルズ博士’になれます。そして、必ずやレコード(CD?)を引っ張り出してその曲を聴きたくなるはずです。
 さあ私と一緒にビートルズワールドへ!(by美人留守びいとるす)
■タイトルの隣の星印が難易度、マニア度を示しています。☆入門者(ようこそビートルズワールドへ)☆☆初級者(さあ学習が進んできましたね)☆☆☆中級者(あなたもそろそろひとり立ちできるかも)☆☆☆☆上級者(ひとり立ちできました、立派です)☆☆☆☆☆ビートルズ学教授(あなた自身のビートルズワールドを広めてね)
※毎月1日と16日の更新予定です

 
 
<第十二話=番外編>ビートルズの“遺産相続人”ポール・マッカートニーの来日☆☆☆
 1962年にビートルズがメジャーデビューして今年で40年。それを記念したわけではないが、還暦を迎えたポール・マッカートニーが来日公演を行っている(11月15日現在)。本来であれば赤いちゃんちゃんこを着て舞台に立ってもおかしくない年齢であるが、初老の入り口に立ったポールの声は、バリバリだった30代、40代となんら変わらないというから驚きである。

 彼が日本に来たのは、1966年6月のビートルズ来日公演以来4回目。正確には5回なのだが、1980年1月のウイングスを率いての来日公演は、成田空港で大麻所持のために逮捕され強制退去させられるという大事件で“幻”になった。この事件を題材にして、のちに「フローズン・ジャップ(凍りついた日本)」という曲を書いている。そして今回の来日前のインタビューで、「荷物の中に何が入っているか、しっかり確認しないといけないね」などと、あの事件を自ら茶化している。

 しかし日本の暖かいファンの要望にこたえ、1987年に来日公演が実現してからはワールドツアーの興行先には必ず日本を選んでいる。過去の公演はすべて満員御礼、そして今回も東京ドームの3回だけでは足りずに、大阪ドームでも2回の公演という大盤振る舞い。この来日の模様を舞台裏まで含めてすべて映像に収め、映画かDVDにして日本のファンに提供する予定だという。ビートルズ現役時代となんら変わらず熱狂的に迎えてくれる日本のファンに、最高のプレゼントを贈ろうとする義理堅いポールである。

 今回のワールドツアーは、事実上“引退興行”になるといわれている。それは選曲にも現れている。37の演奏曲目のうち、23曲がビートルズ時代の曲という大サービスぶり。しかも亡き友ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、そして一昨年がんで亡くなった先妻リンダに、それぞれ1曲ずつ捧げるという義理堅さ。さらにアンコール最後の曲が、なんと「ジ・エンド」。ビートルズの実質的な最後のアルバムになった「アビーロード」の、まさに最後の曲である。こういった流れに、ビートルズの“遺産相続人”は自分であることを世界のファンに改めて表明して回り、長い間の声援に感謝の辞を述べて表舞台から静かに去りたい、という意思を感じ取っているのは、おそらく筆者ばかりではあるまい。

 1957年にジョン・レノンと知り合ってロックバンドをはじめて45年。半世紀近くも歌い続け、歴史に残る大ヒットを連発してきたポールも、もはや第一線から去る意思を固めたのだろう。考えてみれば、これだけ長い間現役のまま世界を熱狂させ続けてきたアーティストは、ポール・マッカートニーをおいて他にはいない。そして今後、ビートルズを越えるミュージシャン、もしくはグループが出てくることもまた困難であろう。そもそもビートルズの存在自体が奇跡であったのだとすれば、われわれは“20世紀の奇跡”の最後の晴れ舞台を、今、見届けるしかないのである。
「ジ・エンド」'Abbey Road’収録


 
<第十一話>ジョンのナンセンス感覚の究極「アイ・アム・ザ・ウオルラス」☆☆☆☆☆
 1967年8月は、ビートルズにとって最大のターニングポイントになりました。彼らを見出し世界に売り込んだ辣腕マネージャー ブライアン・エプスタインが、薬の服用を誤って急死してしまったのです。すでに世界制覇を成し遂げた4人は、これからの活動の方向性を見出すためにさまざまな試行錯誤を行っていた矢先だっただけに、彼らをまとめていたものが突然いなくなったことは、その後の混迷=解散への第1歩になったのでした。

