いつも不思議に思うのだが、睦月の1月ほど一カ月を長く感じさせる月はない。まるで時間が停まっているのではないかと思うほど日々の流れが悠長に感じるのだ。カレンダーを見ては「まだ10日か。まだ15日か」と過ごし、いらだつ自分を抑えられない。ちょうどまだ明けやらぬ未明に目覚め、やることもないまま布団の中で夜明けをジッと待つ、そうした苦痛に似ている。そして2月に入ると目まぐるしく月日は流れ、光陰矢の如しを実感するのである。
入社して間もないまだ安月給のころだった。いまでも懐の貧しさに変わりはないが、とにかく1月は今以上に長く感じられ、月末になるともう昼飯を食う金にさえ事欠き、父や母に小遣いをせびっては「会社から貰う給料では足りないのか」と困らせたものだった。むろん、給料の中から少しばかりの生活費は家に渡していたが、とにかく1月だけは小遣いが足りず、父や母からお金をもらうしかなかった。飲み屋を飲み歩いたわけではない。ぜいたくな昼飯を食べているわけでもない。衣類を買い求めたわけでもない。せいぜいお金を使ったとすればレコードを1枚か2枚、それに文庫本を1冊か2冊、買い求めた程度だった。それだけのささやかな贅沢を楽しんでも1月分の給料は月末まで持たなかった。30年前のあのころは誰もがそうした貧しさだったかもしれない。
とにかく1月は長過ぎて、小遣いに困った記憶ばかり残っている。そして2月に入ると「エッ。もう月末か」と時の流れの早さに驚き、今日まで歳を重ねてきた。その1月もようやく今年も幕を閉じ、如月の2月に入った。4日は「立春」である。これからは「畳の目」一つずつ日脚が伸びていく季節となる。まだ寒さは厳しいが、一日一日をやり過ごすたびに気温も上がっていくことだろう。待ち遠しかった春の兆しが感じられる季節に入った。
入社して間もないあのころ、1月が特に長く感じたのは時間をやり過ごす方法を知らなかったせいもあったろう。それに仕事もどうこなしたらいいのか、要領をつかめなかったせいもあった。とにかく新聞記者は歩かなければと市役所各課を回り、警察に顔を出して事件があればそれをメモし、誰もいない市役所記者室に入っては他社の先輩記者が顔を出すのをジッと待っていたものだった。
市役所はまだ木造の古い建物で、暖房は石油ストーブだった。そのストーブに点火し、新聞に目を通し、飽きたら文庫本を読み、先輩記者が顔を出すのを待っていた。入社したばかりのあのころは朝日、読売、毎日、それに産経の全国紙4紙と仙台市に本社を置く河北新報社の通信部があり、それに秋田魁新報社の支局員、そして地元紙の自分を含めた記者たちのより所だった。NHKの記者も駐在していて、まさに記者室は多士済々のサロンだった。今、大曲市に記者を配置しているのは読売と秋田魁だけとなった。
こうした記者たちが集まり出すと、話題も事欠かず、その話しに耳を傾けながら記事の書き方、取材の仕方、新聞記者としてのセンスなどを学んだ。マージャンを教えてくれたのもその先輩記者たちだった。覚えてもらわないとメンバーが足りない時に困るからと言うのがその理由だった。各社の記者たちは大抵、午前中はそれぞれ取材に走り、お昼ごろには記者室に顔を出した。集まり出すと阿吽(あうん)の呼吸でマージャンが始まった。自分に参加を呼びかけるのはいつもメンバーが足りない時だけだった。「お前は遊びを覚えるよりも、まず仕事を覚えろ」と言うことだったろう。
他社の人間でありながらもまだ新人で、最も若く、見習い中だと言うこともあって原稿の書き方、取材の仕方なども教えてくれたものだった。単純な交通事故の記事でも加害者と被害者の名前のどっちを先に書くかで読者の印象が違って来るものだとも教えられた。事故や事件で亡くなった方の顔写真をどうやって求めるか。悲しむ遺族を訪ね、どうしたら顔写真を提供してもらえるか。その説得の方法まで教えてもらったものだった。まだ誰も車を持っている人はなく、大きな事件があればタクシーを使って、それに数人ずつ乗り込んでの共同取材だった。
各社の記者たちが車を手に入れ、取材に車を使い出したのは自分が入社してから4〜5年も経ってからだったろうか。それまではほとんど冬は歩いての取材活動だったから、1月は余計、長く感じたものだったのかもしれない。だが、車のない分、毎日がのんびりできた。そのタップリある時間が逆に言えばまだ見習いだった自分には幸いした。記者室は談論の場であり、遊びの場、そして勉強の場となったからだ。
放火事件があれば、記者室で新聞紙に火を点け「果たしてこれで燃え上がるものかね」と床に放り投げて実験する猛者もいた。真冬の川に幼い子を連れて飛び込んだ母子心中があれば「秋田の人はなぜこうも悲しい死に方を選ぶものか」と目を真っ赤にして、その死を悼みながら、電話で支局に原稿を送る人もいた。出稼ぎ先の東京で仙北郡内の人が亡くなったと本社からの連絡を受け、遺族の談話を取ろうと電話を掛け「奥さん。気を強くしてこちらの話を聞いて下さいよ」と慰めながら、夫の生前の生活などを聞き出す職人技を持った記者もいた。
記者たちの仲間意識も高く、転勤する人が出ると各社共同で送別会を開いた。もちろん会費制で、自分も必ずそれに呼ばれた。宴会と言えば当時はお座敷が中心で、年増の酌婦が呼ばれ、二十歳そこらの自分は上がった事もなかった料亭の座敷、その上、厚化粧した酌婦さんの差し出すビール、お酒に舞い上がり、まるで地元の名士にでもなったような気分に浮かれたものだった。
年齢がふた回りほど離れたある全国紙の記者は4年ほど大曲に滞在し、良く自分の行く末を心配してくれたものだった。「伊藤ちゃん。新聞記者は人に恥じるようなことはしてはいけない。ちやほやされて、偉くなったと勘違いしてもいけない。傲(おご)ってもいけない。常に読者あっての新聞だからね」と諭し、「君の会社のずーと前の先輩記者もうちの社の通信部員としてやっている。地方記者としてだが、君にやる気があるのなら本社に掛け合ってもいいよ・・・」と入社を勧められた時もあった。その言葉に天にも昇る気持ちで「お願いします」と頭を下げた。
雪の多い年で、その晩はお酒をご馳走になり、大曲駅から汽車に乗って飯詰駅で下り、深夜の雪道を夢見心地で歩きながら自宅に帰ったものだった。その喜びを伝えたくて眠っていた父と母を起こし、「おれ、○○新聞社に入らないかと誘われた。入社すると全国を歩けるんだ」と興奮しながら報告すると、喜んでくれると思った父と母は逆に悲しい目を浮かべた。「マアもこの家からいなくなるのか」。母のそのひと言が堪えた。「マア。ばあさんもこのごろ体が弱ってきてな」。父のひと言が心に染みた。
後を継ぐべく長男夫婦に家を出られ、その次に家に入った兄ともうまくいかず、父と母が最後に頼ったのは末っ子の自分だった。その寂しそうな父と母の顔を見たら、家を離れるわけにはいかなかった。入社を勧めてくれた先輩記者に家庭の事情を話したら「両親の年齢を考えるとねー」と気の毒そうに話したのを覚えている。その先輩記者ももうとうに退職したことだろう。このごろ若い時に世話になった記者仲間からの退職の挨拶状が送られて来る。月日の流れの速さがしみじみと身に染みる。