 4人は自らの会社「アップル」を設立し、グループのマネージメント業務と新ビジネスを行うことになります。そしてエプスタインの死後最初に取り組んだのが、TV映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の制作でした。いまやリバプールのビートルズ名所を回るバスツアーの名称となったこの映画は、その年のクリスマスに公開され75%という驚異的な視聴率を取りましたが、マスコミからは散々の評価を受けました。理由はいくつかあります。まずサイケ調で色彩豊かな映画だったにもかかわらず、当時のイギリスはカラーTVが普及しておらず、その色彩感覚が伝わらなかったこと。また内容がナンセンスで筋らしい筋もなく、やや冗長に流れたこと、などがあげられます。しかしあれから35年たった今視ると、色彩豊かな映像とシュールでナンセンスな感覚の構成に驚かされます。つまりビートルズが30年以上先を行っていたのです。

 その中でも印象深い映像が、ジョンの「アイ・アム・ザ・ウオルラス」でした。「エッグマン(卵男)」に扮したジョンが、オルガンを弾きながらこの曲を歌い、警官役が踊るこれまたナンセンスな映像になっています。ジョンはイギリスの作家ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の‘セイウチと大工’から題材をとったと語っていますが、詞の内容はナンセンスのオンパレードです。「僕は彼、君も彼、そして君は僕・・・コーンフレークの上に座ってお迎えのバンを待っている・・・小さなお巡りさんが並んでふわふわ空を飛んでいる・・・死んだ犬の目から黄色いカスタードがしたたり落ちる・・・初心者のペンギンがハレクリシュナを唱える」という具合で、まったく要領を得ません。しかしここにこそジョンの狙いがあったのです。

 ボブ・ディランの影響を受けていた当時のジョンは、聴くものに解釈させようとあえてナンセンスで意味の通らない言葉をちりばめたのでした。「解釈を競わせようとするゲームのようなものさ」という発言もしています。そして最も議論を呼んだのは「エッグマン」と何か、もしくは誰かという謎です。ジョン自身はこれには直接答えていません。しかし、今回筆者はあえてその謎を解きます。

 「朝日の当たる家」などで当時イギリスでも人気のあったロックグループ・アニマルズのリーダー=エリック・バートンには、ちょっと変わった性癖がありました。ベッドを共にする女性のおなかに卵を落としてそれをすするという、ちょっと想像のつかないような変態じみた話なのですが、これがロック仲間では公然の秘密になっていました。「エッグマン」はそれを皮肉ったというのが真相でしょう。そしてもうひとつの‘衝撃の真実’、この曲の最後の掛け声は、日本の民謡「斉太郎節」がヒントになっているといわれています。そういわれて聴いてみると・・・あとは皆さんの”耳”で確かめてください。
'Magical Mystery Tour’収録
 


 
<第十話>レノン=マッカートニーに並ぶジョージの傑作「サムシング」☆☆☆
  1969年になると、鉄の結束を誇ったビートルズに亀裂が広がってきました。この年1月に行われた「レット・イット・ビー」の映画撮影と新曲のレコーディングは思ったとおりに運ばず、メンバーのすれ違いを見せつけるだけに終わりました。グループは終わりか?と思われていたとき、ポールが新しいレコーディング・セッションを提案し、ほかの3人もこれに同意します。そこで開始されたのが「アビーロード」のレコーディングです。ここではジョージがすばらしい曲を披露します。それが、ビートルズの歴代シングルA面の中で、唯一レノン=マッカートニー以外の曲となった「サムシング」でした。

   ジョージ・ハリスンは、実はビートルズ結成当時から曲作りを行っていましたが、レノン=マッカートニーというあまりにも大きな存在の影で、スポットライトがなかなか当たりませんでした。そのせいで‘クワイエットビートル(もの静かなビートル)’などと呼ばれ、悔しい思いをずっと胸にしまいこんできたのです。しかし68年に発売された「The Beatles(通称;ホワイトアルバム)」で大きな成長を見せ、’While my guitar gently weeps’という名曲を世に送り出し、ようやくスポットライトを浴びます。当時普及し始めたムーグ・シンセサイザーという電子楽器を駆使してソロアルバムを発表するなど、このころから精力的に曲作りを行っていました。そして満を持して仲間に提示した曲が、「サムシング」でした。

  ジョージはこの曲をレイ・チャールズが歌うことをイメージして、ピアノで作曲したといいます。ただ詞の内容は、彼の妻パティにささげたラブソングです。果たせるから、そのレイ・チャールズもサムシングをレパートリーに加え、まさにジョージがイメージした通りになったのです。曲の出来があまりにすばらしかったので、マイケル・ジャクソンがジョージと対談するまで「レノン=マッカートニーの名曲の1つ」と誤解していたというエピソードがあります。このマイケル、実はビートルズの曲の版権を所有していることはあまり知られていません。またフランク・シナトラも、レノン=マッカートニー作で最も好きな曲を問われて、「サムシング」を挙げたという勘違いもあったのです。

  さてジョージの妻だったパティは、その後ジョージの親友エリック・クラプトンの元に走り、二人は離婚しました。クラプトンの作った名曲「いとしのレイラ」は、実はパティへの思いを歌った曲だったのです。ところがパティは、クラプトンとも別れるという「事実は小説より奇なり」 を地でいく人生を歩んだのです。

  ジョージ・ハリスンは、1999年12月に自宅に精神異常者が侵入し、ナイフで刺されるというアクシデントに見舞われましたが、見事に回復し、新曲のレコーディングも行っていました。しかし昨年11月、肺ガンのため惜しまれながらこの世を去りました。享年57歳。臨終の数日前、メンバーだったポールとリンゴが一緒に病床を見舞い、3人で手を取りながら別れを惜しんだというエピソードが伝わっています。

'Abey Road’収録
 

 
<第九話>リンゴの何気ない一言がタイトルに「ハード・デイズ・ナイト」☆☆☆
 1964年は、ビートルズにとってもっとも忙しい年だったのではないでしょうか。年初めのヨーロッパ公演、「抱きしめたい」が全米ナンバー1に輝いた後のアメリカ進出、6月からは再びヨーロッパ、遠く香港やオーストラリアまでツアーに出かけています。それが終わると本格的な全米公演。その間にもシングル曲とアルバムを作りつづけていたのです。休む暇もなく、リンゴにいたっては6月のツアーの際に病気で倒れ、ジミー・ニコルというドラマーが代わりにビートルズの一員となってツアーに出ています。

 もはや彼らの人気は世界中に広まっていましたが、‘動いているビートルズ’を見る機会は当時は限られていました。そこで映画を製作し、世界中の映画館で上映することになったのです。もちろんビートルズにとっても初体験で、全員がこの企画に乗り気でした。そこで監督として白羽の矢が立ったのが、短編コメディー映画で有名になったディック・レスターでした。彼らのツアーの様子を、日常のエピソードを交えながら描き、さらにコメディーの要素を取り入れたシナリオが書き上げられました。撮影は6週間という短期間で終わり、完成したのが映画「ハード・デイズ・ナイト(日本題;ビートルズがやってくる、ヤア!ヤア!ヤア)」です。

 しかしこの題名が決められたきっかけは、リンゴの何気ない一言でした。「昼間ずっと仕事をしていて夜になっても終わらなかったとき、まだ昼間だと思っていた僕は‘大変な1日・・・’と言いかけて、あたりが暗くなってしまっていたことに気づいた。そこであわてて‘・・・の夜だった’と言い直したのさ」そのタイトルに決まったことを聞いたジョンは、さっそく曲を書き始め、‘ジャ〜ン’というインパクトの強いイントロを考え付いたのです。

 ところでこの映画、白黒で撮影されています。なぜ?1)監督がカラーを好まなかった 2)カメラマンが間違えて最初に白黒フィルムを入れてしまったので、最後までそれで通した 3)低予算に抑えるため 正解は3)。この企画が持ち上がった1963年後半、ビートルズの人気はうなぎのぼりでしたが、ショービジネス界にありがちな「明日はタダの人」になる可能性もあったので、プロダクション側が慎重になって予算を抑えたためというのが通説です。しかし映画は世界中で大ヒットし、プロダクションは大儲けしました。ビートルズが登場するや突進していく観客が相次いで、いくつものスクリーンが壊されたというエピソードがあるほどです。そしてもうひとつ、映画の中で列車に乗り合わせた女学生役で出てくるかわいい女の子が、のちにジョージの妻になるパティ・ボイドです。
'A Hard Day’s Night収録
 


 
<第八話>ビートルズが人類に送る至上のメッセージ「愛こそはすべて」☆☆
 今では衛星生中継など珍しくなくなりましたが、1967年に全世界を結んでの“Our World(日本放送タイトル:「宇宙中継、われらの世界」)”の生中継は、まさに初めての出来事でした。全世界で見ているであろう数億の人々に向けてメッセージを残したいと考えたビートルズは、ジョンの書き下ろした新曲「愛こそはすべて」を放送することに決めます。 

 世はサイケデリック全盛期であり、ヒッピーとなって放浪し、ドラッグの影響を受ける若者が増えていた時代でした。またベトナム戦争が泥沼化して厭戦気分が高まる中’Love and peace’のスローガンが支持され、手に手に花を持って集会を行うフラワームーブメントが全世界に広がっていました。「愛こそはすべて」は、こういった時代に強く影響された曲でしたが、同時にビートルズの存在自体を貫く大きなテーマだったのです。

  67年6月25日、24カ国を結ぶ2時間の歴史的放送がスタートすることとなります。ちなみに日本では朝4時からの放送でした。そしてビートルズは、番組の大トリで登場することになります。紅白歌合戦でいうと北島三郎か五木ひろしといったところでしょうか。放送スタジオになった彼らの本拠地アビーロードスタジオには、マネージャーのブライアン・エプスタイン、プロデューサーのジョージ・マーティン、彼らの友人であったローリングストーンズのミック・ジャガー、“ギターの神様”エリック・クラプトンなどそうそうたるメンバーが顔をそろえていました。そしてこの特別番組のために13人のオーケストラが、スタジオでスタンバイしていたのです。 

  4人はサイケ調の色鮮やかな衣装を着て登場。アナウンサーが「今まさにビートルズの新曲が完成しようとしています」と伝えると、ジョージ・マーティンがスタートの「キュー」を送り、テープからフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の冒頭部分が流れ始めてきます。そしてジョンのボーカルが続き、ほかのメンバーのギター、ドラム、ベースが入り、そして曲の最後には、オーケストラがストリングスを奏でる中、スタジオにいた仲間たちは、「愛こそはすべて」というメッセージを各国語で記したプラカードを掲げて行進します。こうして風船が浮かび、紙ふぶきと紙テープが舞う中でイギリスからの放送は幕を下ろします。このときビートルズの演奏を見たのは、3億人を超えたといわれます。 

実はこの放送は白黒で行われ、スタジオのサイケ調の色は視聴者にはまったくわかりませんでした。このときのVTRにコンピュータで着色した画像が、「ビートルズ・アンソロジー」で見ることができます。

'Magical Mystery Tour'収録
 


 
 
<第七話>ビートルズのメルヘンワールド「イエローサブマリン」☆☆☆
 ビートルズのプロデューサー=ジョージ・マーティンは、本格デビューを前にオリジナルのドラマーだったピート・ベストの腕前に満足せず、交代を要求しました。マネージャーのブライアン・エプスタインがほかのメンバーに相談したところ、ビートルズとも顔見知りだったリンゴ・スターの名前が挙がりました。1962年7月のことです。このあおりでピートはクビになり、その後公務員になります。新ドラマーに収まったリンゴは、人をひきつけるキャラクターと創造性豊かなドラミングで、このようにビートルズにスカウトされたのです。ビートルズのアルバムで必ず1曲、リンゴがリードボーカルを取っているのも、ほかのメンバーがそんな彼に敬意を払っていたからに他ありません。

 1966年になると、彼らは歓声と喧騒に包まれるツアーに嫌気がさす一方で、スタジオで新しいことに挑戦しようという意欲が増しつつありました。ステージでは決して演奏できないような曲作りに、関心を持ち始めたのです。その集大成が、その年8月に発表された傑作「リボルバー」です。この中に収められている1曲が‘黄色い潜水艦’で、ここには随所に楽しい遊び心が潜んでいます。ポールがこの曲のアイディアを思いついたとき、子供に向けたメッセージとリンゴが歌いやすいメロディーに気を配ったといいます。まず、リンゴのほのぼのとしたボーカルが曲調にぴったりとハマり、潜水艦が進水していく様子はコップの水を吹いて再現、波の音はバケツの水を使い、艦内電話で乗組員同士のやり取りを再現しているのはビートルズのメンバーです。そして最後に「俺たちゃみんな、黄色い潜水艦に住んでいる」とコーラスしているのが、その場に居合わせたビートルズの妻や恋人=ファミリーの面々でした。

 ‘黄色い潜水艦’のアイディアは、その後ビートルズを主人公にしたアニメ映画「イエロー・サブマリン」になり、ポールの狙い通りイギリスの子供に大人気を博しました。日本では、民謡歌手金沢明子が‘イエローサブマリン音頭’を歌って、日本の伝統的なメロディーとのミスマッチを楽しむことができます。そしてリンゴ自身がこの曲が大好きで、コンサートでは必ず客席と一緒にこの曲を歌い、会場を盛り上げています。

'Revolver'収録
 


 
 
 
 
 
<第六話>初の全米ナンバーワンは最高の邦題「抱きしめたい」☆☆☆
 さすがのビートルズといえども、全米進出は困難をきわめました。1963年にイギリスでヒットした曲をアメリカのマイナーレーベルから何曲か出したものの、いずれも思うようにヒットしなかったのです。当時「イギリスのアーティストはアメリカでは成功しない」というジンクスがあって、イギリス1のアイドルだったクリフ・リチャードですら、アメリカの厚い壁に跳ね返されていました。そして「ビートルズもやっぱりだめか」と思われていたのです。しかし敏腕マネージャー・ブライアン・エプスタインの強気のプロモーションが功を奏し始め、イギリスの評判がアメリカにも伝わるようになって、メジャーレコード会社のキャピトルが曲を出そうという申し出をしてきたのです。

 その年の秋、ジョンとポールは絶対ヒットする曲をつくろうと決意し、ポールのガールフレンドの家の地下室で共同作業を始めます。両天才の手にかかればこんなに簡単にヒット曲が生まれてくるのかとばかりに、「抱きしめたい」は完成し、12月に発売されます。翌64年2月、ビートルズはパリ公演をしていました。演奏が終わってホテルに戻ったところ、アメリカから電報が届いているといいます。その内容を聞いて一同は飛び上がらんばかりに驚きました。いや、実際に飛び上がりました。「おめでとう、‘抱きしめたい’が全米1位になった」そのすぐあと、彼らはアメリカに飛びます。

 飛行機がニューヨークの空港に停まって彼らが目にしたのは、信じられない光景でした。ターミナルビルには横断幕を持った人また人の波、「誰かVIPが来ているのかな」と思ったビートルズは、それが自分たちを歓迎している群衆だと知るのに時間はさほどかかりませんでした。そして彼らの名前と姿をアメリカ中に知らしめたのが「エド・サリバンショー」でした。このときの視聴率が80%を越え、放送時間帯のNYの犯罪がゼロになったのは有名なエピソードです。こうして彼らの全米進出は大成功に終わり、その‘仕上げ’に、64年4月第1週の“全米ヒットチャート上位5曲独占”という空前絶後の大記録を達成するのです。

 そして日本でもこの年にビートルズ旋風が巻き起こり、「抱きしめたい」が大ヒットしています。この曲の原題は’I want to hold your hand’で、そのまま訳すと「手を握っていたい」という意味になります。これではインパクトが弱いと感じた東芝EMIの担当者は、この題にしたところ見事に的中、日本でも彼らの人気が沸騰し、その後のGSブームへと受け継がれていきます。

'Past Masters Vol.1'収録
 


 
 
<第五話>ポールが夢で書いた稀代の名曲「イエスタディ」☆☆☆☆

 「ある朝目が覚めると、頭の中でメロディーが鳴っていたんだ。“何だ、これは?こんな曲知らないぞ”と思いながら、ベッドのそばに置いてあるピアノでとりあえずメロディーを弾いてみた。そして知人に“こんな曲知らない?”と訊いて歩いた。だけど誰も知らない。そこでこの曲にとりあえず‘スクランブルド・エッグ’というふざけた題名をつけておいたのさ。」以上、マッカートニー氏の発言です。終わり・・・これで終わったら、お前の役目がないだろう(と、ツッコミが入る)

 天才ジェームズ・ポール・マッカートニー卿(そうです、ポールは女王陛下から貴族の称号を授けられているのです)を、‘聖堂’ベートーベンと並ぶ大作曲家に押し上げた曲が、この「イエスタディ」なのです。ギネスに「世界で一番カバーされている曲」として認定されているほどの名曲で、これを聴いたことのない人は‘人類のもぐり’という烙印が押されるでしょう。

 実はこの曲の録音には、ポール以外のメンバーはかかわっていません。ドラム担当のリンゴは「この曲にドラムはナンセンス」と降り、ジョンとジョージ・ハリスンも「ほかのギターは必要ない。君一人でやりなよ」と完全にポールにゲタを預けたのです。そしてまたまた登場のジョージ・マーティン師匠のアドバイスで、管弦四重奏を加えることになりました。実は師匠、もともとはクラシックの教育を受けたプロデューサー、楽譜なんか朝飯前にかけるのです。こうやってポールのギターと管弦四重奏からなるイエスタディは完成を見ました。

 イエスタディはアメリカではナンバーワンに輝きましたが、なぜかイギリスではシングルで発売されていません。それは、ロックバンドの曲としてのイメージとあまりにかけ離れていたため、ポールがイギリスでの発売を遠慮したからです。(その後ビートルズ解散後に発売されました)しかし、ビートルズに批判的だった口うるさいイギリスの批評家たちはこの曲を絶賛し、彼らの社会的評価を著しく高めたきっかけともなりました。(かつて‘コミックバンド’として見られていたサザンオールスターズが、名曲「いとしのエリー」で押しも押されぬナンバーワンバンドにのし上がっていったいきさつと似ていますね)

 ビートルズ解散直後、ジョンとポールの仲が険悪になっていたとき、ジョンは自分の曲の中で「お前がやってきたのは‘昨日(Yesterday)’だけかい。今じゃ‘別の日(Another day)’になっているがね・・・」(How do you sleep?)と、ポールの曲に皮肉を浴びせています。もちろんこれはジョンの本音ではなく、のちに彼は「まさにポールが生み出したポールの曲だ。よくできているよ。すばらしいね」と手放しに賞賛しています。

 ポールは最近になって、ジョンの遺産相続人オノヨーコに対してある提案を行っています。「‘イエスタディ’のクレジット(歌の名義人)をレノン=マッカートニーからマッカートニー=レノンに変更してほしい」という内容でした。ビートルズ当時二人の間には「どちらか一方が書いた曲でもレノン=マッカートニーのクレジットにする」という約束がありました。この曲はもちろん100%ポールが作った曲で、しかもレコーディングにほかのメンバーは加わっていません。それが理由でしたが、ヨーコは拒否回答しています。そんな小さないさかいを吹き飛ばすほどの名曲は、永久に聴き継がれていくことでしょう。「イエスタディは永久に不滅です」
‘Help!’収録
 


 
 
<第四話>‘おめでとう、君たち最初のNO1ソングだ’「プリーズ・プリーズ・ミー」☆☆☆☆
 1962年に「ラブ・ミー・ドゥ」でメジャーデビューを飾ったビートルズ、チャートは最高位17位とまずまずの結果を収めましたが、当然次はもっと上を狙うべく新たに曲作りを開始しました。プロデューサーのジョージ・マーティンは他人が書いた曲「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」をすすめ、4人も1度はこれを録音したのです。しかし自分たちの曲作りにこだわるビートルズは、新しい作品を持ってきました。グループの実質的なリーダーだったジョンは、ある日自宅でベッドに横になりながらラジオを聴いていたところ、当時の人気歌手だったロイ・オービソンの曲が流れてきたのです。前からオービソンのメロディーとビング・クロスビーの歌詞に何かを感じていたジョンは、’please’という言葉を2度重ね合わせるアイディアを思いついたのです。
 最初録音したバージョンは、まさにジョンがイメージしたオービソン風のゆっくりとしたスローロックになりました。しかしジョージ・マーティンは気に入りません。そして彼らに「もっとアップテンポにしてやったらどうだろう」と提案しました。早速それで試してみると、これが結構いい仕上がりになり彼らも満足したのです。そしてレコーディングの最後に‘師匠’はこう言いました。「おめでとう、君たち最初のナンバーワンヒットの誕生だ。」63年2月、果たせるかな「プリーズ・プリーズ・ミー」はイギリスヒットチャートの第1位に駆け上がり、ここから彼らの伝説が始まったのです。

 マニアの間では、彼らが最初に録音したオービソン風の「プリーズ・プリーズ・ミー」のテープが存在するのではないかとの噂が長い間飛び交っていましたが、1995年の「ビートルズ・アンソロジー」の中で、ポールが「今は存在しない」と明言しており、残念ながら幻に終わったようです。しかし彼らの反対で‘お蔵入り’した「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」は、「アンソロジー」で陽の目を見ました。

‘Please Please Me’収録
 


 
 
<第三話>そしてジョンは心から叫んだ「ヘルプ!」☆☆☆☆
  1964年にアメリカ進出を成功させ世界制覇への第1歩を刻んだビートルズは、まさにその絶頂期を迎えようとしていたのに、かなり疲れが見えてきました。どこにいっても「ビートルマニア」と呼ばれる一団によってコンサート会場は埋めつくされ、歓声と悲鳴で自分たちの演奏すら聴こえない状況が続いていました。それに3ヶ月に1枚は新曲を出さなければならない、アルバムもつくらなければならない、コンサートはある、同じことばかり聞かれるインタビューにも応じなければならない、ひっきりなしに舞い込むラジオやTV出演依頼・・・精神的にかなり追い詰められていきます。

 1965年、映画の話が持ち上がりました。リンゴのはめた指輪を狙う秘密の宗教集団が、バハマやオーストリアまでビートルズを追いかけるドタバタ劇でした。彼が実は指輪のコレクターで、それがヒントになってシナリオが書かれたといわれています。ちなみにリンゴ・スターは本名リチャード・スターキー、指輪(ring)をたくさんはめていたところからRingoの名前がつきました。そして撮影の合間に、4人はマリファナをやっていたと、のちに正直に告白しています。映画のタイトルは当初’Eight ArmsTo Hold You’とされていましたが、この曲作りをしている間に「Help!」(邦題;ヘルプ!4人はアイドル)と決まりました。ジョンが主に曲を書き上げ、ポールが構成を手伝うまさにレノン=マッカートニー作です。

 後になってこのときの心境を、ジョンは次のように語っています。「ビートルズのことが何もかにもわからなくなっていた。僕は豚のように飲み食いし、豚のように太っていった。無意識のうちに自分に幻滅し、心から助けを求めていたんだ。僕はあの時、‘太ったエルビス’だったんだ。」しかし、このときほかの3人はジョンの心境の変化に気づくことなく、グループは何事もなかったように再びツアーに出たのです。このストレートなロックンロールナンバーは、ナンバー1の座を3週間続けます。ジョンお気に入りの会心作であり、ビートルズ解散後にソロで録音し直そうとしましたが、それを果たすことはできませんでした。

‘Help!’収録
 


 
 
<第二話>ジョンのわがままが生んだ傑作「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」☆☆
 ストロベリー・フィールズはリバプールに実在する救世軍の孤児院で、今ではビートルズツアーの名所のひとつになっています。少年・ジョンは、よくここで遊んでしました。1966年秋、ビートルズは嬌声と阿鼻叫喚に包まれたツアーから解放されて、一人一人が思い思いの時期を過ごしていました。ジョンは’How I won the war’(邦題:ジョン・レノンの僕の戦争)の撮影のためにスペインに飛びます、飛びます(坂上二郎の古いギャグ)。そこで待ち時間をつぶすために、曲をいくつか書き上げました。その中のひとつがこの曲だったのです。

 休暇明けの66年11月、4人は再び集まり「ストベリー?」の録音を開始します。最初はゆっくりしたテンポのバージョンができましたが、ジョンはいまいち気に入らず、録り直しになります。次にアップテンポにしてみたもの、これまたピンと来ない。進退窮まったジョンは、‘師匠’ジョージ・マーティンに泣きつきます。「最初に録ったのはイマイチだけど何か捨てがたいんだ。それに、次のやつにも何か感じる。この両方を生かせないかな」と無理難題を吹っかけたのです。直ちに拒否するやと思いきや、さすがに師匠、二つ返事で「ああ、やってみよう。」ここから‘名伯楽’マーティンの奮闘が始まるのです。

 まず試しに、ゆっくりした方のテープスピードを上げアップテンポのバージョンのスピードを落としてみると、あ?ら不思議、ぴったりとキーが一致してしまったのです。現在ではサンプリングなどのハイテク技術を使えば、そんな芸当も簡単にできます。しかし当時はそんな技術などなく、まったく違う日に、別々に録られた曲がスピード調整してキーが合うなどということは、相当確率が低いのです。これまた天才ジョン・レノンが仕掛けた偶然の一致なのでしょうか。この‘奇跡’を発見した師匠は「いける」と判断し、テープ操作によって2曲を1曲にまとめてしまったのでした。この曲は’Penney Lane’との両A面シングルとして発売され、またも当たり前のように大ヒットとなりました。

 では読者の皆さんにテープをつないだ箇所をお教えいたしましょう。冒頭の’Letme take you down, ‘cause I’m going to’の部分の「I’m」と「going」の間です。

‘Magical Mystery Tour’収録
 


 
<第一話>ジョンの息子を慰めたポールの名曲「ヘイ・ジュード」☆☆☆
 あらかじめ断っておきますが、ジュードは’柔道’のことではありません、あしからず。
 1968年、日本人前衛芸術家・オノヨーコと知り合い深い仲になったジョンは、妻シンシアとの離婚が避けられない情勢になってきました。両親の不仲を知った当時5歳の息子ジュリアンは、とても不安で悲しい日々を送っていたのです。ポールはそんなジョンの家庭状況を知り、何とか慰められないか考えていたところ、車を運転していたときに、あの冒頭の1節が突然頭に浮かんできたのです。(ポールが天才たるゆえんですね)
 「ヘイ・ジュール、あまり悪く考えるなよ、悲しい歌だって楽しくなる・・・」そう、何を隠そう(何も隠していない!)ジュードとは、このジュール=ジュリアンのことだったのです。詞を完成させるに当たってポールは、ジョンにある部分がふさわしいかどうか尋ねました。
 ポール「この’君に必要なものは肩の上にある’というところだけど、あまりうまくない表現だから直そうと思うんだけど・・・」ジョン「何言っているんだ。ここが一番いいところじゃないか。君じゃなきゃ、こんな詞書けないだろう」このジョンの一言で、詞は最終決定されたのです。
 ところが問題発生。彼らの’師匠’プロデューサーのジョージ・マーティンが「長すぎる」と難色を示したのです。ポールの反論「長すぎるとどこがまずいんだい」マーティン師匠「こんなに長いとDJがかけられないだろう」再びポール「ビートルズの曲ならかけてくれるよ」そして、曲は完成しました。
 しかし一難去ってまた一難、長すぎて当時の技術ではシングル盤のレコードに収まらない可能性が出てきたのです。ここにきて7分という、当時世界最長の曲の発売が、一時危ぶまれましたが、'na,na,na,nanana,nah'という後半部分の音量を押さえることによって問題を解決したのでした。果たせるかな、DJはこの曲をかけ続け全米ヒットチャート第1位を9週連続達成し、彼ら最大のヒット曲になったのです。
 後年ジョンはこの曲を「ポールの傑作」と評価しつつ、次のような意味深の言葉を残しています。「この曲は実は僕に向けられた歌じゃないか思うことがある。’ヘイ・ジョン、ヨーコとどっか行っちゃえよ、オレはさびしくなんかないからな’とね。しかし長年自分とやってきたポールの気持ちは、実は反対なんだ。」
'Past Masters Vol.2''The Beatles1967-1970(通称・青盤)'収録